2016年5月18日水曜日

ルネ王のルネッサンス

アニエス・ドサルト『ルネ王』
Agnès Desarthe "Le Roi René"

 ランス稀代の名ジャズ・ピアニスト、ルネ・ユルトルゲ)(1934年パリ生れ、現在82歳)のバイオグラフィーです。著者アニエス・ドサルト(1966年パリ生れ、現在50歳)は、ジャズ評論家でも音楽史研究家でもありません。小説家(および英米文学の翻訳家)です。9ヶ月間の「一対一」の取材インタヴューから書き上げられました。彼女の音楽の知識はたいへんなものだと思います。しかしジャズ論/音楽論のプロたちのもの言いがない、ということに大変救われている本です。この女流作家は自分をぐいぐい出します。「私が知りたいルネの人生のすべて」のようなアプローチです。自分の娘ほどに歳の離れたこの女性はユルトルゲにどんどん突っ込んでいきますが、老ピアニストはそれを諭すように、自分の知ることを語っていきます。それはビ・バップとは何か? スウィングとは? インプロヴィゼーションとは? ということを分かりやすい言葉で語ってくれる賢者の部分もあります。「イディッシュにはこういう譬え話があってな...」と意識せずとも背負ってしまったルーツが語っている部分もあります。なにゆえのこの自尊心、恐怖、廉恥、激情... それをこの作家はユルトルゲの語った(時には混沌とした)言葉から、自分の言葉へと書き換えて共有しようとします。小説の誕生に立ち会うような興奮があります。 ジャズ的と言うよりは文学的ダイアローグのように読めます。そうです、バイオグラフィーと言うよりはダイアローグなのです。
 月並みな表現を恐れず言えば、ルネ・ユルトルゲの生涯はロマンです。ユダヤ系ポーランド移民の子として1934年にパリで生まれますが、第二次大戦に入ってからは、ユダヤ人ゆえに一家でフランスを転々と移動し、スペイン、北アフリカにまで渡っています。母サラはゲシュタポに捕えられ、収容所に送られ二度と帰って来ません。しかし母が死んだという証拠はない。戦後落ち着いた頃に、父マックスは再婚するのですが、ルネは母が死んだという確証がない状態で再婚する父を許せず、継母との確執はしつこく残ります。母サラはルネのピアノの才能を天賦のものと信じていましたが、他の家族はそうではない。ピアノ教師がこの早熟の天才にしかるべき教育を受けさねば、と他の学業すべてを捨てて国立コンセルヴァトワール入試を目指すよう家族に説得に来るのですが、ユダヤ人の戯画化されたイメージそのままに家族は、稼ぎと結びつかないこの申し出に難色を示します。しかしなんとか説得に成功して、1年間猛烈にピアノを勉強します。この頃から猛烈な自尊心(と言うか自惚れですが)があり、教えるピアノ教師の水準を自分が越してしまったと思っている。そして自信満々でコンセルヴァトワールに受験して.... 落ちてしまうのです。
 十代でユルトルゲはフレデリック・ショパンとバド・パウエルに心酔しています。クラシックピアノはショパンだけ、ジャズはビ・バップだけ(チャーリー・パーカーも神格化)。その視野の狭さは、何十年も経ってから後悔することになるのですが、若い時って視野狭く突っ走るものではないですか、お立ち会い。
 コンセルヴァトワール入学に失敗した彼は17歳から18歳にかけて、職業見習いでボタン工場やら縫製アトリエに送られます。そういう職業に全く興味がなく、退屈しきったルネは仲間に誘われて夜のジャズ・クラブに行くのですが、入ったところが彼には面白くもなんともないニューオリンズものでまた退屈。同じように、つまんねえなあ、と愚痴っていた男と意気投合、オトイユのクラブにボビー・ジャスパーが出ているらしい、一緒に行ってみないか、と。ところが夜も遅く、ジャスパーの姿などなく、代わりにユベール・ダミッシュ(本業哲学教授、テナーサックス)、サッシャ・ディステル(ユダヤ系ロシア移民の子、レイ・ヴァンチュラの甥、アンリ・サルヴァドールからギターを教わりジャズ・ギタリストとしてデビューして、後に魅惑のヴァリエテ歌手に。ブリジット・バルドーの夫だったこともある)、ジャン=ルイ・ヴィアル(dms)などがジャム・セッションしていた。その晩ピアニストが欠席しているのを見て、「俺のダチはバド・パウエルのいとこだぜ」とルネを紹介。だったらやってみろよ、ってんで、バンドでなど一度も演奏したことのないルネが、2-3曲しか覚えていないバド・パウエルのレパートリーの中から「レディーバード」と「オーニソロジー」を大胆にもやってしまったのです。ぶったまげたクラブオーナーはその場で、毎週土曜の夜はお前だ、と契約したのでした。
 そこから物事は急激な速度で進行します。1953年全国アマチュアジャズコンクールのピアノ部門に出場し、どんどん勝ち抜いて行き、決勝はサル・プレイエルで。相手はアラン・ゴラゲール(1931年生まれ。ルネより3歳年上、当時22歳。後のボリズ・ヴィアン、セルジュ・ゲンズブールなどの編曲者だが、この頃すでにヴィアンの傘下にあった)。その審査員の中にシャルル・ドローネー(1911-1988。ジャズ振興団体ホット・クラブ・ド・フランス創始者。JAZZ HOT誌創刊者。レコード会社Swing、Vogueの創業者。1949年マイルス・デイヴィスを初来仏させた第一回パリ・ジャズ・フェスティヴァルのオーガナイザー)がいて、ユルトルゲの才能に仰天し、その結果ゴラゲールに大差をつけて優勝したのでした。既に国際的なジャズ界の大物であったドローネーの後押しで、オペラ界隈のクラブ「リングサイド」(アメリカのボクシングチャンピオン、シュガー・レイ・ロビンソンが開店したクラブ。1958年から経営者と店名が変わり「ブルー・ノート」に)毎晩出演するようになり、ドン・バイアス(サックス)、バック・クレイトン(トランペット)らとの共演で"プロ”に育て上げられるのです。それからはパリの右岸左岸のあらゆるジャズクラブ、夏のジャズフェスティヴァル等でユルトルゲの名前はいたるところに途切れることなく登場します。共演者と言えば、スタン・ゲッツ、ライオネル・ハンプトン、ズート・シムス、ケニー・クラーク、チェット・ベイカー、アート・ブレイキー、マイルス・デイヴィス...。当時の合衆国の人種差別政策のために、黒人ジャズアーチストたちは大挙して欧州に移り、特にパリはこの50年代にまさに世界一のジャズの都になっていたのです。
 ユルトルゲは19歳から26歳の間に栄光を掴んでしまいました(その間に2年の
兵役も勤めている!)。しかし天才ピアニストは19歳の時からジャンキーなのです。何度も抜け出そうとしますが、ドラッグ地獄は彼を掴んで離さない。この状態は1977年まで続くのです。つまり24年間。2度結婚して2度離婚。子供を持って家庭を築こうが、警察に何度逮捕されようが、ディーラーの誘惑を断ち切ろうと人里離れた地方や外国に住もうが、地獄から抜けられない。このことにこの本は多くのページを割いています。アニエス・ドサルトはドラッグ体験が皆無なこともあって、どれほどの苦しみかということを、非ドラッグ者にもわかるようにユルトルゲは生々しく証言します。
(P117)
ヘロイン、それは真綿みたいなもんだ。柔らかで安全で恐怖が取り去られた状態。あらゆる傷口が塞がって、無傷にもどり、すべての過去が消えてしまう。それは綱渡りだけれど、下に安全のための網が張ってある。私に対して遠慮などしないスタン・ゲッツが、ある日単刀直入にこう言ったんだ "When you are clean, you're one of the best pianists I know. But when you're stone, you sound like a fucking amateur" (このクラスのアメリカ人のプロにとって "amateur"は、最悪の罵倒表現である)

 マイルス・ディヴィスとの交流もこの本の読ませどころのひとつです。 1956年から57年、兵役中に特別許可をもらってユルトルゲはデイヴィスの欧州ツアーに参加します。ルネの姉のジャネット(後でわかるのですが、生涯を通じてピアニスト・ユルトルゲを支える最重要人物のひとりです)がマイルスと恋仲になるというエピソードもあります。ツアーは成功し、マイルスとルネの相互敬愛は確固としたものになります。そしてこれまでこの二人を語る時にいの一番に挙げられるのが映画『死刑台のエレベーター』(1956年ルイ・マル監督)のサウンドトラック盤です。しかしこれに関してユルトルゲは「金と知名度はもらったけれど」としながらも、数十秒単位で細切れの音楽を強要される映画音楽の仕事にフラストレーションを溜めていて、この盤での自分の仕事を良く思っていません。
 若くして頂点を極めたユルトルゲは、時を待たずに若くして "has been"(過去、時代遅れの人)になってしまいます。これは一種の流行進化論で、ジャズでも他の音楽でもサブカル分野でも、時代の主流だったものが廃れて、次の新しい波が来る、それがまた廃れて、さらに新しい波が来る、というメーンストリームの現象のことです。進歩信仰と言いましょうか。古いものは乗り越えられ、新しいものは古いものより良いに決まっている、という考え方してましたよね、特に50年代60年代は。で、ユルトルゲはビ・バップの時代は終った、と思ったのです。ビ・バップは進化せずに堂々巡りをしている。今に違う音楽に取って代わられるだろう。オルタナティヴなものとして頭角を表してきたフリー・ジャズという音楽に、ルネは全く興味を抱けない。時代遅れの自分はどこに行けばいいのか。
 ここがこれまで多くの人たちが理解できなかったところなのです。なんでまた?よりによって?と思ったところなのです。ルネ・ユルトルゲはクロード・フランソワのバンドのピアニスト兼編曲家になるのですよ。ビ・バップの終焉によってイエイエに転向したのです。この本はクロード・フランソワのアーチストクオリティーやカリスマ性、ボスとしての面倒見の良さなどが語られて、この転向を自己弁護しようとするのですが、はっきり言えば金の威力に負けたということではないですか。マイルス・デイヴィスと一緒に先進アートを研鑽していたピアニストが、ここまで極端にレヴェル下げますか、っていうことですよ。
  結局ドラッグ地獄はそれもこれも呑み込んで、ルネ・ユルトルゲの果てしない転落は十数年続くのです。本書の第7章「 イエイエ時代」の30ページは、この本の中で最も苦渋に満ちた、胸が詰まるようなパッセージが続きます。かつての天才ビ・バップ・ピアニストは、指を動かすこともできなくなり、無一物のホームレスにまで落ちてしまうのですから。

 繰り返しますが、この男の生涯はロマンですから。小説家アニエス・ドサルトの脚色と言う人もおりましょうが、続く第8章の「再生(Renaître)」はエモーショナルです。救いようのなかったジャンキー&アル中は、1977年3月12日から「クリーン」になるのです。3人目の妻となったジャクリーヌの30歳の誕生日です。どんなことをしても抜出すことができなかったドラッグ&アルコールの呪縛から解放されたのです。
 ジャズ・ピアニスト、ルネ・ユルトルゲの再生(ルネッサンス)は、さまざまな恐怖からの解放でもあります。19歳で頂点に至った早熟の天才は、歳と共にその頂点から転がり落ちる恐怖、感性と技術の老衰の恐怖がありましたが、77年以降は若くギラギラした才能があった頃よりも、今の方が上達している、うまくなっている、という自信が出てきました。そして進化論の超克です。ビ・バップは死んだ、XXは時代遅れだ、という考え方がいかに愚かしいものであるか、ということを悟ります。ビ・バップでいいのだ。自分はこの音楽なのだ。それでいいのだ。と赤塚不二夫悟りをするのです。良いアルバム作品はどんどん生まれていきます。 そして内外の若いジャズ・アーチストたちから慕われ、孫もジャズ・ピアニストになり、これほど幸せな老後はありましょうか。

 9ヶ月の共同作業の末、この本の執筆が終盤に来たと思われた頃、ルネ・ユルトレゲ・トリオの3夜連続のコンサートの中に、ルネはアニエス・ドサルトにゲスト・ヴォーカルとして3曲歌わせるという提案をします。曲名だけ指定しておいて、事前のリハーサルなしに、ぶっつけ本番で歌え、と。人前で歌ったことなどないドサルトは、この挑戦を受けて立ちます。ルネは自分と同じ土俵に彼女を立たせたのですね。 音楽に終わりがないように、このバイオグラフィーも終らせたくなかったのですね。とても繊細な最終行です。これだけ取っても、この本は多くの人たちに読まれる価値ありますよ。

AGNES DESARTHE "LE ROI RENE - René Urtreger par Agnès Desarthe"
Odile Jacob刊 2016年4月 270ページ 21,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(:René Urtregerの日本でのカタカナ表記は「ユルトルジェ」が一般的なようです。私は本人には確認できませんが、こちらのテレビやラジオでの紹介、私の知るフランスのジャズ関係者たちの呼び方では、「ユルトルゲ」と「ユルトルガー」中間のように聞こえます。というわけで、異論あるかもしれませんが、本稿は「ユルトルゲ」と表記しました。
↓の動画のLa Grand Librairieの司会者フランソワ・ビュネルの発音聞いてみてください。)

(↓)2016年5月12日、国営テレビFRANCE 5 の読書番組「ラ・グランド・リブレリー」でのアニエス・ドサルトとルネ・ユルトルゲ


(↓) ルネ・ユルトルゲ・トリオ : イーヴ・トルシャンスキ(cb)、エリック・デルヴュー(dms)

 

2 件のコメント:

UBUPERE さんのコメント...

こんにちは、PERE UBUです。戦後フランスにどっとなだれ込んだジャズの生き証人の生涯が文字で残されたことをとてもうれしく思います。久しぶりに『Rene Urtreger - Joue Bub Powell』を引っ張り出して聴いています。当時のジャズに対する熱狂振りは、ヴィアンの『マニュエル・ド・サンジェルマンデプレ』で少し分かりますが、ユルトルゲの今回の本のお陰でもっと詳しく知ることが出来そうですね。動画ではユルトルゲはとても80代には見えず、あまりの若々しさにびっくりしました。名前について私も「ユルトルジェ」と思っていたのですが、「ユルトルゲ(ール)」だったのですね。また、動画の中で「チャーリー・パーカー」が出てきますが、昔観たフランス映画(題名が思い出せない)で、主人公の少年が「シャルリ・パルケ」と叫んでいたことを思い出しました。今のフランスは固有名詞の現地読みを尊重するようになったのでしょうか?

Pere Castor さんのコメント...

Père Ubuさん、コメントありがとうございます。
たまたまNHKで、穐吉敏子ドキュメンタリー「TOSHIKO~スウィングする日本の魂~」を見る機会があって、穐吉もユルトルゲ同様バッド・パウエルを師と崇めて、ビバップ・ピアノに精進するのですが、いつまでもバッド・パウエルそのまんまではいけない、私のDNAに刻まれたものを出さなければ、というので日本の伝統音楽を取り入れた、という穐吉自身の説明がありました。私は、そういうストーリーって「そうじゃないでしょ」と思うへそ曲がりでして、そのエキゾティスムは結構大雑把なものだと思うのですよ。同じドキュメンタリーで、ごく早い時期から着物姿でピアノ弾かされていたという映像が出ますけど、そういう大雑把なエキゾティスムが要求されていたのではないか、と。人種的「カラード」の扱われ方の一種として。そういう時代からアメリカで演奏している、ユルトルゲの同時代人でしょ。ヨーロッパ来てたら、ちょっと違ったんじゃないかな、とも思ったりします。
ボリズ・ヴィアンのジャズ論の根っこは「黒人には絶対にかなわない」ということ。これも困ったもんですけど。でもこういう純血論は超えるのにずいぶん年月がかかりました。ユルトルゲという「変な名前」のイディッシュ出身者も、穐吉という東洋人も、それを言われたから、なんとかしなければならなかったんでしょう、と私は想像しています。