2014年5月23日金曜日

われわれはエミール・ゾラの時代に生きている

『二日とひと夜』
2013年ベルギー映画
"Deux jours, une nuit"
(日本上映題『サンドラの週末』)

監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ
主演:マリオン・コティヤール、ファブリツィオ・ロンジオーヌ
2014年カンヌ映画祭正式出品作(コンペティション)
フランス公開:2014年5月21日

 カンヌ映画祭で既に2度のパルム・ドール賞を獲得しているベルギーの社会派映画監督ダルデンヌ兄弟が、マリオン・コティアールという(悪口で言うと)ハリウッド主演クラスのセレブな(つまり社会派映画などとは縁のなさそうな)フランス女優と組んだ作品です。
 舞台はワロニー(ベルギー南部フランス語圏)の地方部です。サンドラ(マリオン・コティヤール)は夫マニュ(ファブリツィオ・ロンジオーヌ)と子供2人で4人暮らし。夫はレストランで働いていて、妻サンドラは太陽光発電パネルを作る中小企業の工場で働いていました。再生エネルギーの成長株だったこの分野も、欧州では数年前から中国産の安価なパネルに押されて、状況は非常に厳しくなっています。サンドラはその職場を病気(たぶん神経症)で長い間休職していましたが、完治(したことになっていますが、服用する安定剤の量がすごい)と共に復職する段になって、経営側はサンドラの所属した作業班(サンドラを入れて17人いた)の「自主的決定」としてサンドラを解雇しようとします。それはその班が17人分の仕事を16人で回してくれたら、その16人にはひとり1000ユーロの一時金を支給するというもの。
 これが労働各法において合法的なものかどうかは私は知りませんし、映画も問いません。これが危機の時代の労使関係の現実でしょう。私たちは20世紀的な発想で、そんな時は労働組合や労使調停委員会が労働者を守ってくれると思いたいのですが、これまで世界的水準からすれば恵まれていたと思われていた西欧の労働事情の今日は、まったくそれどころではなくなってしまった。どんなことがあっても「職を失わないこと」が第一目的になってしまう。職を失ったら、次はない。これがこの映画のリアリティーです。だから、この映画に出て来る労働者たちはもちろん未組織で、ひとりひとりこのことに関して多くを語りたくないのです。
 サンドラの復職をとるか、千ユーロのボーナスをとるか ー 問われた作業班の16人はどう答えられますか? さらにそこに、作業責任者のジャン=マルク(オリヴィエ・グルメ)がいて、工員ひとりひとりに圧力(恫喝)をかけ、サンドラ解雇は動かしようが無い状態です。
 映画はここから始まるのです。作業班の票決でサンドラ解雇が決まったものの、作業仲間のジュリエット(カトリーヌ・サレ。画面には多く登場しませんが、最も多く電話登場し、サンドラ復職のために奔走する人)が、経営者に異議申し立てをし、票決は作業責任者立ち会いで行われたため、その圧力が顕著であり、公正ではない、と再票決を願い出たところ、受け入れられ、翌週月曜日にそれが行われることになります。これが金曜日夕刻。
 初めから勝てる見込みのない闘い。予め挫かれてしまっているサンドラに、夫マニュは献身的に後押しをし、絶対に諦めてはいけない、と、残る2日間(土曜日と日曜日)に16人(ジュリエットを除くので実際は15人になりますが) ひとりひとりを説得して歩くプランを立てます。2日間で(ジュリエットを除いて)8人のサンドラ復職の賛意を取り付けること。戦う映画の始まりです。
 そこに現れるのは男女を問わず、みんなキツキツで生きている人たちなのです。馬の鼻の先のニンジンのように、千ユーロという大金をつきつけられ、それで「一息」がつける人たちばかりです。だから、サンドラが訪問しても、戸口に顔も出さず、門前払いや居留守をつかう人たちもいます。これをサンドラは理解してあげなければなりません。
 問題は初めからすりかえられています。病気で休職するということが解雇の理由になるわけがありません。サンドラは解雇される理由がない。ところが経営側は、従業員たちのつながりを分断させ、彼らの意志としてサンドラを辞めさせる方向に持っていこうとする。経営者は手を汚さない。観る者はまるで19世紀のエミール・ゾラの小説の中にいるような、理不尽がまかり通る世界を体験します。まるで20世紀に労働者たちが獲得したことなど、すべてご破算になってしまったかのような。
 しかし、奇跡は少しずつ起こっていくのです。「人間の尊厳 」のレベルでのせめぎ合いのようです。ひとり、またひとりと、サンドラの側につく者が現れます。サンドラは絶望と希望の浮き沈みに大揺れになりながら、その安定剤の投与量を増していきます。しかしサンドラが堪えられないのは、その目の前でその千ユーロをめぐって家族の激しい諍いが起こったり、夫婦が決裂したり、兄弟が流血の喧嘩をしてしまうことなのです。自分のことが原因で巻き起こってしまうもめ事やドラマに、サンドラは罪の意識に苛まれます。そして大量の薬物を飲み込み、自殺を図ることさえしてしまうのです。
 そのドラマのひとつに、家を購入したばかりの若いカップルがあり、サンドラの仕事同僚の女が、夫にいくら相談しても千ユーロを守れの一点ばりで、彼女は激しい口論の末、夫を捨てて家を飛び出してしまうのです。夫と別れる決心をした、と彼女はサンドラの家を訪れて言います。そして晴れやかな顔で「私は初めて自分の行き方を決めた」と言うのです。なんという救済! そして車の中でサンドラとマニュと彼女は、カーステから流れてくるゼム「グローリア」を大声で唱和 するのです。なんと美しいシーン。涙、涙。
 2日とひと夜、サンドラは歩き回り、走り回り、そのサンドラ票はあとひとりで過半数というところまでこぎつけます。どうしても会えなかった者もいるので、あとは翌日月曜の実際の投票に天命をかけるしかない...。

 結末は書きませんよ。
 小さな地方都市の中小企業の職のポストひとつが、人間性のギリギリのところまですり減らして傷ついて、多くの人たちを傷つけて...。日々感じていることかもしれませんが、私たちの生きている資本主義社会はここまで非人間的になっているのですよ。
 結末は書きませんけど、サンドラがロッカーから自分の私物を取り出して、工場を後に歩き始めた時に、電話で夫のマニュに笑顔でこう言います:
On s'est bien battu
私たちはよく戦った
それは後悔のない戦いだったのです。拍手。

カストール爺の採点:★★★★☆

↓"DEUX JOURS, UNE NUIT" 予告篇


 
 

2014年5月21日水曜日

生まれてきてすみませんと言う男

ミラン・クンデラ『くだらなさの宴』
Milan Kundera "La fête de l'insignifiance"

 小説としての前作が2003年の『無知(L'ignorance)』ですから、11年ぶりの新作です。その間文芸評論書は書いてましたが、フランスではプレイヤード版の「全作品集」2巻が出てしまったので、多くの人はクンデラはもう小説を書かないだろうと思っていたようです(テレラマ誌 2014年4月2日号)。で、前触れもなしの85歳での小説復帰で、ファンは湧いちゃいましたし、テレラマ、レクスプレス、ル・モンドその他各誌が、この高度に軽妙な小説の復活を大歓迎しましたから、日本の読者も長く待つことなく和訳で読める日が近いと思いますよ。
 まず、ずばり題名であり、キーワードである "insignifiance"(アンシニフィアンス)という言葉です。手元のスタンダード仏和辞典では
(人・物の)つまらなさ、下らなさ;(金額などの)取るに足らなさ
という訳語が出ています。これは人物ならば、月並み平凡であったり、空気のように透明であったり、というよりも、どうしてこの場に居合わせているのかわからない、意味がないネガティヴさを背負っちゃっているのです。くだらなさで衆人の目に止まってしまう、そんな人たちなのです。この小説ではこのくだらなさというものが、実はたいへんなものなのだという例を披露していきます。
 主要の登場人物は4人の男友だち(アラン、ラモン、シャルル、カリバン)であり、小説には人物として登場しないもののその4人に共通の "notre maître"(われらが師)というのがいて(それはとりもなおさず作者のミラン・クンデラなのですが)、その師がシャルルに『ニキタ・フルシチョフ自伝』を贈ります。その中でフルシチョフが伝えるスターリンがソヴィエト最高幹部たちに語った小咄という段があり、シャルルはいたく気に入って、これを戯曲化してマリオネット劇として上演したい、などと夢想したりします。
 ここで説明の必要はないと思いますが、スターリンはあのスターリンで、20世紀の歴史において、ある時を境に、社会主義建設の英雄的指導者から、弾圧と血の粛清に明け暮れた独裁暴君というふうに評価が変わってしまった人物です。フルシチョフは史上初めてスターリン批判をしたソ連指導者で、大きな目で見ればそれから長い時間をかけての東側陣営の崩壊の始まりの始まりだった人です。スターリンは終日かけての最高幹部たちの会議の緊張から解けて、その最後に一席自分の私生活の出来事を話すのでした。ところが同席した幹部たちは相手が鬼より怖いスターリンであるから、緊張を解くわけにはいかず厳かにそのお話を頂戴するのでした。冬のある日、スターリンは狩猟に出かけた。古いパーカで身を包み、猟銃を背負い、スキーで13キロを走破した頃、目の前の一本の木に24羽のヤマウズラが停まっていた。しかしその時スターリンは12発の薬莢しか持っていなかった。しかたなく彼はその12発で12羽のヤマウズラを見事射落とした。そして彼は13キロの道のりを引き返して家に戻り、再び12発の薬莢を取り、元の道を13キロ走破して、ヤマウズラの木のところまでやってきた。すると12羽のヤマウズラはまだ停まったままで、スターリンはその12羽を見事射落とし、遂に全部のヤマウズラを獲ることができた。という話。
 スターリンの話が終った時、同席幹部たちは誰ひとりとして喝采も笑いもしなかったのです。誰もが真っ赤なウソの作り話と知りながら! しかしひとりだけフルシチョフは勇気を持って「ヤマウズラは一羽もその枝から逃げなかったと言うのですか?」と聞いたのです。するとスターリンは答えて「いかにも。すべて枝の同じ場所に停まったままだったのだよ」と。
 会合が終わりソヴィエト最高幹部たちはクレムリンの幹部専用トイレの間(幹部の名前が”あさがお”の上に彫られている)に行き、スターリンがいないことをいいことに、自分の”あさがお”に放尿しながら大声でスターリンのホラ話に轟々の非難をするのです。ところがその壁の外ではスターリンがその幹部たちの声高の悪口をこっそり聞いています。
 その幹部たちの中でひとり目立たない男がいて、その名はミハイル・カリーニン(1875-1946)。ソ連の国家元首に相当する最高幹部会議長だった人です。日本語版ウィキペディアには「大粛清において、スターリンは当時まで生存していた革命時代の元勲を自身の脅威と見なし、そのほとんどを追放、処刑していた。しかし、カリーニンはソ連成立初期から実権の無い国家元首という名誉職にあり、権力闘争から遠ざかっていたため粛清対象とはならず、その命と地位を保った。」と記述されています。クンデラのこの小説では、なぜスターリンがこの男だけを容認したのか、という理由をその男の「つまらなさ(アンシニフィアンス)」によるものと展開するのです。
 1945年対ドイツの戦争に勝利し、東プロセイン北部を占領・併合したソ連はその主邑ケーニヒスベルク(王の山という意味)を、スターリンはミハイル・カリーニンに因みカリーニングラード(カリーニンの町)と改名しますが、その当時から21世紀の今日まで数々のロシア革命英雄の名前を冠された通りや町や地方(レニングラード、スターリングラード...)がその名を失っているのに、カリーニングラードはソ連崩壊後も改名されずにそのままなのです。あたかも誰もカリーニンの名前を知らないかのような無視のされ方ですが、そこは批判哲学の祖イマヌエル・カント(1724-1804) が生涯を過ごした町として世界的に有名であり、カリーニングラードはこれからも「カントの町」として世人の記憶に残るはずなのです。つまり、スターリンはカリーニンという目立たず取るに足らない人物を、「カントの町の名の人」というレベルまで押し上げてしまったのです。
 小説に登場するカリーニンは老いて前立腺を患い、頻尿症でトイレにしょっちゅう立つ男です。しかし最高幹部会議では長引けば、スターリンの手前、極限まで我慢するしかなく、場合によっては着座のままズボンの前を濡らしてしまうこともあります。スターリンはそういうカリーニンに慈しみさえ感じていたのではないか、小説の登場人物たちは言うのです。

 小説序盤に、4人の男友だちのひとりラモンと、ダルデロと名乗る金持ちの男が、パリのリュクサンブール公園で出会い、ダルデロが自分の誕生日に自宅で開くカクテルパーティーの取り仕切り一切をラモンを通してシャルルに依頼します。ラモンはダルデロの気取りや口のうまさなどから、あまり好感を持っていなかったのですが、この日ダルデロに自分がガンを発病したことを告白され、急に見方が変わってしまいます。ところがダルデロがガンであるというのはデマカセなのです。こういう「小人物的」なやりとりがとても効果的です。ダルデロはよせばいいのにそういうウソが口から出たのに、相手がそれまでにない親愛を見せたものだから、そのウソの効果に酔ってしまって、あとに引けなくなってしまいます。
 妻帯者ながらダルデロ同様「女性との出会い」が好きなラモンは、インテリゆえにこうすればこうなるということを知っているようなのに、誰かに出し抜かれたり、そっぽを向かれてしまう。気の利いた話術の名人であるダルデロは、その高尚さゆえに、意中の女をくだらない話をする男にまんまと取られてしまう。この二人は最終的に良く似ています。
 シャルルはホームパーティー屋のような仕事をしているのですが、そのパートナーがカリバンで、本職は俳優だったのに、まったく仕事がなく、しかたなくシャルルのために白装束でバーマンや給仕で手伝っています。カリバンはその仕事の時は、自分を全く目立たなくさせるために(逆にそれが目立つのですが)、フランス語を一言も話せず、理解もできないふりをして、誰にも理解不可能な偽パキスタン語をぼそぼそ話すのです。だからこの男には何を話しても無駄だというバリアーを作ってしまうわけですね。実は大変な俳優的パフォーマンスなのですが、件のダルデロのパーティーでは、その家のポルトガル人女性使用人に、そのバリアーゆえに不思議な恋慕の情を抱かせてしまう、ということになるのです。つまらない、取るに足らない男になるのは、実は大変難しいことでもあるのです。
 そしてアランはこの中で最もメランコリックな人物で、例えば人とぶつかった時にたとえ向こうが悪くても先に「すみません」と謝るタイプ。これをクンデラは"excusard"(エクスキュザール。謝り男)なる新語を作ってアランを形容するのですが、 何を置いても先に謝ってしまう、悪いのは自分だと思い込んでいる人間なのです。それは彼を幼少の時に捨てて、今は生きているのかどうかもわからない母親との関係に由来しています。彼女を妊娠させて捨て去った男がいたからです。母親はおまえは生まれて来るべきではなかったと言っていました。だから生まれてきてすみません、と太宰治のようなことを言う男になったのです。
 小説の後半で、この女がアランを妊娠中に自殺未遂をしたというエピソードがあります。 衣服をつけたまま海に飛び込み、そのまま溺れ死ぬつもりで潜水していくのですが、潜水できるほど泳ぎのうまい女だったのです。しかし、そこに目撃者がいたのです。その男は「やめなさい!やめなさい!」と繰り返しながら、自らも海に飛び込み、女を救おうとします。潜水途中に女は男に止められ、海面に浮上させられます。自殺を邪魔された女は逆上して、男をつかんで自分の体の下に沈み込ませ、数分の後にその男を溺死させてしまうのです。それほど泳ぎのうまい女だったのです。彼女は自殺する気を失ってしまい、溺死した男を放って地上に戻り、生きてアランを生んだのです。アランが死ぬかわりに、救助男が死んだかのように。アランは生まれる前に殺人を冒していたかのように。
 こんなすごい小話だけではなくて、150ページ足らず(しかもポイントの大きな活字)の短い小説の中に、いろいろ密度の濃い話がいっぱい詰まっていて、細部のわかるわからないは別として(例えば、スターリンによるカント論およびショーペンハウアー論など)、読む者の知的刺激の振幅計は大きく揺れるはずです。例えば、人類最初の人間(この場合エヴァ)にはヘソがない、という説。母胎から生まれたんじゃないから。へえ?そう?って言いたくなるような話でしょ。
 かくして、ダルデロの誕生日のカクテルパーティーと称して、この「くだらなさの宴」は展開されるのですが、天井から落ちて来る(なかなか落ちてこない)羽毛にみんなが見とれてしまうような、見事な「くだらなさ」は感動的ですらあります。
 終盤には現代のリュクサンブール庭園に、狩人姿のスターリンとそれを追いかけるカリーニンまで登場し、スターリンは猟銃を発砲し、頻尿症のがまんができないカリーニンは庭園のフランス歴代女王の石像に失敬してしまう、というシーンまで書かれます。
 音楽で言うならば(クンデラの父は音楽史家であり、クラシック音楽に親しいクンデラは小説をクラシック音楽の形式に則って書いたりする)、こういうのを狂詩曲(ラプソディー)と呼ぶのでしょう。最後の音符が終って(小説ではスターリンとカリーニンの乗った小さな馬車が、リュクサンブール庭園を出て、パリの街の中に消え去っていく)、マエストロが振り向くと大拍手が巻き起こる、そんな小説ですよ。

カストール爺の採点:★★★★★

Milan Kundera "La fête de l'insignifiance"
ガリマール刊 2014年4月 142ページ  15,90ユーロ

(↓)YouTubeアマチュア投稿で、『くだらなさの宴』の冒頭を女性が朗読しています。アランが初夏になって若い女性たちが街でヘソを露出して闊歩するのを見て、どうしてヘソなのか、ヘソにどんなセックスアピールがあるのか、と考え込むくだりです。