2016年8月30日火曜日

ピアノマン

Romain Didier "Dans ce piano tout noir"
ロマン・ディディエ『この真っ黒なピアノの中に』

 マン・ディディエさん(1949年生、現在67歳)には、2011年に亡くなったアラン・ルプレストの縁で、生前のルプレストのコンサート楽屋で2度会ったことがあります。酔いどれの詩人ルプレストとは1985年以来作詞作曲の盟友関係でしたが、ルプレストがパフォーマーとして激しく前面に出て行ったのに対して、ロマン・ディディエは自作自演歌手としては比較的地味なアーチストとして通っていました。ピアノのヴィルツオーゾ、編曲者として多くのシャンソン・アーチストの裏方だったような職人人生。自身の名義のアルバムは20枚以上出しているのに。そんなシャンソン人生を振り返って、「ロマン・ディディエ、ロマン・ディディエを歌う」という形式の全曲メドレーつながりのピアノ弾き語りアルバム。36曲76分。その歌の発表時期を振り返るように、ミッシェル・ルグランやジョルジュ・ブラッサンスなどのメロディーをインターリュードとして挟みながら、自分のシャンソン人生を噛み締めるように自作曲を歌い込みます。これは2015年のアヴィニョン演劇祭の時にスペクタクルとして立ち上げたロマン・ディディエ・ワンマンショーとして創作されたもの。ピアノと歌唱だけの一人世界。目の前で歌ってくれるような息づかい、指づかい。この黒いピアノの中に全てが詰まっている、というピアノマンアーチストのカタルシス。それがアルバムタイトルであり、1988年発表の「この真っ黒のピアノの中に Dans ce piano tout noir」という歌です。
この真っ黒なピアノの中には

この真っ黒なピアノの中には子供時代の霧がある
そのピンク色の霞はあなたの肌にくっついて離れない
シャン・ド・マルスの回転木馬、少し運がよければ
当たりの輪をつかみ取って、もう1回タダで乗れる
この真っ黒のピアノの中にはパリの通りがある
近所の人たちはあまりに早く通り過ぎていった
そこには1台のグランドピアノがあり、夜にはぬいぐるみがひとつ
文豪ユゴーの肖像画は、5フラン札1枚で買えた
この真っ黒なピアノの中には、古い市バスが走っている
大西部を想像して遊んだ郊外の公園がある
夏ヴァカンスはブルターニュに行き、秋にはふさぎの虫にとりつかれた
沢山の恋の悲しみがあり、いろんな名前が心に残っている

この真っ黒なピアノの中にはアナーキストの黒旗がある
海なんて一度も見たことがないサン・ミッシェルの舗石がある
金融資本のこと、(貧民救済)炊き出しスープのことなどを語りながら
映画スターのようにゴロワーズの煙を吹き出した
この真っ黒なピアノの中にはヴェトナムの傷がある
たくさんのボートが死神と出くわしている
戦争があり、流血があり、ドルと武器がある
俺がそれを売らなければ、別の人間がしてしまうのさ
この真っ黒なピアノの中には8時の定時ニュースがある
NASAが映し出す写真、サハラ砂漠の映像
サンチャゴ、ワルシャワ、どこかの不幸の岬
そこでは子供たちが別種の石蹴りで遊んでいる

この真っ黒なピアノの中には白い絹ドレスをまとった娼婦がいる
聖女の乳房はカララ大理石でできている
日曜の装いをした純朴な人たちの惨めさ
ビストロカウンターの語り手たちの長広舌
この真っ黒なピアノの中には私の生命線がある
人っ子ひとりいないカジノに続く緑の絨毯がある
飢えた猫のように待ち伏せている死神がいる
それを笑って見ていたナチ占領時代がある
この真っ黒なピアノの中に私の愛する女がいる
低音の弦と希望の音符を持った女だ
愛から生まれた子供たちが私に主題をくれる
そしてそれを今夜歌うためにすぎていく時間がある

この真っ黒なピアノの中には子供時代の霧がある
そのピンク色の霞はあなたの肌にくっついて離れない
シャン・ド・マルスの回転木馬、少し運がよければ
当たりの輪をつかみ取って、もう1回タダで乗れる

ミッシェル・ジョナス("La Famille" 4曲め)、ムールージ("Un jour tu verras"11曲め)、ジルベール・ベコー("Et maintenant" 24曲め)というロマン・ディディエと共有世界を持つ人の作品3曲を挟みながら、一挙に弾き語ってしまう36曲。多分永遠に終わりたくなさそうなシャンソン職人のとめどない歌心。止めてはいけません。

<<<トラックリスト>>>
1. DANS CE PIANO TOUT NOIR
2. MON ECHARPE GRISE
3. SA JEUNESSE
4. LA FAMILLE (Michel Jonasz)
5. L'ENFANT QUE J'ETAIS
6. MON ENFANCE
7. STASTION EMILE ZOLA
8. JLIE LA LOIRE
9. EN ETE 42 (Michel Legrand)
10. SI UN JOUR C'EST FINI
11. UN JOUR TU VERRAS (Mouloudji)
12. PETIT MATIN
13. LA CHANSON DES VIEUX AMANTS (Georges Brassens)
14. JE T'AIME EN BRAILLE
15. LES PASSANTES
16. LA DAME DE MONTPARNASSE
17. LE DOUX CHAGRIN
18. DANS MA RUE
19. J'AI NOTE
20. TU T'LAISSES ALLER
21. A QUOI CA TIEN
22. TU M'AS VOLE LA MER DU NORD
23. A DES ANNEES LUMIERE
24. ET MAINTENANT (Gilbert Bécaud)
25. IL N'AURAIT FALLU
26. L'AEROPORT DE FIUMICINO
27. PLEURE PAS
28. NE PLEURE PAS JEANNETTE - LE PONT DU NORD
29. LES COMPTINES
30. LA FILLE DU GEOLIER DE NANTES
31. EST-CE AINSI QUE LES HOMMES VIVENT
32. JE ME SOUVIENS
33. DIX PIEDS SOUS TERRE
34. INSOLENTE ET INFIDELE
35. AU BOUT DES RAILS
36. LE CLOCHER DE GREENWICH

ROMAIN DIDIER "DANS CE PIANO TOUT NOIR"
CD TACET/L'AUTRE DISTRIBUTION TCT-RD-10961606
フランスでのリリース:2016年9月23日

(↓)ロマン・ディディエ「この真っ黒なピアノの中には」




 
 

2016年8月22日月曜日

アロー、ママン、ボボ。

MHD "MHD"

MHD、本名モアメド・シラ。ギネア人の父、セネガル人の母のもとに、1994年ヴァンデ地方ラ・ロッシュ・シュル・ヨンに生まれたフランス人のラッパー。 パリ19区を地盤として、アフリカン・ポップとトラップを融合させた「アフロ・トラップ」の先駆
者のひとり。19区の仲間で結成した19 RESEAUXの中心メンバー。
 2016年4月リリースの初ソロアルバム。どうなんでしょうね? この曲 "Maman, j'ai mal"(ママン、俺は苦しい)は、この夏のヴァカンスの南下(行き)&北上(帰り)のカーステで何度も何度も聞かされましたけど。1977年アラン・スーション「アロー・ママン・ボボ」の直系のかあちゃん泣きつきソングでしょうし、スークースのサウンドをバックにしているところはとうちゃん泣きつきソング「パパウテ」(ストロマエ、2013年)的でもある。かあちゃん大切にな。

おまえが金持ちだろうが貧乏だろうが
元のところは一緒なんだ
全能の神の前では同じように報告しなければならない
俺は信仰を持ち続けよう
天使と悪魔のどちらを信じるか、俺はどちらも信じるね
ママンは俺を信頼し、俺のことを勇敢な子だと言った
ママンを問題から救い出すためだったら、俺は腕一本失ったっていい
お国の家族は毎月末俺の金をあてにしている
俺はもう指一本動かす力もないんだ

相変わらずの俺さ、何も変わっちゃいない
俺は人を傷つけたし、それを申し訳なく思っている
夜になれば気晴らしにガキどもをうちに集めて遊んだ
俺についてきたのはいつも同じ連中
俺を嫌ったのも同じ連中
俺は仲間を変えていない
物語の始まりはこんなふうに綴られたんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

家よりもひんぱんにポーチの下に集まっていた仲間も
季節ごとにその数を減らしていった
仲間は俺に言った「MHD、おまえひとりで行けよ
おまえの棺桶にまでついていくやつはひとりもいないよ」
信用は金で買われ、友情は何の価値もない
俺のママンへの愛が盲目なら、俺はレイ・チャールズさ
腕時計を片目で見れば、もう俺の潮時が近づいている
ここから立ち去る前に、俺は俺の仲間たちを踊らせたいんだ

相変わらずの俺さ、何も変わっちゃいない
俺は人を傷つけたし、それを申し訳なく思っている
夜になれば気晴らしにガキどもをうちに集めて遊んだ
俺についてきたのはいつも同じ連中
俺を嫌ったのも同じ連中
俺は仲間を変えていない
物語の始まりはこんなふうに綴られたんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

あれから時は経った
俺にはわかった、成功は決して遠いものじゃないと
俺はグループから離れた
ステージにのぼる時、俺はいつもびくびくするんだ
俺には群衆の声が聞こえる
ママン、心配するな、あんたの息子は大丈夫やりとげるさ
俺は不平を言わない、俺には俺をささえてくれる家族があるんだ
俺は成功するって人は言う、だから俺はその順番を待ってるんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

(MHD "Maman j'ai mal)
MHD "MHD"
CD UNIVERSAL FRANCE 4785833

フランスでのリリース:2016年4月15日


(↓ MHD "Maman j'ai mal)







2016年8月5日金曜日

ギイがすたればこの世は闇だ

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で1999年12月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Christophe Bourseiller "Vie Et Mort de Guy Debord"
クリストフ・ブールセイエ『ギイ・ドボールの生と死』 
(1999年10月刊)
 
 "Faut-il virer Guy Debord?"(ギイ・ドボールを追い出すべきか?)。こういう見出しの1ページ記事が、世界的女性誌の権威とでも言うべきELLE誌の1999年11月22日号に載ったのである。ブーム(フランス語では "phénomène"フェノメーヌ)なのだそうである。確かに一般的な雑誌メディアで昨今よく見る名前である。このELLE誌の記事の中で、いまどきのギイ・ドボールの 信奉者たちについて「ギイ・ドボールを引用する人たちの半数はギイ・ドボールを一度も読んだことがない。そして残りの半数は一度も理解したことがない」と看破している。その代表的著書『スペクタクルの社会(La société du spectacle)』(初刊1967年。邦訳は遅れに遅れて1993年木下誠訳、平凡社から刊行)を読もうが読むまいが、彼の思想シチュアニショニスム(状況主義)を理解しようがしまいが、今。ギイ・ドボールを持ち上げることは、シックでブランシェ(先端的)なことなのである。それは今日フランスで最も先端のTVジャーナリズムと言えるカナル・プリュスや、雑誌レ・ザンロキュプティーブル、新聞リベラシオンなどの、シックでブランシェなトンガリ人種が信奉しているのだから、軽薄な新しモノ好きたちが放っておくわけがない。
 確かにギイ・ドボールに関する書物は今年になって十数種も刊行されており、大規模総合文化ショップチェーンのFNACの各店では、ギイ・ドボールの特設コーナーができたほどである。本書はその中の一冊で、著者クリストフ・ブールセイエは四十代前半のジャーナリストで、あらゆる前衛に関するスペシャリストという特異な専門分野を持つ、TVやラジオにも出演し、さらに副業で映画俳優もするというマルチな男。私はこのブールセイエという人物がかなり前から気になっていた。80年代にパリの週刊シティーガイド誌で、老舗パリスコープ誌とロフィシエル誌という二大ガイド誌に挑戦した "7 à Paris(セッタ・パリ)"という短命なガイド誌があったが、ブールセイエはその副編集長兼主筆であった。この週刊ガイドは、もう最初から老舗2誌と同じことをするのではダメだと悟っており、ガイド誌的情報はきっちり事務的に網羅しておきながら、他の紙面はほとんど冗談に近いアナーキーさで、B級映画ガイド、誰も読まない本の書評。超くだらないレコードのレヴューなどで。一部の熱狂的な読者層をつかむことになる。そして末期には、パリ市議選挙に比例代表制の政党として立候補し、名誉のX%の得票を得て沈没してしまう。このメジャーなメディア社会の中で、これほど世の中を過激におちょくった雑誌の中心人物がブールセイエであった。そして私はブールセイエ(とその先駆的メディア初期リベラシオン紙)から、学び、受け継いだものがある。それは「タイトル・記事見出し」であり、記事内容と何ら関係がなくても、強烈で冗句的で記憶に留まるものであればいい、という見出し・タイトルの付け方である。それは当ホームぺーじの随所で同じポリシーが機能しているので、読書の諸姉諸兄はもう慣れているだろう。
 かつて日本の某音楽雑誌に、アルジェリアのポップ・ミュージックであるライが、イスラム原理主義のテロの猛威の前にかなり変容しているというかなり深刻な記事を寄稿して、そのタイトルに「揺らぐライの足場、アシバライ」とつけたら、見事にボツになった。わからない人たちには通用しないであろうが、私は内容とシンクロしなくてもいいから目立てばいいタイトルの決め方、ということをブールセイエから多くを学んだ。
 そしてブールセイエはそれをギイ・ドボールから学んでいたのである。それは極端な詩的一行であり、一行で決める落書きてき高価であり、「XXX反対」とか「XXX粉砕」とかではない、「真実など何もない、すべては許される Rien est vrai, tout est permis」や「弁証法でレンガが壊せるか? La dialectique peut-elle casser des briques?」や「決して働くことなかれ Ne travaillez jamais」などといった、必殺の一行でなければならないのである。
 1994年ギイ・ドボールが62歳で自殺した時でさえ、一般の人々にはドボールはほとんど無名の人間であった。テレビラジオを初めとした大衆メディアには登場しなかったというだけではない。彼の思想は伝播しづらい性格のものであり、また伝播されることを目的としていない性格もある。
 68年5月革命を準備したと評価されるドボールのシチュアショニスム運動は、その母体となる団体アンテルナシシオナル・シチュアニスト(l'Internationale Situaniste 略称IS)の活動期間(1957-1972),を超えることなく、68年を契機に一時的に広い範囲の支持を得たにも関わらず、度重なる内紛とメディアの黙殺の末に姿を消している。これはメディア的な膨張を極端に嫌うドボールの意図的な拡大防止策であったと言われる。
 パリのブルジョワの家庭に生まれ、南仏に育ち、学生としてパリに登ってきても、自分の衣類を洗濯することも知らなくて、いちいち南仏の祖母に洗濯物を送っていた。1951年、シュールレアリスムから派生した芸術運動レトリスムと合流、1952年、初の長編映画『サドに加担する呻き声』 を発表。この映画は20分のギタギタに分断された対話と、沈黙の1時間、さらに終盤20分は音も映像もない静寂の黒スクリーンが延々と続くというもの。レトリストたちはこの映画の上映によって巻き起こる観客たちの喧騒と怒号を楽しんでいた、というわけである。早くもドボールはこの上映に際して「もはや映画はない。映画は死んだ」と宣言していた。
 スキャンダルと挑発に長けたこの若者は、2年も経たずにレトリスムの頭目イジドール・イズーを乗り越えてしまい、1953年にはその分派アンテルナオシオナル・レトリスト(l'Internationale Lettriste、略称IL)を結成、機関誌ポトラッチ(Potlach)を刊行、芸術と政治の両領域で過激な論を展開するのであった。
 この若き日のドボールにおいて私がとても魅力を感じるのは、彼が若くして無類の酒呑みであり、このような芸術・政治運動の討論も決議も毎日深夜から明け方までのビストロで行われており、彼の周りにはインテリと縁のない泥棒やチンピラなどもいて、猥雑な飲み屋の中の騒然とした環境の中でドボール思想が培われていったということである。そしてビストロの中で居合わせたポルトガル人やモロッコ人と意気投合することが、そのまま「アンテルナシオナル(l'Internationale = 国際組織)」を名乗るスケールになっているのである。深夜の酒場で結団されるアンテルナシオナル、こういう世界の見え方が素敵だ。しかし文字通り「アル中で乱暴者」の彼らは当然の成り行きとして酒場をグジャグジャにしてしまうので、しょっちゅう酒場の出入り禁止を喰らい、行きつけの店をその都度失ってしまい、新しい店に流れていくのである。
 このほとんど愚連隊と言っていいILの行状こそ「日常生活の冒険」として位置付け、第八芸術は生そのものである、という論を機関誌ポトラッチは展開していく。彼らは伝統的左翼のような未来的(社会主義建設)なヴィジョンを問題にせず、今ここにある生、生の場所的現在の変革を訴える。これはドボールと親交のあった(そして後に大げんかして訣別する)唯一の大学人アンリ・ルフェーブルの著『日常生活批判』のベースとなる思想を増幅して戦闘的にしたものと言える。
 その生に局面局面における現場を彼らはシチュアシオン(状況)と呼ぶのである。シュールレアリスム、レトリスム、アナーキズム、そしてアンリ・ルフェーヴルの日常論を母体に、シチュアショニスム(状況主義)(通称SITUシチュ)は生まれた。シチュの基本思想は「剰余労働を強いられた受動的な生と決別して、密度の濃い生の瞬間=状況を作り出すこと」である。またシチュの代表的な68年落書きスローガンでは
Vivre sans temps mort et jouir sans entraves
無為の時間なしに生きること、そして制約なしに楽しむこと
とも言っている。それは彼ら愚連隊が酒場でやっていたことの理論化および思想化であった。
 1957年、アンテルナシオナル・シチュアショニスト(略称IS)が組織され、その同名の機関誌は11年間にわたって縦横無尽言いたい放題の侮辱・誹謗中傷・罵倒の超ラジカル文書を満載していたが、そのほとんどの無署名記事をギイ・ドボールが書いていた。毒筆の矛先は保守体制・政権は言うまでもなく、伝統左翼(スターリニスト)、毛沢東主義者(ジャン=リュック・ゴダールを含む)、既存の権威と共存する思想家(サルトル他)などであった。
 シチュの最も重要なキーワードのひとつが「デトゥルヌマン détournement」である。これは逸らすこと、ずらすこと、といった意味であるが、ハイジャックのような武器の威嚇による無理矢理な方向転換の意味にも使われる。シチュの場合は戦略的な意味の取り違えであったり、強制的な意味の読み替えだったりする。例えばポルノ漫画で性的恍惚に喘ぐ女性の顔の吹き出しに「プロレタリア独裁って素敵だわ...」というセリフを書き込むことである。IS機関誌ではそういうイメージと言葉のコラージュによる強烈な意味の方向転換の図版を多く掲載し、シチュ的デトゥルヌマンのスタイルを作り出す。しかし(...しかしという接続詞ではないか...)80年代頃から商業広告業界が、このデトゥルマンを援用したヒット広告やCMを多数発表することになるのである。

 1967年、ギイ・ドボールの主著『スペクタクルの社会』が刊行される。彼はここで当時まだ世界的に熟したとは言えない来るべき「消費社会」の現実を既に看破しており、商品という「もの」へのフェティシズムに侵食され尽くした資本主義経済(今風な例では日本女性の高級ブランド崇拝のようなものが支配的な消費社会)と、スペクタクル(見世物)という形態を取らなければ現実性を持たなくなってしまったマスメディア中心社会が、生の現実を消し去っていく、という明晰な分析をしている。実際に有益なものよりもブランド付きの無益なものを崇拝する社会、実際の人生よりもテレビに映し出される虚構のドラマにリアリティーを求める社会、ドボールは今から32年前にこの社会の嘘っぱちに否を唱えていたのである。
 1968年、パリ五月革命、シチュは少数派ながら最前線にいた。ここでシチュがトロツキストやマオイストなどの68年運動主流派と決定的に違っていたのは、シチュは大学を資本階級エリートを作るための機関として批判していたのではなく、スペクタクルおよび商品の支配する社会の前衛として批判していたわけで、大学をバリケードで占拠することは資本エリート養成機関の解体よりも、スペクタクルを主体の側に奪い返すことが目的でなければならなかった。すなわち、シチュにとって五月革命は闘争と同時に祝祭であり、宴であった。シチュにとってはバリケードの中にどれだけ多くの酒類が持ち込めるかが最優先の課題のひとつであったのだ。 そして世にも強烈な落書きを創作すること。
 そこなのである。私が体験した70年代初めの日本の新左翼的環境の中において、受験勉強の延長のように政治用語を暗記したようなセクト的ディスクールに辟易し、警察権力と敵対セクトへの憎悪を増幅させるだけの「主体性」(あの頃の流行語であるなあ)の没落した運動に失望していた。なぜ日本で運動は「宴」ではなかったのか。なぜ高度成長期のモーレツサラリーマンのようにがむしゃらな組織(セクト)のディスクールを盲信して突き進むしかなかったのだろうか。
 IS(アンテルナシオナル・シチュアショニスト)はセクトではなかった。なぜなら上層部の指示などないからである。自分の置かれたその場の局面状況を自分でなんとかしなければならない。極端に言えば、シチュでは政治的異議申し立てをすることと酒飲んで暴れることの間に違いなどないのである。シチュアシオンを作るのは自分でしかない。トロツキストやマイオスト等が集団的・集合的な闘争と創造を訴える時、シチュは自分ひとりでやれと突っぱねる。
 そしてまさにこのことがシチュアショニスムの孤独であり、結果として党派として存続しえなかった原因である。ドボールはILの時期から少数精鋭主義の組織構成を貫いており、ドボール思想に心酔したからと言って誰もがクラブ会員になれるというものではなかった。ドボールの先駆と言えるシュールレアリスム運動の頭目アンドレ・ブルトンがそうだったように、ほんの些細なことで組織構成員の多くをバサバサと除名していった。右腕と言われた者も、真のブレインと言われた者も破門されていった。ドボールは暴君であった。
 1968年から69年、ISはやっとアンダーグラウンドから脱し、ドボールの著書『スペクタクルの社会』 と共に一般的な評価を得るところとなったが、ドボールはその評価が高まることを忌み嫌うように沈黙してしまう。なにか事件や現象があるたびに、メディアはISがそれに対してどうコメントするかを待つようになったのである。ドボールはこのメディア(すなわち資本側、体制側)によるシチュの「取り込み利用」(仏語のレキュペラシオン récupération。回収、抱き込み)を警戒するが、時すでに遅し、今やドボールとシチュはまさに自分が予見したスペクタクルのスターシステムの中に取り込まれてしまっている、と悟り屈辱的なショックを受ける。シチュだけではない。「68年5月」という事件そのものもブランド化し、見世物化し、体制側に大幅に取り込み利用されてしまっている。もはやシチュアショニスムはISというブランド化した運動媒体で続けることはできない。1972年、ISは解散し、その後、ドボールはあらゆるレキュペラシオンを回避するように、オーヴァーグラウンドに再浮上することなく長い潜行時代に入る。

 今日私たちは「前衛芸術家」が笑ってテレビに出る時代に生きていて、年端もいかぬ日本の少女たちがヴィトンやエルメスを狂ったように買い求める光景を見ている。ドボールが見破った商品=スペクタクルの社会は、とどまることなく拡張し、その包囲をますます堅固にしている。1999年11月のシアトルの世界貿易機構(WTO)会議は、言わば「スペクタクルの社会」のグローバリゼーション化を目的とした会議であった。前書きで述べたように、ドボールが今、社会現象的に再評価されているのは、どういうことなのか。私はブールセイエのこの評伝を読んで、(何度か読みかけては途中で断念してきた)ドボール著『スペクタクルの社会』を読み直そうとしたが、やはり断念した。スペクタクルの社会のことはもうアップアップするほどよく知っている、という拒否反応のようなものだ。もはや「これは一般教養だから」という風に書店に並べられている本なのだから。
 ドボールの言う、苛烈で密度の濃厚な生の瞬間と状況を創造・実現することは、そのまま酒を飲んで暴れることとして翻訳されることは断じてない。私が3年に一度ほどの割でやってしまう正体なくなるまでの酒乱痴態はシチュアショニスムとは何の関係もない。焼酎アショニスムとでも呼ぶべきものである。

Christophe Bourseiller "Vie et mort de Guy Debord"
Plon刊 1999年10月 453頁

(↓)2013年 BNF国立フランソワ・ミッテラン図書館でのギイ・ドボール回顧展のティーザー動画。

2016年8月4日木曜日

テニスでは"40"が瀬戸際


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2002年2月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Tonino Benacquista "Quelqu'un d'autre"
トニノ・ベナクイスタ『だれか他の人間』
(2002年1月刊)

 多くの男たちにとって40歳というのは魔の年齢である。論語では「四十不惑」(四十歳にして惑わず)と言うが、反語的にこれほど惑う年齢はないからこそ、惑うなと戒めているのかもしれない。人生のちょうど真ん中にさしかかって、半生を振り返って、これでいいのだと自己に肯定的になれる人の数は、こんなものでよかったのだろうかと懐疑的になったり、こんなもんじゃなかったはずだと後悔と否定的な怒りを自分にぶつける人よりずっと少ないはずである。そしてある男たちは病気になる。大厄(男の数え年の42歳)とはよく言ったもので、それまで若いと思って無理を強いてきた自分の肉体がある日言うことを聞かなくなる。変調がやってくる。こんなはずじゃなかったと思う男はとたんに焦り始める。
 半生に激しい悔恨を持つ男は、ある日自分の過去をことごとく抹消して別の人間として再生することを夢想する。誰か他の人間に成り代わってしまうことである。子供の頃に「大きくなったら何になりたいか」と聞かれて答えたことが実現する人間は少ない。そしてそれは大人になってからでは実現が絶対不可能と考えがちである。だが、現実を知り、経験を積んだ四十男こそ、最も具体的にその可能性が得られる年代ではないか。軌道修正あるいは軌道を全く変えてしまうにはこの時期しかない。あるきっかけが巡ってくれば、男はその最後のチャンスに賭けられるかもしれない。
 この小説の主人公の二人の男のきっかけはテニスであった。パリのテニスクラブで、もう何ヶ月もラケットに触っていないティエリー・ブランが、テニス再開の意を決してクラブ登録して、偶然にクラブからあてがわれたパートナーは、そのクラブに登録してからかれこれ2ヶ月経つがパートナーに恵まれないと嘆いていたニコラ・グレジンスキー。初対面の二人は軽く練習ウォームアップをした後、試合をしてみようということになる。試合は立ち見のギャラリーができるほどの大熱戦となり、二人はそれぞれ自分の持つ水準以上のプレイをしていることに自ら驚きながら、本気むき出しの真剣勝負は、第3セット、タイブレークの末ティエリー・ブランが勝利する。初顔合わせの好敵手二人はその後バーに席を移し、熱いテニス談義を交わすのだが、二人の飲む酒は零度に冷やしたヴォトカ。ティエリー・ブランが何気なしに頼んだこの強い酒は、アルコールがほとんど飲めなかったニコラ・グレジンスキーを後にアルコール漬けにするきっかけとなってしまう。彼らの共通のテニスアイドルはビヨルン・ボルグ。冷徹で完全主義的なプレイヤーである。その一番のライバルであったジミー・コナーズは、それとは対照的な力まかせ&インスピレーション型のテニスで、観客を沸かせることではボルグの数倍の人気があったし、人々は勝つボルグに冷淡で、負けるコナーズに絶大な拍手を送った。
ー コナーズは安定性を欠いた、カオスのエネルギーだった。
ー ボルグは完璧さであり、コナーズは霊感であった。
ー 完璧さは往々にして霊感を欠くものである。 
そしてボルグはある日コナーズになってみたいと思ったであろうし、コナーズもまた逆のことを考えたであろう。自分と全く違う他人になること。二人は酒を重ねていくうちに、今日現在の自分がしたいことは何かをあっさりと確認してしまう。それは自分と全く違う他人になることである。二人はこの夜、自分には到底できるはずのなかった好試合をしたこと、自分と似た新しい友を見つけたこと、酩酊するまで飲んだことによって自信が漲り、こんな約束をする。3年後の今月今夜、この場所でもう一度会おう、その時は二人とも全く違う他人になっていよう、と。

 小説は二人の変身の過程をパラレルに描いていくが、その道筋はそれぞれ全く違う。ティエリー・ブランは能動的にアクティヴに具体的に自分が全く違う人格を獲得していく方法を練り上げ、それを実行に移していく。額縁職人としてアトリエと店を持ち、いささか冷めた関係になっている同居女性がいて、風采のあがらないブランは、周到な準備のうちに全貯金を別の場所に移し、アトリエを別の職人に譲渡して蒸発してしまう。ブランは額縁職人という職を捨て、私立探偵事務所で見習い修行をし、1年後に一人前の探偵として独立する。そして顔面専門の整形外科医に巨額の手術代金を払って、全く別の顔を持つ男になり、同時に探偵見習いで見つけたヤミの身分証明作成ルートを使って、「ポール・ヴェルメイレン」という全く新しくしかも合法的なアイデンティティーを獲得してしまう。かくしてティエリー・ブランとは全く姿かたちの違う、ポール・ヴェルメイレンという男がパリから遠く離れたところで、私立探偵事務所を開設することになるのである。
 一方ニコラ・グレジンスキーは巨大企業グループの広告部門に勤める目立たない社員であった。それがこのティエリー・ブランとの出会いの翌日から別人のようになってしまう。原因はその前夜に覚えたアルコールのせいで、それまで彼が外面に出したことがなかった雄弁で大胆な話術が口をついて出てしまうようになる。その日上司は不在であったが、クライアントの激烈なクレームに、グレジンスキーは「責任者に代わって補佐の私がお応えします」と電話を取り、そのさわやかなる弁舌でクライアントを説得・論破してしてしまう。上司はこの不手際の責任をグレジンスキーに取らせることで自分の首をつなぐつもりでいたが、事態は逆に進行し、クライアントはニコラの鮮やかな説得を信頼してしまっており、重役会議の末、ニコラを部門チーフに抜擢、その上司は解雇ということになってしまった。出世とアルコールの日々。彼のセクションはどんどん業績を上げていくが、チーフは型破りで模範的とは言い難いアル中の中間管理職である。
 ある日グレジンスキーは缶入りハイネケン・ビールと缶入りコカコーラ・ライトをオフィスに持ち込み、後者の中身を捨て、そのアルミ缶の上蓋部と底部をハサミで切り離し、残った円筒部をタテせんで切り、ハイネケン缶にかぶせた。そうするとハイネケン缶は外面上はコカコーラ・ライト缶となる。オフィスでアルコールを飲むことを見られまいとすることから出た知恵だが、このアイディアをグレジンスキーは「トリックパック」と名付けて、特許局に実用新案として登録してしまう。これが何ヶ月も待たずして、外国の包装会社が次々と権利を買い取り、缶入り飲料の商品名隠しだけでなく、自分の飲み物を個性的に見せる新しいパッケージとして大ヒットしてしまう。飲料名のパロディーや有名キャラクターを使用したもの、さらにアーチストによるオリジナル作品など、「トリックパック」はどんどん新手のものを作っていく。おかげでニコラ・グレジンスキーはこの巨大企業グループの中間管理職として得る収入の数倍の金額が毎月転がり込んでくることになる。
 ポール・ヴェルメイレンとして新しい人生を送っていた男はある日新聞のお悔やみ広告欄に「1年前に姿を消したティエリー・ブランを偲ぶ友の会開催のお知らせ」を見つけて愕然とする。ティエリー・ブランは遂に死んだのである。しかしそのティエリー・ブランを偲ぶ友人たちがいたとは彼自身知りもしなかった。大いに好奇心をそそられ、それに乗じて彼は「友の会」の日にその会場まで出向いてしまうのである。私立探偵ヴェルメイレンは、かつてティエリー・ブランがそのクライアントの一人であったという口実でこの会に紛れ込み、かつての恋人や知り合いたちが事実に忠実だったり忠実でなかったりする死者(つまり自分)の思い出話をするのを聞いている。しかし、この会の中で一人だけティエリー・ブランは死んでいないと確信している人間がいる。額縁アトリエの雇われ女性会計士で、この会を主催した人物であり、彼女はティエリー・ブランに気付かれぬまま長い年月彼を恋慕していたのである。彼女はたとえ警察の捜索が打ち切られてもブランの生存を信じており、その思念の強さのあまり初対面の私立探偵ヴェルメイレンにブランの捜索調査を依頼してしまう。
 巨大企業で誰の目もはばかることなくアルコールに浸りながら業績を上げていく男グレジンスキーは、地位を得、金を得、そして恋も得てしまう。美しくインテリで酒に造詣の深い女性ロレーヌとは常にホテルで会ってホテルで別れる関係(因みにそのホテルはパリ15区の「ニッコー」)である。彼女はその日中の生活については秘密を守っている。二人は深く愛し合い、おたがいを理想のパートナーと思っているが、その関係を崩すのは、木下順二「夕鶴」 の例に同じ、見てはいけないと言っておいたものを見てしまう男の深い業である。グレジンスキーはある日会社を抜け出して、嫌がるロレーヌを昼に呼び出して、その上その後彼女を尾行し、彼女が食品スーパーのレジ係として働いていることを見てしまう。彼女はそれだけは見られたくなかった。ロレーヌは昼はそうして働き、夕方はワイン学の講座で学び、来るべき自分の世界のどこにもないワインショップの開店を準備していたのだ。つまり彼女もティエリー・ブラン、ニコラ・グレジンスキーと同じく、全く別の人間になることを自分に賭けていたのだ。これを見られたロレーヌはニコラを許さない。
 蒸発した過去の自分自身を捜索する私立探偵、この部分はこの小説で最も面白いハイライトの部分であり、ここで多くを説明することは避けるが、名探偵ヴェルメイレンは別のティエリー・ブランを新たに創作し、その実像は依頼主の女会計士が恋い焦がれていたティエリートは似ても似つかぬ男であった、という迷案によってかろうじて逃げ切るのである。これはハラハラものであるが、恋は盲目、女会計士はまんまと説得させられ、このティエリー・ブランもいなかったことにしましょう、という結論で手を打つ。これでヴェルメイレンは二度ティエリー・ブランを殺したことになる。

 この小説の構図はプロローグでのボルグ対コナーズの対比からはっきりしていて、ティエリー・ブラン/ポール・ヴェルメイレンは用意周到完璧主義のボルグのタイプで、ニコラ・グレジンスキーは霊感型で破滅型でもあるコナーズタイプの人間なのだ。グレジンスキーには、企業を放逐され、ロレーヌに捨てられ、かつての上司から銃撃されるというカタストロフが最後にやってくるが、負けてもコナーズは大喝采されるように、作者ベナクイスタはグレジンスキーにハッピーエンドを用意している。
 3年後の約束の日、姿かたちが変わって中身が変わらない完璧主義のブラン/ヴェルメイレンと、姿かたちは変わらないが中身が大変身を遂げた霊感型のグレジンスキーが再会する。素晴らしいエンディング。
 四十男の変身願望を二つの全く異なる対照的な人物像を使って、どちらも成功させてしまうパラレルな小説。テニス論、企業ストーリー、変身蒸発、発明サクセス、探偵ミステリー、アルコール讃歌、ラヴロマンス...、盛り沢山の270ページ。なによりも、人生半ばにさしかかった人たちには応援歌のように受け取れる小説ではないだろうか。

Tonino Benacquista "QUELQU'UN D'AUTRE"
Gallimard刊 2002年1月  270頁  

(↓)ボルグ vs コナーズ (ウィンブルドン 1977)

2016年8月3日水曜日

帰れない放蕩息子


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2004年10月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Philippe Besson "Les Jours Fragiles"
フィリップ・ベッソン『脆い日々』
(2004年8月刊)

 『脆い日々』 は詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)の最晩年を見届けた詩人の妹、イザベル・ランボーの日記という形式で書かれた小説である。フィリップ・ベッソンは2001年の第二作め『Son frère 彼の兄』(2001年11月のおフレンチ・ミュージック・クラブ「今月の一冊」で紹介)で注目された三十代の作家で、『彼の兄』はパトリス・シェローによって映画化もされた。この『彼の兄』は病気で死が宣告されている弟を最後まで看取る兄の日記として書かれた、透明な近親愛の悲しみに満ちた作品であったが、この新作(5作め)はそのヴァリエーションであるかのように、死にゆく兄を見つめる妹の、内に秘めながら燃えていく近親愛を押し殺しながら献身する魂の記録である。
 詩人ランボーの最晩年の姿を照射するというのはこの小説の主題ではないが、一応その背景として詩人の生涯を紹介しておくと、アルチュールは北フランス、アルデンヌ地方の地主を母親とし、軍人を父として男児二人女児二人の兄弟姉妹の次男として生まれている。父親とは幼い時期に別居しており、4人の子供は母親の許で育てられるが、妹ヴィタリーは病死、兄フレデリックは別居して疎遠になっていく。アルチュールは1870年に最初の家出。パリ、次いでベルギーへ。1871年パリ、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844-1896) と同性愛生活。1872 - 1873年、ヴェルレーヌとイギリスとベルギーを放浪。1873年5月破局。7月10日、ヴェルレーヌがランボーに発砲、負傷させる。この1873年でランボーの詩作活動は終わってしまう。ランボー詩集(1869-1873年)、『イリュミナシオン』(1871年執筆、刊行は1886年)、『地獄の季節』(1873年)。ランボーは19歳で筆を折り、イギリス、ドイツ、イタリアを放浪、オランダの植民地軍の外人部隊兵、スカンジナヴィアのサーカス団の通訳、キプロス島の工事現場監督などを経験した後、1880年から91年初めまで東アフリカで象牙と武器の商人となる。1891年5月、片膝に腫瘍ができ、その手術のためにフランスに帰国。マルセイユの病院で片脚切断。
 
 小説は片脚となった兄アルチュールの帰郷をアルデンヌの村で待つイザベルの日記から始まる。 言うまでもなくイザベル・ランボー(1860-1917)は実在の人物であり、またイザベルが描いた病床でのランボーの姿は、幾多のランボー評伝に必ず登場するデッサン作品である。そしてイザベルの日記というのも実際に存在し、この小説でも実際にイザベルが書いた部分はイタリック体で印刷され、原文のまま転写されている。それ以外はすべてフィリップ・ベッソンの創作である。
 マルセイユに帰港したランボーに会いに行くのは母親である。その間の家ののうちのすべての管理はイザベルに任され、イザベルは疲労のために倒れてしまう。この家は男たちがみんな出て行く家だ、とイザベルは述懐する。父と二人の兄は出て行ってしまって帰ってこない。残るは二人の女である。冷徹でもあり強靭でもある母親だからこの家が管理できるのであり、それを継ぐのは私しかいない、という宿命的な自覚がある。自分は損な女である。恋も男も知らない。自分は兄のように家出することなどなく、このまま家にいて、母を継いで死んでいくだろうと、憂鬱だが受け入れなければならない未来像が見える。自分は平凡な顔立ちと貧弱な肉体をした女であるが、アルチュールは美しい容姿と射るような目を持った少年だった。その兄がどのような姿になって帰ってくるのか、とイザベルは想像してみる。
 結局母親はアルチュールをマルセイユから連れ帰ることができない。この二人は決して和解することがないのである。神がアルチュールを赦したとしても、母親はこの息子を決して赦さない。その理由は小説の最後部で分かってくるのだが、母親がこの息子の何を憎んでいるのかというと、そのホモセクシュアリティーなのである。神に背く大罪を背負った息子と見なしているのである。
 アルチュールはひとりでアルデンヌに帰ってくる。それを駅で迎えるのがイザベルであり、彼の部屋を用意し、彼の介護をし、彼の便宜をすべてはかるのがイザベルの仕事となる。母親はイザベルがアルチュールにかかりきりになることをよく思っていない。この小説で母親は一貫して冷酷な人間として描かれるが、イザベルはこの母親を理解し、弁護する側にも立つ。
 片脚を切断しても腫瘍はすでに転移しており、アルチュールの病状は悪化する一方である。モルヒネとイザベルが調剤する煎じ薬草で痛みを抑えながら、アルチュールはイザベルに心を開いていく。母親に愛されなかったアルチュール、女性を愛することがなかったアルチュールは、なぜイザベルにだけ真の打明け話ができるのか。それは兄妹という関係だからというわけではなく、イザベルに「女性」を見ることができないからなのだ。イザベルはこのコンプレックスを超えて、兄アルチュールと初めてある種の共犯関係を築くことができ、それに異常なまでの興奮を示していくのである。

 兄が死にゆくことを知っているイザベルは、アルチュールの最期の日までの検診を自分に課し、詩人の望みを叶えるためのあらゆる努力を払う。太陽に憧れたアルチュールは、その太陽によって命を縮めた、とイザベルは言う。死にゆく床にある詩人は、それでもなおアフリカに帰らなければならないと強く望んでいる。ランボーにとってアフリカはどんなことがあっても約束の地なのである。そしてそこには彼と結ばれることを待つ恋人もいる、とイザベルは告白される。アデンにいるジャミという名の若者である。この青年となんとかして結ばれたいとアルチュールはイザベルに訴える。
 かくして詩人は無謀なアフリカ再渡航を妹に嘆願し、妹は不可能を知りつつアルチュールの望むままにアルデンヌの村を出て、マルセイユ経由でアフリカへという旅に立ち会うのである。しかし病状の悪化で経由地のマルセイユで足留めを喰らい、その6ヶ月前に片脚
切断手術をした同じ病院に収容されることになる。そしてそこがランボーの死の床となるのである。
 幾多のランボー評伝での論議されていることのひとつに、死を直前にしてランボーが悔悛し、キリスト教に帰依し、キリスト者として死ぬことを選んだ、ということがある。反逆の少年詩人は神を呪い、キリスト教を侮辱する言葉を多く残した。それがなぜ最終的にキリスト教的来世に至ることを望むようになったのか。この小説ではイザベルが敬虔なキリスト者であり、アルチュールがキリスト者として神に召されることを強く希望していたことが描かれている。しかし死の床でランボーが和解したかったのは、神ではなく、母親ではなかったろうか。キリスト者として妹と母親の側の人間となることで、神ではなく母親の赦しを願ったのではないか。イザベルは兄のキリスト教帰依をアルデンヌに残る母親に早速手紙で書き送るのだが、母親の反応はない。母親は絶対にこの息子と和解することはないのだ。
 農地と共に生きる定住者のイザベルと、自由と太陽を求めて放浪する兄アルチュール、この極端に違う二つの魂に流れるのは母親の「悪い血」である。イザベルは受け入れて生き、アルチュールは拒絶して死ぬ。生まれて初めてこの二つの魂は、たった半年間だけ強く結びつくのである。小説はイザベルの側から書かれているから、アルチュールの心情は隠されたままであるが、兄の最後に向かって振幅をいよいよ大きくしていくイザベルの心の揺れが鮮明に描かれている。その揺れは兄の死と共に跡形もなく消え去ってしまう。

 詩人ランボーの最後がどうであったか、ということは文学史研究者に任せておけばいい。フィリップ・ベッソンはその罠に陥ることなくこのフィクションを書き上げた。話者イザベルが見ている悲劇的に分裂している家族のドラマを背景に、その最も強烈な二つの核である母親と兄の間にいるイザベルの最初で最後の反抗の物語である。反抗者に同伴した者の記録ではない。初めて自ら反抗した者の日記である。読む者は必ずや強烈な悲しみに身震いするであろう、

Philippe Besson "Les Jours Fragiles"
Julliard刊 2004年8月 190頁 18ユーロ 

(↓)2004年10月、フランス国営テレビFRANCE 3の図書紹介番組 "1JOUR 1 LIVRE"、オリヴィエ・バロによるフィリップ・ベッソンインタヴュー。

Philippe Besson : Les jours fragiles par ina

2016年8月2日火曜日

餅はモディアノ


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2005年2月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Patrick Modiano "Un Pédigree"
パトリック・モディアノ『ある血統』
 (2004年12月刊 )

 これは20世紀後半のフランスを代表する作家パトリック・モディアノが、いかにして作家になったかを、自から解題する作品である。
 私には読後すぐに、この小説からある程度距離のある二つのことが頭に上ってきた。ひとつはあの善良なアナキン・スカイウォーカーが、いかにして悪の権化ダース・ベーダーになりえたか、ということである。ジョージ・ルーカスはその『スター・ウォーズ/エピソード 1.2.3』という長大なサーガでそれを説明しようとするのであるが、そこで悪いのは「血」ではない。モディアノはこの自伝的な小説を『ある血統』と題することで、ある血の問題が介在することを喚起しているわけだが、スター・ウォーズ的な表現を使えば、確かにモディアノの父親はダークサイド(フランス語では côté obscur コテ・オプスキュール)の側の人間であり、ユダヤ人にして第二次大戦中の対独協力者かつブラックマーケットの商人であった。
 もうひとつはドイツの乗用車メーカー、アウディの2005年冬のTVコマーシャルスポットで、そのスローガンは "La mémoire est séléctive"(記憶は選択的である)というものである。

4つの例が出てきて、ぼやけた背景の中からブランコに乗った二人の少女だけが鮮明な画像で現れて消え、ふたつめは人に連れられた吠える猛犬(猛犬しか見えない)、三つめはバレエの男女ペアの踊りで、男の腕に倒れ込む女性バレリーナの顔だけがはっきり見えて他はぼやけている。4つめはアウディの車からドアを開けてひとりの人間が降りてくるが、その人間は全く目に入らず(=ぼやけていて)、アウディ車の姿だけが記憶に残る、というもの。記憶は確かに選択的である。往々にして自伝的な作品とはその選択された記憶の記録だけに終始するものである。だが、このモディアノの小説では鮮明でないぼやけた部分こそ重要なものであり、曖昧な状態のまま網羅的に記述される日時、場所の名前、あった事実の数々は選択的に書かれているのではなく、むしろ飛行機事故後に飛行操縦士の全会話が録音されたブラックボックスを開く思いがする。何がカギで何がカギでないのかをモディアノは選択していないのだ。

 パトリック・モディアノは1945年7月に生まれ、1967年に作家となっている。この『ある血統』はモディアノが生まれてから21歳(当時の成人年齢)になるまで、ひいては作家になるまでを描いた自伝小説である。
 モディアノの父親と母親はフランスがドイツによって占領されていた時代に知り合っている。上に書いたように父親はユダヤ人・対独協力者・闇商人であり、複数の名前と住所を持っている。母親はベルギー・フランドル人の女優であったが、芸能人として派手な立ち回りこそすれ、一度も主役として成功することのない、名前のないアーチストである。この二人は戦後になって同じ住所(パリ5区コンティ河岸)同じ建物の別の階に住み、それぞれ別々の生活を送るようになる。父親は杳として実態のつかめない「実業」の世界にあり、母親は女優として劇場や映画撮影に出かけていく。早々と崩壊してしまった家庭の中で主人公は育つことになるが、疎んじられた息子でありながら、父親も母親も親の義務は果たそうとするポーズは見せていて、それと同時に親の権利だけは大いに主張してくる。特に教育に関して父親は口うるさい。あからさまに自分たちの日常生活から息子を遠ざけるように、父親はできるだけパリから遠く、できるだけ厳格な寄宿学校を選んで「私」を送り込む。
 小説は雑作もなく偶然に保存されていた多くの古写真や、学業ノート、会計帳簿、名簿、住所録、電話番号簿、新聞スクラップ、地下鉄や国鉄の切符、それらをつなぎ合わせた瞬時のスライド連続映写のように、余計な感傷的コメントを差し挟まずに展開していく。他のモディアノの著作では重要事件となっている弟リュディーの死も、この小説では多くの事件のうちのひとつでしかない。そしていくらたくさんの断片を集めてきても、パズルは組みあわされることはなく、その全体像はぼやけたままである。
 余は如何にして小説家なりしか。
 それはなぜ「私」は父親にも母親にも愛されることがなかったのか、ということと隣り合わせた問題であろう。女優で稼ぎが止まってしまった母親が無一文になり、生活することもままならなくなった時、その生活費をせびりに父親の許に行かされる少年の「私」。そこから戻ってきた「私」よりも、「私」が請いせがんで得ることができた金額にのみ興味がある母親。凄絶な図である。
 「私」が父親に近づくことを力ずくで邪魔しようとする父親の情婦「偽ミレーヌ・ドモンジョ」。そして父親を取り巻き、父親と関係のある、フランスの陰の世界の人々。「私」はそれらを子供〜少年の目で観察している。蠢めく陰の世界はナチス占領時代からアルジェリア戦争時代へと推移しても、その姿をアメーバ状に変容させながらその勢力を決して失うことはなかった。幼い頃からそれと関係を持ちながら生きてきた「私」は、その一味の息子なのである。父親に愛されることはなくても「私」はその息子なのだ。「ある血統」は決して否定されることはない。
 50年代から60年代へ、崩壊された家庭の息子である「私」は、寄宿学校で本の虫となっている。文学はこの孤独な魂を救済するか。モディアノはこの小説で文学が「私」を救ったなどということはひとことも書いていない。救われようが救われまいが、「私」には逃げ隠れする場所がほとんどなかったのだ。そして1966年という自分の成人の年が近づくにつれて、「私」はパリの町を浮浪するように、寝場所を転々と変えて逃げ回っている。逃げているのは、兵役と父親の執拗で父権的な指図からである。この小説の最後は、火の出るような父親と息子の手紙の応酬となっている。一日も早く息子を兵役に送り込んで厄介払いをしようとする父親と、それを拒否する息子の衝突は、この「成人=21歳」という境において爆発し、法的におまえを養育する義務はなくなったのだから、今後一切の援助はないと思え、という手紙に、「私」は成人となったのだから自分の責任はすべて自分で負い父親の援助は一切必要としない、と書き返すのである。この手紙の応酬の後、二人は二度と交信も再会もしていない。文字通り絶縁状の応酬だったのである。
 1967年6月、モディアノは出版社から最初の作品との契約の連絡を受ける。
Ce soir-là, je m'étais senti léger pour la première fois de ma vie
(その夜、私は生まれて初めて自分の体を軽く感じたのだった)
 21年間の生のあらゆる脅迫と不安から解き放たれて、その夜モディアノは作家になった。この日の記憶のためにモディアノは何編でも小説を書けたであろうが、この日のことを明らかにする小説は37年後になって初めて書かれたのである。時が経つほど記憶は断片的になっているだろうが、時が経たなければ明らかにできない深い傷の痛々しさはこの小説のあちらこちらに散らばっている。
 モディアノを既に読んでいた人たちは、この小説でこの作家の核の部分をかなり深く知ることができるであろうし、読んでいなかった人たちは、この作家のあらゆる作品を読みたくなるであろう。

Patrick Modiano "Un Pédigrée"
Gallimard刊 2004年12月 19,50ユーロ

(↓)モディアノ『ある血統』の YouTube個人投稿による紹介クリップ。
 
★★★爺ブログ内のモディアノ関連記事★★★ 
- 2007年10月13日『失われた青春のカフェ
- 2010年3月22日『視界
- 2012年11月1日『夜の草
- 2014年10月10日『作詞家モディアノの妙
- 2014年10月25日『おまえが迷子にならないように



 

2016年8月1日月曜日

裏庭には二羽


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2006年5月に掲載されたものの加筆修正再録です。


J.M.G. Le Clézio "Ourania"
J.M.G. ル・クレジオ『ウーラニア』

(2006年2月刊)


 J'ai inventé un pays - 私はある国を考案した。
 小説の序章となる10ページ部分は、第二次大戦の激戦期に少年だった話者ダニエルが、ギリシャ神話から想像して創りあげた国、ウーラニアについて語られる。少年の日に作られた国は、二度と再訪することができない。ある者はそれをネヴァーランドと呼んだり、ユートピアと呼んだりするわけだが、その国はどこにもない。あるいはそれは二度と還ることのできない子供時代のことである、という者もある。しかしこの小説はウーラニアは実際に存在した、という結論が最後に待ち受けているのである。
 話者ダニエル・シリトーは成人してパリ大学の地理教授となり、研究者としてメキシコにやってくる。その旅の途中の長距離バスの中で、ダニエルはひとりの奇妙な少年ラファエル・ザキャリーと邂逅する。ラファエルは北カナダのフランス語圏の町で生まれ、刑期を終えていない囚人である父親に連れられてメキシコに南下し、山あいにあるカンポスという村の共同体にあずけられた。カンポスでは同じように問題のある子供たちが多く共同生活をしていて、自分たち固有の言語でしゃべり、農耕で自給自足し、学校はないが年長者から知識を伝授されて、人々は自由で調和のとれた生活を営んでいた。ダニエルはラファエルから聴かされるこの共同体の存在に強烈に惹かれていく。
 一方ダニエルが地理学者として招待された場所は、肥沃な農場地帯の丘の上にあるエンボリオと言われる総合人類学研究所で、俗世間がら離れた古代ギリシャの学問の園のように、学者たちの自由を尊重する知の理想郷を目指して作られた学術共同体であった。この場所を作ったトマス・モイーズは、付近の富豪農家の出身ではなく、山奥のインディオ出身の家系で、教育者や聖職者や裁判官などを世に送って来た家柄の末裔であった。すなわち戦乱や革命を乗り越えて、権力から独立を守ることで血筋を継いできた理念を持った家柄である。この研究所は定期的に一般に開放され、知の公開と交換が行われる。
 「メキシコのスイス」と呼ばれるメキシコ国内では例外的に豊かなこの地方で、ダニエルはふたつの理想郷が崩壊していくのを証言する、というのがこの小説の大筋である。豊かな地方と書いたが、大規模果樹園とその缶詰工場の周辺には貧困がいくらでも存在し、女性労働者たちの劣悪な労働条件や、一日中ゴミ捨て場にいて再利用可能なものを探してまわる子供たちなどを、作者は克明に描写している。そして歓楽地区で女衒に囚われているリリという名の娼婦について、エンボリオにいる学者たちは冗談のタネにことすれ、誰も彼女を救おうとはしない。
 この小説にはこの囚われの娼婦リリの他にもうひとり重要な女性が登場する。ダリアという名前のプエルトリコ女性で、プエルトリコ革命の闘士との間にひとり男児をもうけたが、離婚して子供は父親の許で育てられている。ダリアはダニエルと恋愛関係を持ちながらも、子供と共に住むという夢が捨てられず、ダニエルとは一緒になったり離れたりを繰り返す。この女性は元夫(すなわち革命の幻想)も捨てられない、中南米のロマン主義を体現したような大地の女である。だからダニエルのいる学者の世界とはそりが合わない。
 そしてグローバリゼーション的現実はこの地方にも明らかであり、土地の有力者(すなわち果樹園富豪農家と缶詰工場経営者)たちは、ダニエルの地理学的研究がエコロジスト的な学説を説くことを好まないし、学問の園が革命闘士(ダリアの元夫)を匿うことを好まない。そしてこの研究都市が世界的名声を得たことで土地利権も上昇してくる。彼らの利益拡大を狙って、彼らが牛耳っている地方新聞で論陣を張り、地方行政府にも圧力をかける。
 その土地利権の操作の鉾先はまずカンポスに向けられる。地方新聞はこの共同体を麻薬を常用するヒッピーのセクトとして攻撃し、地方行政府はこの集団を土地から追放することを決定してしまう。次にエンボリオに対しては、学者たちの意見の対立と権力争いをまんまと利用して、研究所運営に関するトマス・モイーズの実質的指導権を剥奪してしまう。
 小説は楽園を追放され、新しい入植地を求めて集団で南下していくカンポスの人たちのエクソダスを、宗教的受難の旅に模して描いていく。証言者はラファエル・ザキャリーと、集団の指導者的立場にあったジャディことアンソニー・マーティン。父親がフランス人、母親が北米インディアンであるマーティンは、18歳で太平洋戦争に動員され、グアム島、ウェイク島、沖縄で戦い、母島(ははじま)に上陸後に隊からはぐれ、終戦を知らずに数ヶ月間 ジャングルの中に隠れて生存していた。こういう体験からマーティンは軍隊と戦争に対する反感を育み、星を読む術とサヴァイヴァル術を身につけていった。80年代にマーティンはカンポスを組織し、その相談役(conseiller)として共同体を指導していった。小家族概念を捨て、結婚を否定した大家族主義での集団生活を実践し、親権を否定して年長者と熟練者を尊ぶ。学校や授業はないが、学習は随時行う。集団成員の異なるルーツの複数の言語と鳥の鳴き声を模倣した擬音語を混ぜ合わせたピジン語「エレメン」を集団の共通言語とする。宗教の介在を否定するが、個人レベルでの神の概念は否定しない。集団の中に医者はいないが、病気と怪我は薬草とマッサージによって治療する。男女平等、子供を含む老若平等主義にもとづく合議制....。
 このような共同体を外側の人々はセクトともヒッピーとも呼ぶ。父親の牢獄生活のせいで普通の学校ではトラブルが絶えなかったラファエルは、ここで労働と学習と集団生活の意味を理解する少年に変身していく。同じような問題を抱えた子供たちがたくさんこの集落に送られ、その中に溶け込んでいく。メキシコ社会の世間の目からすれば、ゴミ捨て場あさりをする子供たちとコンピュータ遊びをする子供たちは正常に見えても、麻布をまとって集団農場で働く子供たちは異常に見えるのだ。
 ル・クレジオはこの二つのユートピアのうち、カンポスの悲劇の方をより重要に描いているし、メキシコの深部に生きる自由人たちまでも放逐してしまおうとする現代社会の経済&モラル原則に激しい憤りをぶつけている。 ジャディー/アンソニー・マーティンは集団を率いて南へ下り、人の住まない珊瑚礁の島に新天地を求めるが、その道半ばで病いに襲われ、身体が麻痺した状態で島に辿り着き、そこで息絶えてしまう。じゃディーの予言と計算とはおおいに違って、その珊瑚礁の島で生きることは不可能とわかったカンポスの人々は、目的を失い四散してしまう。
 もうひとつの崩壊したユートピアであるエンポリオに幻滅したダニエルは訣別して去って行く。しかしその二つの悲劇にはさまれながら、囚われの娼婦リリーは女衒の拘束下から脱走してアメリカに至り、またプエルトリコに還ったダリアはエイズ患者などの子供たちをケアするセンターを開設している。

 これは希望の小説である。二つのユートピアの崩壊するさまを証言しながら、その夢は決して消えることはないと断言している、言わばヒューマニティー讃歌である。こんなにもはっきりと世界のリベラル資本主義と排外的モラル主義を非難して、今人間が選ぶべき道を説くことなど、ル・クレジオには珍しいことである。希望はあると作家は言う。少年ダニエルが夢見たウーラニアという国は、確かに存在したのだ、と少年期を裏切らない結語は、この小説を読む者の最大の幸福の瞬間である。
 そしてル・クレジオ作品に親しい人たちには、絵文字や星の言葉や地理やピジン言語など、彼の初期作品群にたくさん出てきたナイーヴな不思議ごとが、この小説にも重要な役割をもって再登場していることもうれしいはずだ。たいへんな若返りを思わせるのは、この希望的なヴィジョンのおかげだろう。

J.M.G. Le Clézio "OURANIA"
Gallimard刊 2006年2月 20ユーロ

(↓)『ウーラニア』刊行時のフランス国営テレビFRANCEのニュースでの作品紹介ルポルタージュ。


★★★爺ブログ内のル・クレジオ関連記事★★★
- 2008年10月9日『永遠に旅するル・クレジ王』 
- 2008年10月15日『飢餓のリトルネロ
- 2011年2月19日『ル・クレジオ、サルコジの傲慢さに憤激する
- 2014年4月21日『しけ -  二篇のノヴェラ