2015年3月12日木曜日

鱒 ケ・ナダ

レ・フレール・ジャック『鱒のコンプレックス』
Les Frères Jacques "Le Complexe de la Truite"
(詞:フランシス・ブランシュ / 曲:フランツ・シューベルト)

  レ・フレール・ジャック(活動時期:1946-1982)は口ひげ、黒タイツと山高帽、よく動く8本の腕がリードするパントマイム、ジャック・プレヴェール、ボリズ・ヴィアン、セルジュ・ゲンズブールなどを歌う、コミカルで不条理で左岸気質なヴォーカルクアルテットでした。その重要な作品提供者のひとりにフランシス・ブランシュ(1921-1974)がいます。ラジオ放送作家、俳優、ピエール・ダック(1893-1975)との漫談コンビなど、多岐に渡って活躍したお笑い人でしたが、糖尿病のため52歳の若さで亡くなっています。フランシス・ブランシュの偉業として伝えられているものに「おふざけ電話 (canulars téléphoniques)」の創始者だということです。主にラジオ芸ですが、無名市民や有名人に電話して、声帯模写でだれかになりすまし、ナンセンスなことや相手を困らせること・怒らせること・笑わせることを言って、相手の反応をラジオ聴取者全員が楽しむ、というギャグです。例えば市役所に電話して、今すぐ結婚したいのだけど、あと1時間後に式をしてくれないか、無理なら金で解決したいので、いくら用意すればいいか、といった電話で、まじめに答えてくれたり、困って上司と悩んでくれたり、真剣に激怒したり、という反応があります。これを最終的にお笑いの方向で終らせるのが、ユーモリストの即興芸の素晴らしさです。この電話芸はフランスでは全然廃れず、現在も若向けFM(NRJ、スカイロック、Fun等)で人気があり、あるいは声帯模写芸人が有名人(とくに政治家が多い)を装って、別の有名人を罠にかけるというのもよく話題になり、時には裁判沙汰になることもあります。
 なぜこの "Canulars Téléphoniques"のことを長く説明したかと言うと、仏語ウィキペディアのこの項 "Canular Téléphonique"の欄外に、同項目の外国語ページのリンクが載っていて、その English をクリックすると "Prank Call"(おふざけコール)という説明があり、やはりフランスと同じようにラジオでのお笑い電話芸となっているのに、その日本語をクリックすると『迷惑電話』という説明で、まったくお笑いとは関係のない犯罪的迷惑行為として扱われているのです。「おふざけ電話」というお笑い芸は日本では成立せず、犯罪なのですね。冗談の通じない国というのがよくわかる一例です。それはそれ。
 そのフランシス・ブランシュが書いた673曲(正確な数字です)の歌詞のひとつで、作詞家としては代表作と言っていいのでしょう、これが『鱒のコンプレックス』 です。作曲者のところには「あるオーストリア人無名作曲家」と書いてあります。誰でも知っているフランツ・シューベルトの歌曲「鱒」です。この曲は1956年にレコード発売されましたが、ラジオ放送が禁止されました。シューベルトをパロったからではありません。フランシス・ブランシュの詞がひっかかったのです。
 1944年パリ解放と共に、対独協力のラジオ局は接収され、新しくフランス国民ラジオ放送が始まったのですが、この国営ラジオはナチ占領時代と断絶して自由な音楽や表現に電波を解放してくれると思ったら、以前とあまり変わらぬ放送検閲を続けたのでした。不安定な第四共和制(1946-1958)は、ド・ゴールの政治離脱、戦勝後の挙国一致超党派政治の早期終焉、インドシナとアルジェリアでの植民地独立戦争などで緊張が続き、政府は放送の自由を封じ込めて言論統制しなければ共和国は崩壊すると思っていたのでしょう。実際に第四共和制は12年で崩壊してしまいます。
 放送が検閲しようとするのはいつの世も同じ、過激に自由な表現、過激に反政府的な表現 、過激に風俗を紊乱する表現です。シャンソンの世界でこの検閲に最も目をつけられた歌手がジョルジュ・ブラッサンスです。レオ・フェレがそれに続きます。植民地戦争が激化し始めた頃1954年に発表されたボリズ・ヴィアンの「脱走兵」は戦後の放送禁止歌で最も有名なものです。しかし放送は禁止されても、公で歌うことが禁止されているわけではないし、レコードも発禁になっていない。ですから、左岸のシャンソン・キャバレーはそういう歌を聞くために人がどんどん入っていたし、レコードはどんどん売れていた。放送禁止はある種「よいプロモーション」になっている場合があります。
 さてヴィアンの「脱走兵」の2年後に放送禁止になったレ・フレール・ジャックの「鱒のコンプレックス」はどんな歌だったのでしょうか?

それは若い娘
寄宿女学校から出たばかり
無垢でやさしく
まだ16歳にもなっていない
彼女は俺と母親の家に来て
俺たちのために鱒を弾いてくれたんだ
シューベルトの鱒をね

ある大嵐の夜
彼女は帰れずうちに泊まっていくしかなった
あんなに若いのに
強情なところがあって
稲光に照らされながら
3時間も続けて
俺たちのために鱒を弾いたんだ
シューベルトの鱒をね

彼女に俺の部屋をあてがって
俺はサロンで寝ることにした
でも俺の理解が正しければ
それは長くは続かなかった
彼女はいち早くサロンに戻って来て
裸足のまま、窓を開けっ放しにして
俺に鱒を歌ってくれたんだ
シューベルトの鱒をね

それはそれは見事なソルフェージュ
みだらなピッツィカートを連発し
和声、トレモロ、アルペジオ
これは連弾の妄想曲
火のついた肉の棒が
今や興奮の頂点となるときに
彼女は鱒をハミングしたのさ
シューベルトの鱒をね

俺は言ったよ:ガブリエル!
俺の興奮をわかってくれよ
俺かシューベルトか
どちらかにしてくれよ
するとあからさまに
ベースケな彼女の目の色がすぐに読み取れ
彼女の願いがわかったのさ
コンサートの続きをしましょう、って

嵐の夜から6ヶ月すぎて
俺と彼女は
結婚だけが唯一の解決
という状態になったのさ
しかし結婚式では異常な雰囲気になり
市長様に結婚の誓いを立てる代わりに
彼女は市長様に鱒を歌ったんだ
シューベルトの鱒をね

彼女の異常な執着を解かせるために
俺たちはすごいことをした
ガブリエルに一切の魚を断つ
食餌療法をしたのさ
しかしある呪われた一日がやってきて
風と嵐が猛威をふるい
彼女は一匹の鱒を産み落としたのさ
そして彼女はそれをシューベルトと名付けた

という訳で俺は今ひとりで生きている
俺の屋敷の中でたったひとりで
ガブリエルは出ていき、もう気が狂ってしまった
ル・トゥーケのホテルの部屋の中で
大きな金魚鉢を見ながら何時間も座り込んでいる
その 中では一匹の魚がゆらゆら動いている
俺は俺の古くからの料理女のマルグリットに言ったんだ
もう絶対に鱒の料理は出さないでくれ
それを食べるとじんましんが出るんだって

 ま、露骨にエロい部分はありますね。活きのいい魚というのは、そういう想像をかきたてるものでしょうし、このレコードジャケットの直立する4尾の鱒というのは、直接的なメタファーですね。
 この歌詞の第一の問題は、ガブリエルという少女の年齢です。「16歳にもなっていない」と歌詞にあります。現行の刑法でも「未成年との性関係」はたとえ暴力的なものでなくてもたとえ合意のもとであっても、未成年者の年齢が15歳未満である場合「(最高で)5年の禁固刑と75000ユーロの罰金刑」(フランス刑法227-25)と規定される犯罪なのです。また未成年者の年齢が15歳以上18歳(成人年齢)未満である場合も、相手(成人者)がその関係に権力的影響を与えうる立場(義理の兄・姉、宗教者、教師、スポーツや習い事の先生...)にある場合「(最高で)2年間の禁固刑と30000ユーロの罰金刑」(フランス刑法227-27)と規定されています。現在でさえこうなのだから、今から60年前では規定はもっと厳しいものであったことは想像にかたくありません。
 この関連で思いあたるのが、ドノヴァンの「メロー・イエロー」(1966年)という当時全米チャート2位まで昇った大ヒット曲です。この歌詞の中に
I'm just mad about fourteen (僕は14に首ったけ)
Fourteen's mad about me (14は僕に首ったけ)
というのがあります。これもフランスでは当然検閲の対象になるわけですが、ドノヴァン君は、おいおい、僕はただ「14」と歌っているだけで、必ずしも「14歳の少女」というわけではないだろうに、例えばフォーティーンというあだ名だったり、XXX通りの14番地に住んでる子だったり、いろいろ考えられるでしょう、と必死に言い訳したそうです。しかし、この歌の一番の検閲対象は別にあり、歌詞の「エレクトリカル・バナナ」という部分で、 当時は「乾燥したバナナの皮を焼いて吸えば LSDと同じような幻覚効果が得られる」などと言われたもんです。しかしこの「電気仕掛けのバナナ」はそんなものではなく、もろセックス・トイなんですね。60年代にはこれは公序良俗を紊乱させるものだったんですが、21世紀に至っては、テレビのホームドラマに登場するわ、セレクトショップのショーウィンドーを飾るわ...。まあ、それはそれ。
 「鱒のコンプレックス」に戻ります。フランシス・ブランシュの歌詞は、ガブリエルという年端もいかぬ少女が、嵐の夜に肉体の悪魔に取り憑かれて、それ以来旺盛な性欲をどんどん増長させていく。その欲しいものというのは「鱒」の形をしたものなんです。少しくらい「お魚禁止令」を出してもきかなくなるんです。 「コンプレックス」という心理学用語(あるいは精神分析用語)がタイトルとして有効なのはここなのです。まさにユング著作の中の臨床例のような現象がこの少女のドラマなのです。
 で、この歌をレコードで聞いたり、レ・フレール・ジャックのショーで見たりするフランス人たちは、大笑いをするのですよ。「へへへ...」という下卑た笑いではなく、腹を抱えた大笑い。落語名人の艶笑噺みたいなもの、と思ってくださっても結構ですが、私はね、ずっとレベルが上のように思ってますよ。

(↓)レ・フレール・ジャック「鱒のコンプレックス」


(↓)フランシス・ブランシュ自身による「鱒のコンプレックス」。こちらの方がなまめかしく聞こえる。





0 件のコメント: