2018年4月19日木曜日

Ici c'est... Paris

『僕の田舎娘たち』
"Mes Provinciales"

2017年制作フランス映画
監督:ジャン=ポール・シヴェイラック
主演:アンドラニック・マネ、ゴンザーグ・ヴァン・ベルヴェセレス、コランタン・フィラ、ソフィー・ヴェルベーク
フランス公開:2018年4月18日

 物がいっぱい出てきて、いっぱい名著名句引用もあります。この若者たちは愛情/友情の証しのように書物を贈呈し合うのです。映画冒頭、パリの大学で映画を学ぶためにリヨンを離れるエチエンヌ(演アンドラニック・マネ)が、恋人リュシー(演ディアーヌ・ルークセル)と駅での別れに手渡すのがエミリー・ブロンテの『嵐が丘』です。「この訳が一番いいから」などと知ったような口を叩きながら。この若者たちはやたらと本を読み、それを肥やしにして前に進もうとする昔ながらの文学・哲学青年青女のようなところがあります。口をついて引用されるのは、ブレーズ・パスカルジェラール・ド・ネルヴァルノヴァーリス...。この映画のポスターにも印刷され、映画中でも2度3度口にされるのが、ドイツロマン主義詩人ノヴァーリスの詩集『夜の讃歌』(1800年)のこの一節です。
 毎日私は信念と勇気をもって生き、毎夜 恍惚の炎のうちに死ぬ
瞬間瞬間を苛烈に燃焼させて生きること、これがロマン主義の思想です。ロマン主義の目指すもの、それは自己実現です。自分が自分になること。誰のものでもない自己の生を生きること。他者から強いられる生を拒み、お前自身になること。これは明治時代の文学青年の大いなる野望のように思われるかもしれませんが、システムの中に取り込まれまいともがく今日の若者たちにも雄弁な思想に変わりありまっせん。そしてこの映画は今日の映画なのです。マクロン時代のフランスが舞台なのです。
 主人公エチエンヌは映画監督を目指す学生で、地元リヨンにいてはどうしようもない、やはりパリで逸材たちと凌ぎを削って勉強しなければ「本物」になれない、という中央=頂点の幻想があります。私から見ればリヨンなんてフランスの古い大都市で、文化的基盤もしっかりしているように思うし、リヨンで勉強した映画人だって少なくないと思うんですが、「本物志向」からすれば「やっぱりパリでなきゃ」なのかもしれません。
 地方のパリコンプレックスは、このエチエンヌを演じるアンドラニック・モネの容姿にも見えます。床屋嫌いの長髪(70年代的)と甘くナイーヴそうなマスク、顔に釣り合わない長身+がっしり体型(きこりのような田舎っぽさ)と厚手のセーターと万年パーカー、時代と無関係な貧乏学生スタイル(都会人センスゼロ)。それが映画の最初の方で、パリに着いて、地下鉄の標識を感慨深げに見上げるシーンは「おら、東京さ来ただ」なのです。そして貧乏ですから、住居はアパルトマンのコ・ロカシオン(ルームシェア)で、映画の進行でシェアメイトは女→女→男と3人変わります。マットレスだけ、ソファベッドだけ、という空間ですが、ここが貧乏学生たちの溜まり場になって、古き良き青春学生映画のような酒と議論とセックスの舞台となるのです。
 さて、映画の名門「パリ第8大学」なんです。そこには映画創造への熱情に溢れた地方から来た若者たちがゴロゴロと。監督の卵たちですから、みんな曲者ばかりで、個性と感性は激しくぶつかり合っています。しかしその中で飛び抜けた学生というのはやっぱりいるわけで、言うことなすこと羊のような学生たちとはまるで違う。学友の発表作品やら教授の言うことに徹底的な批評を下す。だから敵も多いし、多くの学生たちはこいつとは関わるな、と敬遠するのですが、エチエンヌはこいつが圧倒的に正しいと畏怖敬愛の情を抱く。このマチアス(演コランタン・フィラ)も地方(ボルドー)から出てきた若者で、鋭い感性ときれいな顔立ち(カリブ系の褐色まじり)と計り知れない映画・文学・哲学的リファレンスを持ち、神出鬼没で誰もどこに住んでいるのかも知らない。エチエンヌはマチアスに惹かれ、マチアスと一晩中でも二晩中でも映画の話をしていたい、そして自分のやりたい映画をマチアスに認められたい。友情と言うよりは一方的な師弟願望。恐る恐る見てもらったエチエンヌの試作短編は、柔らかながらマチアスに弱点をズブズブつかれ、エチエンヌは失意のうちに敗北を認め、雪辱作品の制作を誓う。
 このエチエンヌとマチアスの間に入って、エチエンヌを支えようとするのがジャン=ノエル(演ゴンザーグ・ヴァン・ベルヴェセレス)で、ゲイでエチエンヌに一方的な恋慕の情を抱いているのですが、エチエンヌはそれを承知の上で最も近い友情関係を築いていきます。これがいい奴でして。人の良さと立ち回りのうまさで、田舎者エチエンヌをどんどん引っ張っていき、エチエンヌの映画試作にはなくてはならない「助監督」になっていきます。しかしこの友情はその頂点で瓦解します。なぜならいくらジャン=ノエルが尽くし、助言しようが、エチエンヌにとってマチアスのひと言の方が百倍も千倍も重要だということがわかってしまうからです。
 そしてエチエンヌの女性関係です。故郷リヨンに残された恋人リュシーは、可視距離にいないエチエンヌとの恋慕関係に当然不安を抱いてきますが、エチエンヌにはその思いに一点の曇りもないと政治的答弁を繰り返すしかない。曇りはあり、パリには誘惑もあり、その修行中映画人の観察眼視線は若い女を捉えてしまうこともあります。ゲームの時もあれば、知りたい欲のために一歩踏み出さなければならない時もある。
 ここの問題点は二つ。地方人エチエンヌはリヨンをリュシーと父母を包含した、いつでも帰れる母体のように思っているフシがある、ということ。大丈夫か?元気か?という問いによく考えもせずに「大丈夫だよ」と答えてしまうアプリオリな安全地帯のような。リュシーはそれは恋ではないとさっさと見抜いてしまう。第二点は、エチエンヌは自分は映画人となって自己を実現するという「大義」があると思っていること。自分のやりたいことで大成することこそ、父母やリュシーの満足であり、支えてくれる最親者たちへの恩返しである、と。これはフランス語で言うところの "nombrilsme"(ノンブリリスム=自分のへそこそ世界の中心だという考え方、自分のへそしか見ない自己中心主義)の典型なんです。見かけはそうでなくても。
 映画はそういう地方から出てきたロマン主義的な「大義」を夢見る若者が、そのためにいったいどれだけのものを捨て、逆に捨てられていくのか、という軌跡でもあります。
 映画の中でマチアスと同じほどに強烈な個性で異彩を放つのがアナベル(演ソフィー・ヴェルベーク)というポワチエから出てきた娘で、エチエンヌの第二のルームシェア人。アナベルは大学に登録しながら学校にはほとんど行かず、難民支援など現場の活動家として闘っている。地面に足をつけて現実の諸悪に対して行動している、憤激(indigniation)をバネに生きているような激しい娘です。だからこの腐れきった世界と闘うのに「映画なんて何の役に立つのさ」という極論を平気で言う。その極論に(その場に居あわせた)マチアスが激しく反論し、映画的効果による大衆的意識変革の可能性などを説いてみる。この赤々と燃える二つの個性は、この場では平行線の舌戦に終わるのですが、映画は後日談としてマチアスとアナベルが強烈に惹かれ合い、愛し合い、短期間で破局するという「やっぱりなぁ」なエピソードを挿入します。アナベルは誰とも妥協しない。彼女の目から見ればすべてが生ぬるい。この女性も苛烈なロマン主義者である、ということです。
 そう、この映画の中で彗星のような鋭い光を放つのは、マチアスとアナベルしかいないのです。エチエンヌはそれを傍で見ていて、憧れながら、結局そこまでに至らないのです。マチアスはある日、自分のアパルトマンの窓から飛び降り自殺で絶え、アナベルはノートル・ダム・デ・ランド空港反対闘争など、あらゆる闘争の現場に飛び込んでいき、闘士の生を全うする。エチエンヌは置いてけぼりなのです。パリでの大義達成の道程で、たくさんのものを失ったエチエンヌは、結末として映画修行も途中で断念し、テレビ連ドラの制作スタッフという安全パイを選び、聡明で理解ある新しい恋人と、パリの新しいアパルトマンで暮らすという新生活がやってきます。これでいいのかな、とは言わせない、静かなメクトゥーブのエンディングです。私にとってロマン主義とはこう終わるものであって全然構わないのですが、帰り来ぬ青春なのです。そしてそれら(創造や闘争やエゴや....)をすべて包み込んでパリは美しく、このモノクロ映像の区々は多くを若者たちに語っているのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『僕の田舎娘たち』予告編


(↓)Ici c'est...

2018年4月11日水曜日

68年5月のマリアンヌ

ランスの報道カメラマン、ジャン=ピエール・レイ(1936-1995)が1968年5月13日に撮った写真で、初掲載はそれから11日後の5月24日発行のアメリカのグラフ週刊誌「ライフ」。その登場以来、この写真は「パリ5月革命」を象徴するイメージとして、世界中のメディアが取り上げて知られるようになった。その旗を翻すポーズから、ウジェーヌ・ドラクロワの名画「民衆を導く自由の女神」と比較され、いつしかレイのこの写真は「68年5月のマリアンヌ」と呼ばれるようになった。
 68年5月3日、ナンテール大学の「3月22日運動」(ダニエル・コーン=ベンディットをスポークスマンとするアナーキスト派+トロツキスト派+マオイスト派の共闘グループ142人)がソルボンヌ大学構内で集会を開こうとしていたが、大学側の要請で機動隊が出動し、学生たち十数人を逮捕の上、実力で学生たちを排除して校外に追放した。学生たちはおとなしく退散したと見せかけて、ソルボンヌ付近のカルチエラタン街区の道々にバリケードを築き上げる。バリケードの総数は60あったと言われる。支援の学生たち、高校生たち、市民たちがバリケードを支え、機動隊との激しい攻防戦は昼夜を通して繰り広げられ、367人(公式発表)の負傷者を出しながら、5月10日の夜、ついに落城する。この極めて暴力的な警官隊の実力行使はテレビとラジオで実況中継され、多くの市民たちの憤激を買うものとなり、各労組の中央委員会は労働者たちの学生への連帯を訴え、5月13日、ゼネストに突入するのである。
 この学生運動と労働運動が合体した、フランス史上最大のストライキ(スト参加者総数7百万人)の記念すべき初日たる5月13日、フランス全土で500ものデモ行進が組まれ、パリでは労組、未組織労働者、市民、学生、高校生ら数十万人が、レピュブリック広場を出発してダンフェール・ロシュロー広場に至るコースを行進した。件のジャン=ピエール・レイの写真はパリ6区リュクサンブール庭園に近いエドモン・ロスタン広場にさしかかるデモ隊を撮影したもの。
若い女性の名はキャロリーヌ・ド・べンデルン(英国貴族の血を引く23歳、ディオールのマヌカン)、彼女を肩車しているのが画家/造形家/著述家のジャン=ジャック・ルベル(1936 - )。女性が手に持って振っているのは当時の南ヴェトナム解放民族戦線の旗(→)。すなわち、彼女はヴェトナムでのアメリカ軍侵攻に反対する意志表示でこのデモに参加していたというわけである。
 この写真の世界的名声はキャロリーヌ・ド・ベンデルンの人生をおおいに狂わせ、まず、職業としていたオートクチュールのマヌカンができなくなった(「左翼活動家はお断り」)。
 なお、このキャロリーヌ・ド・べンデルンは写真家ジャン=ピエール・レイに対して1978年(10年後)に、肖像権の保護を求める訴訟を起こしているが、裁判では「この写真は歴史的事件の記録が主眼であるである」という理由で肖像権の侵害にあたらないという判断となった。1988年(20年後)と1998年(30年後)にも同様の訴訟を起こしているが、いずれも敗訴している。これが判例となって、歴史的事件の報道写真は中に含まれる人物の肖像権を侵害しない、ということが慣例となったそう。

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 キャロリーヌ・ド・ベンデルンのこと調べていたら、いろいろすごいことがわかってきたので、近々別記事として紹介します。

(↓)キャロリーヌ・ド・ベンデルンが出ている動画(1968年)