2016年8月5日金曜日

ギイがすたればこの世は闇だ

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で1999年12月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Christophe Bourseiller "Vie Et Mort de Guy Debord"
クリストフ・ブールセイエ『ギイ・ドボールの生と死』 
(1999年10月刊)
 
 "Faut-il virer Guy Debord?"(ギイ・ドボールを追い出すべきか?)。こういう見出しの1ページ記事が、世界的女性誌の権威とでも言うべきELLE誌の1999年11月22日号に載ったのである。ブーム(フランス語では "phénomène"フェノメーヌ)なのだそうである。確かに一般的な雑誌メディアで昨今よく見る名前である。このELLE誌の記事の中で、いまどきのギイ・ドボールの 信奉者たちについて「ギイ・ドボールを引用する人たちの半数はギイ・ドボールを一度も読んだことがない。そして残りの半数は一度も理解したことがない」と看破している。その代表的著書『スペクタクルの社会(La société du spectacle)』(初刊1967年。邦訳は遅れに遅れて1993年木下誠訳、平凡社から刊行)を読もうが読むまいが、彼の思想シチュアニショニスム(状況主義)を理解しようがしまいが、今、ギイ・ドボールを持ち上げることは、シックでブランシェ(先端的)なことなのである。それは今日フランスで最も先端のTVジャーナリズムと言えるカナル・プリュスや、雑誌レ・ザンロキュプティーブル、新聞リベラシオンなどの、シックでブランシェなトンガリ人種が信奉しているのだから、軽薄な新しモノ好きたちが放っておくわけがない。
 確かにギイ・ドボールに関する書物は今年になって十数種も刊行されており、大規模総合文化ショップチェーンのFNACの各店では、ギイ・ドボールの特設コーナーができたほどである。本書はその中の一冊で、著者クリストフ・ブールセイエは四十代前半のジャーナリストで、あらゆる前衛に関するスペシャリストという特異な専門分野を持つ、TVやラジオにも出演し、さらに副業で映画俳優もするというマルチな男。私はこのブールセイエという人物がかなり前から気になっていた。80年代にパリの週刊シティーガイド誌で、老舗パリスコープ誌とロフィシエル誌という二大ガイド誌に挑戦した "7 à Paris(セッタ・パリ)"という短命なガイド誌があったが、ブールセイエはその副編集長兼主筆であった。この週刊ガイドは、もう最初から老舗2誌と同じことをするのではダメだと悟っており、ガイド誌的情報はきっちり事務的に網羅しておきながら、他の紙面はほとんど冗談に近いアナーキーさで、B級映画ガイド、誰も読まない本の書評。超くだらないレコードのレヴューなどで。一部の熱狂的な読者層をつかむことになる。そして末期には、パリ市議選挙に比例代表制の政党として立候補し、名誉のX%の得票を得て沈没してしまう。このメジャーなメディア社会の中で、これほど世の中を過激におちょくった雑誌の中心人物がブールセイエであった。そして私はブールセイエ(とその先駆的メディア初期リベラシオン紙)から、学び、受け継いだものがある。それは「タイトル・記事見出し」であり、記事内容と何ら関係がなくても、強烈で冗句的で記憶に留まるものであればいい、という見出し・タイトルの付け方である。それは当ホームぺーじの随所で同じポリシーが機能しているので、読書の諸姉諸兄はもう慣れているだろう。
 かつて日本の某音楽雑誌に、アルジェリアのポップ・ミュージックであるライが、イスラム原理主義のテロの猛威の前にかなり変容しているというかなり深刻な記事を寄稿して、そのタイトルに「揺らぐライの足場、アシバライ」とつけたら、見事にボツになった。わからない人たちには通用しないであろうが、私は内容とシンクロしなくてもいいから目立てばいいタイトルの決め方、ということをブールセイエから多くを学んだ。
 そしてブールセイエはそれをギイ・ドボールから学んでいたのである。それは極端な詩的一行であり、一行で決める落書き的効果であり、「XXX反対」とか「XXX粉砕」とかではない、「真実など何もない、すべては許される Rien est vrai, tout est permis」や「弁証法でレンガが壊せるか? La dialectique peut-elle casser des briques?」や「決して働くことなかれ Ne travaillez jamais」などといった、必殺の一行でなければならないのである。
 1994年ギイ・ドボールが62歳で自殺した時でさえ、一般の人々にはドボールはほとんど無名の人間であった。テレビラジオを初めとした大衆メディアには登場しなかったというだけではない。彼の思想は伝播しづらい性格のものであり、また伝播されることを目的としていない性格もある。
 68年5月革命を準備したと評価されるドボールのシチュアショニスム運動は、その母体となる団体アンテルナシシオナル・シチュアニスト(l'Internationale Situaniste 略称IS)の活動期間(1957-1972),を超えることなく、68年を契機に一時的に広い範囲の支持を得たにも関わらず、度重なる内紛とメディアの黙殺の末に姿を消している。これはメディア的な膨張を極端に嫌うドボールの意図的な拡大防止策であったと言われる。
 パリのブルジョワの家庭に生まれ、南仏に育ち、学生としてパリに登ってきても、自分の衣類を洗濯することも知らなくて、いちいち南仏の祖母に洗濯物を送っていた。1951年、シュールレアリスムから派生した芸術運動レトリスムと合流、1952年、初の長編映画『サドに加担する呻き声』 を発表。この映画は20分のギタギタに分断された対話と、沈黙の1時間、さらに終盤20分は音も映像もない静寂の黒スクリーンが延々と続くというもの。レトリストたちはこの映画の上映によって巻き起こる観客たちの喧騒と怒号を楽しんでいた、というわけである。早くもドボールはこの上映に際して「もはや映画はない。映画は死んだ」と宣言していた。
 スキャンダルと挑発に長けたこの若者は、2年も経たずにレトリスムの頭目イジドール・イズーを乗り越えてしまい、1953年にはその分派アンテルナオシオナル・レトリスト(l'Internationale Lettriste、略称IL)を結成、機関誌ポトラッチ(Potlach)を刊行、芸術と政治の両領域で過激な論を展開するのであった。
 この若き日のドボールにおいて私がとても魅力を感じるのは、彼が若くして無類の酒呑みであり、このような芸術・政治運動の討論も決議も毎日深夜から明け方までのビストロで行われており、彼の周りにはインテリと縁のない泥棒やチンピラなどもいて、猥雑な飲み屋の中の騒然とした環境の中でドボール思想が培われていったということである。そしてビストロの中で居合わせたポルトガル人やモロッコ人と意気投合することが、そのまま「アンテルナシオナル(l'Internationale = 国際組織)」を名乗るスケールになっているのである。深夜の酒場で結団されるアンテルナシオナル、こういう世界の見え方が素敵だ。しかし文字通り「アル中で乱暴者」の彼らは当然の成り行きとして酒場をグジャグジャにしてしまうので、しょっちゅう酒場の出入り禁止を喰らい、行きつけの店をその都度失ってしまい、新しい店に流れていくのである。
 このほとんど愚連隊と言っていいILの行状こそ「日常生活の冒険」として位置付け、第八芸術は生そのものである、という論を機関誌ポトラッチは展開していく。彼らは伝統的左翼のような未来的(社会主義建設)なヴィジョンを問題にせず、今ここにある生、生の場所的現在の変革を訴える。これはドボールと親交のあった(そして後に大げんかして訣別する)唯一の大学人アンリ・ルフェーブルの著『日常生活批判』のベースとなる思想を増幅して戦闘的にしたものと言える。
 その生に局面局面における現場を彼らはシチュアシオン(状況)と呼ぶのである。シュールレアリスム、レトリスム、アナーキズム、そしてアンリ・ルフェーヴルの日常論を母体に、シチュアショニスム(状況主義)(通称SITUシチュ)は生まれた。シチュの基本思想は「剰余労働を強いられた受動的な生と決別して、密度の濃い生の瞬間=状況を作り出すこと」である。またシチュの代表的な68年落書きスローガンでは
Vivre sans temps mort et jouir sans entraves
無為の時間なしに生きること、そして制約なしに楽しむこと
とも言っている。それは彼ら愚連隊が酒場でやっていたことの理論化および思想化であった。
 1957年、アンテルナシオナル・シチュアショニスト(略称IS)が組織され、その同名の機関誌は11年間にわたって縦横無尽言いたい放題の侮辱・誹謗中傷・罵倒の超ラジカル文書を満載していたが、そのほとんどの無署名記事をギイ・ドボールが書いていた。毒筆の矛先は保守体制・政権は言うまでもなく、伝統左翼(スターリニスト)、毛沢東主義者(ジャン=リュック・ゴダールを含む)、既存の権威と共存する思想家(サルトル他)などであった。
 シチュの最も重要なキーワードのひとつが「デトゥルヌマン détournement」である。これは逸らすこと、ずらすこと、といった意味であるが、ハイジャックのような武器の威嚇による無理矢理な方向転換の意味にも使われる。シチュの場合は戦略的な意味の取り違えであったり、強制的な意味の読み替えだったりする。例えばポルノ漫画で性的恍惚に喘ぐ女性の顔の吹き出しに「プロレタリア独裁って素敵だわ...」というセリフを書き込むことである。IS機関誌ではそういうイメージと言葉のコラージュによる強烈な意味の方向転換の図版を多く掲載し、シチュ的デトゥルヌマンのスタイルを作り出す。しかし(...しかしという接続詞ではないか...)80年代頃から商業広告業界が、このデトゥルマンを援用したヒット広告やCMを多数発表することになるのである。

 1967年、ギイ・ドボールの主著『スペクタクルの社会』が刊行される。彼はここで当時まだ世界的に熟したとは言えない来るべき「消費社会」の現実を既に看破しており、商品という「もの」へのフェティシズムに侵食され尽くした資本主義経済(今風な例では日本女性の高級ブランド崇拝のようなものが支配的な消費社会)と、スペクタクル(見世物)という形態を取らなければ現実性を持たなくなってしまったマスメディア中心社会が、生の現実を消し去っていく、という明晰な分析をしている。実際に有益なものよりもブランド付きの無益なものを崇拝する社会、実際の人生よりもテレビに映し出される虚構のドラマにリアリティーを求める社会、ドボールは今から32年前にこの社会の嘘っぱちに否を唱えていたのである。
 1968年、パリ五月革命、シチュは少数派ながら最前線にいた。ここでシチュがトロツキストやマオイストなどの68年運動主流派と決定的に違っていたのは、シチュは大学を資本階級エリートを作るための機関として批判していたのではなく、スペクタクルおよび商品の支配する社会の前衛として批判していたわけで、大学をバリケードで占拠することは資本エリート養成機関の解体よりも、スペクタクルを主体の側に奪い返すことが目的でなければならなかった。すなわち、シチュにとって五月革命は闘争と同時に祝祭であり、宴であった。シチュにとってはバリケードの中にどれだけ多くの酒類が持ち込めるかが最優先の課題のひとつであったのだ。 そして世にも強烈な落書きを創作すること。
 そこなのである。私が体験した70年代初めの日本の新左翼的環境の中において、受験勉強の延長のように政治用語を暗記したようなセクト的ディスクールに辟易し、警察権力と敵対セクトへの憎悪を増幅させるだけの「主体性」(あの頃の流行語であるなあ)の没落した運動に失望していた。なぜ日本で運動は「宴」ではなかったのか。なぜ高度成長期のモーレツサラリーマンのようにがむしゃらな組織(セクト)のディスクールを盲信して突き進むしかなかったのだろうか。
 IS(アンテルナシオナル・シチュアショニスト)はセクトではなかった。なぜなら上層部の指示などないからである。自分の置かれたその場の局面状況を自分でなんとかしなければならない。極端に言えば、シチュでは政治的異議申し立てをすることと酒飲んで暴れることの間に違いなどないのである。シチュアシオンを作るのは自分でしかない。トロツキストやマイオスト等が集団的・集合的な闘争と創造を訴える時、シチュは自分ひとりでやれと突っぱねる。
 そしてまさにこのことがシチュアショニスムの孤独であり、結果として党派として存続しえなかった原因である。ドボールはILの時期から少数精鋭主義の組織構成を貫いており、ドボール思想に心酔したからと言って誰もがクラブ会員になれるというものではなかった。ドボールの先駆と言えるシュールレアリスム運動の頭目アンドレ・ブルトンがそうだったように、ほんの些細なことで組織構成員の多くをバサバサと除名していった。右腕と言われた者も、真のブレインと言われた者も破門されていった。ドボールは暴君であった。
 1968年から69年、ISはやっとアンダーグラウンドから脱し、ドボールの著書『スペクタクルの社会』 と共に一般的な評価を得るところとなったが、ドボールはその評価が高まることを忌み嫌うように沈黙してしまう。なにか事件や現象があるたびに、メディアはISがそれに対してどうコメントするかを待つようになったのである。ドボールはこのメディア(すなわち資本側、体制側)によるシチュの「取り込み利用」(仏語のレキュペラシオン récupération。回収、抱き込み)を警戒するが、時すでに遅し、今やドボールとシチュはまさに自分が予見したスペクタクルのスターシステムの中に取り込まれてしまっている、と悟り屈辱的なショックを受ける。シチュだけではない。「68年5月」という事件そのものもブランド化し、見世物化し、体制側に大幅に取り込み利用されてしまっている。もはやシチュアショニスムはISというブランド化した運動媒体で続けることはできない。1972年、ISは解散し、その後、ドボールはあらゆるレキュペラシオンを回避するように、オーヴァーグラウンドに再浮上することなく長い潜行時代に入る。

 今日私たちは「前衛芸術家」が笑ってテレビに出る時代に生きていて、年端もいかぬ日本の少女たちがヴィトンやエルメスを狂ったように買い求める光景を見ている。ドボールが見破った商品=スペクタクルの社会は、とどまることなく拡張し、その包囲をますます堅固にしている。1999年11月のシアトルの世界貿易機構(WTO)会議は、言わば「スペクタクルの社会」のグローバリゼーション化を目的とした会議であった。前書きで述べたように、ドボールが今、社会現象的に再評価されているのは、どういうことなのか。私はブールセイエのこの評伝を読んで、(何度か読みかけては途中で断念してきた)ドボール著『スペクタクルの社会』を読み直そうとしたが、やはり断念した。スペクタクルの社会のことはもうアップアップするほどよく知っている、という拒否反応のようなものだ。もはや「これは一般教養だから」という風に書店に並べられている本なのだから。
 ドボールの言う、苛烈で密度の濃厚な生の瞬間と状況を創造・実現することは、そのまま酒を飲んで暴れることとして翻訳されることは断じてない。私が3年に一度ほどの割でやってしまう正体なくなるまでの酒乱痴態はシチュアショニスムとは何の関係もない。焼酎アショニスムとでも呼ぶべきものである。

Christophe Bourseiller "Vie et mort de Guy Debord"
Plon刊 1999年10月 453頁

(↓)2013年 BNF国立フランソワ・ミッテラン図書館でのギイ・ドボール回顧展のティーザー動画。

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