2016年8月1日月曜日

裏庭には二羽


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2006年5月に掲載されたものの加筆修正再録です。


J.M.G. Le Clézio "Ourania"
J.M.G. ル・クレジオ『ウーラニア』

(2006年2月刊)


 J'ai inventé un pays - 私はある国を考案した。
 小説の序章となる10ページ部分は、第二次大戦の激戦期に少年だった話者ダニエルが、ギリシャ神話から想像して創りあげた国、ウーラニアについて語られる。少年の日に作られた国は、二度と再訪することができない。ある者はそれをネヴァーランドと呼んだり、ユートピアと呼んだりするわけだが、その国はどこにもない。あるいはそれは二度と還ることのできない子供時代のことである、という者もある。しかしこの小説はウーラニアは実際に存在した、という結論が最後に待ち受けているのである。
 話者ダニエル・シリトーは成人してパリ大学の地理教授となり、研究者としてメキシコにやってくる。その旅の途中の長距離バスの中で、ダニエルはひとりの奇妙な少年ラファエル・ザキャリーと邂逅する。ラファエルは北カナダのフランス語圏の町で生まれ、刑期を終えていない囚人である父親に連れられてメキシコに南下し、山あいにあるカンポスという村の共同体にあずけられた。カンポスでは同じように問題のある子供たちが多く共同生活をしていて、自分たち固有の言語でしゃべり、農耕で自給自足し、学校はないが年長者から知識を伝授されて、人々は自由で調和のとれた生活を営んでいた。ダニエルはラファエルから聴かされるこの共同体の存在に強烈に惹かれていく。
 一方ダニエルが地理学者として招待された場所は、肥沃な農場地帯の丘の上にあるエンボリオと言われる総合人類学研究所で、俗世間がら離れた古代ギリシャの学問の園のように、学者たちの自由を尊重する知の理想郷を目指して作られた学術共同体であった。この場所を作ったトマス・モイーズは、付近の富豪農家の出身ではなく、山奥のインディオ出身の家系で、教育者や聖職者や裁判官などを世に送って来た家柄の末裔であった。すなわち戦乱や革命を乗り越えて、権力から独立を守ることで血筋を継いできた理念を持った家柄である。この研究所は定期的に一般に開放され、知の公開と交換が行われる。
 「メキシコのスイス」と呼ばれるメキシコ国内では例外的に豊かなこの地方で、ダニエルはふたつの理想郷が崩壊していくのを証言する、というのがこの小説の大筋である。豊かな地方と書いたが、大規模果樹園とその缶詰工場の周辺には貧困がいくらでも存在し、女性労働者たちの劣悪な労働条件や、一日中ゴミ捨て場にいて再利用可能なものを探してまわる子供たちなどを、作者は克明に描写している。そして歓楽地区で女衒に囚われているリリという名の娼婦について、エンボリオにいる学者たちは冗談のタネにことすれ、誰も彼女を救おうとはしない。
 この小説にはこの囚われの娼婦リリの他にもうひとり重要な女性が登場する。ダリアという名前のプエルトリコ女性で、プエルトリコ革命の闘士との間にひとり男児をもうけたが、離婚して子供は父親の許で育てられている。ダリアはダニエルと恋愛関係を持ちながらも、子供と共に住むという夢が捨てられず、ダニエルとは一緒になったり離れたりを繰り返す。この女性は元夫(すなわち革命の幻想)も捨てられない、中南米のロマン主義を体現したような大地の女である。だからダニエルのいる学者の世界とはそりが合わない。
 そしてグローバリゼーション的現実はこの地方にも明らかであり、土地の有力者(すなわち果樹園富豪農家と缶詰工場経営者)たちは、ダニエルの地理学的研究がエコロジスト的な学説を説くことを好まないし、学問の園が革命闘士(ダリアの元夫)を匿うことを好まない。そしてこの研究都市が世界的名声を得たことで土地利権も上昇してくる。彼らの利益拡大を狙って、彼らが牛耳っている地方新聞で論陣を張り、地方行政府にも圧力をかける。
 その土地利権の操作の鉾先はまずカンポスに向けられる。地方新聞はこの共同体を麻薬を常用するヒッピーのセクトとして攻撃し、地方行政府はこの集団を土地から追放することを決定してしまう。次にエンボリオに対しては、学者たちの意見の対立と権力争いをまんまと利用して、研究所運営に関するトマス・モイーズの実質的指導権を剥奪してしまう。
 小説は楽園を追放され、新しい入植地を求めて集団で南下していくカンポスの人たちのエクソダスを、宗教的受難の旅に模して描いていく。証言者はラファエル・ザキャリーと、集団の指導者的立場にあったジャディことアンソニー・マーティン。父親がフランス人、母親が北米インディアンであるマーティンは、18歳で太平洋戦争に動員され、グアム島、ウェイク島、沖縄で戦い、母島(ははじま)に上陸後に隊からはぐれ、終戦を知らずに数ヶ月間 ジャングルの中に隠れて生存していた。こういう体験からマーティンは軍隊と戦争に対する反感を育み、星を読む術とサヴァイヴァル術を身につけていった。80年代にマーティンはカンポスを組織し、その相談役(conseiller)として共同体を指導していった。小家族概念を捨て、結婚を否定した大家族主義での集団生活を実践し、親権を否定して年長者と熟練者を尊ぶ。学校や授業はないが、学習は随時行う。集団成員の異なるルーツの複数の言語と鳥の鳴き声を模倣した擬音語を混ぜ合わせたピジン語「エレメン」を集団の共通言語とする。宗教の介在を否定するが、個人レベルでの神の概念は否定しない。集団の中に医者はいないが、病気と怪我は薬草とマッサージによって治療する。男女平等、子供を含む老若平等主義にもとづく合議制....。
 このような共同体を外側の人々はセクトともヒッピーとも呼ぶ。父親の牢獄生活のせいで普通の学校ではトラブルが絶えなかったラファエルは、ここで労働と学習と集団生活の意味を理解する少年に変身していく。同じような問題を抱えた子供たちがたくさんこの集落に送られ、その中に溶け込んでいく。メキシコ社会の世間の目からすれば、ゴミ捨て場あさりをする子供たちとコンピュータ遊びをする子供たちは正常に見えても、麻布をまとって集団農場で働く子供たちは異常に見えるのだ。
 ル・クレジオはこの二つのユートピアのうち、カンポスの悲劇の方をより重要に描いているし、メキシコの深部に生きる自由人たちまでも放逐してしまおうとする現代社会の経済&モラル原則に激しい憤りをぶつけている。 ジャディー/アンソニー・マーティンは集団を率いて南へ下り、人の住まない珊瑚礁の島に新天地を求めるが、その道半ばで病いに襲われ、身体が麻痺した状態で島に辿り着き、そこで息絶えてしまう。じゃディーの予言と計算とはおおいに違って、その珊瑚礁の島で生きることは不可能とわかったカンポスの人々は、目的を失い四散してしまう。
 もうひとつの崩壊したユートピアであるエンポリオに幻滅したダニエルは訣別して去って行く。しかしその二つの悲劇にはさまれながら、囚われの娼婦リリーは女衒の拘束下から脱走してアメリカに至り、またプエルトリコに還ったダリアはエイズ患者などの子供たちをケアするセンターを開設している。

 これは希望の小説である。二つのユートピアの崩壊するさまを証言しながら、その夢は決して消えることはないと断言している、言わばヒューマニティー讃歌である。こんなにもはっきりと世界のリベラル資本主義と排外的モラル主義を非難して、今人間が選ぶべき道を説くことなど、ル・クレジオには珍しいことである。希望はあると作家は言う。少年ダニエルが夢見たウーラニアという国は、確かに存在したのだ、と少年期を裏切らない結語は、この小説を読む者の最大の幸福の瞬間である。
 そしてル・クレジオ作品に親しい人たちには、絵文字や星の言葉や地理やピジン言語など、彼の初期作品群にたくさん出てきたナイーヴな不思議ごとが、この小説にも重要な役割をもって再登場していることもうれしいはずだ。たいへんな若返りを思わせるのは、この希望的なヴィジョンのおかげだろう。

J.M.G. Le Clézio "OURANIA"
Gallimard刊 2006年2月 20ユーロ

(↓)『ウーラニア』刊行時のフランス国営テレビFRANCEのニュースでの作品紹介ルポルタージュ。


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- 2008年10月9日『永遠に旅するル・クレジ王』 
- 2008年10月15日『飢餓のリトルネロ
- 2011年2月19日『ル・クレジオ、サルコジの傲慢さに憤激する
- 2014年4月21日『しけ -  二篇のノヴェラ

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