2014年10月15日水曜日

真四角な世界を抜け出して

『マミー』
"Mommy"
2014年カナダ映画
2014年カンヌ映画祭審査員賞
監督:グザヴィエ・ドラン
主演:アンヌ・ドルヴァル、シュザンヌ・クレマン、アントワーヌ=オリヴィエ・ピロン
フランス公開:2014年10月8日 

 最初は字幕です。この映画は原語ヴァージョンで観る人たちはおそらく字幕ばかりに注意が集中するでしょう。映画の中で登場人物たちが話す言語は「ジュアル (joual)」 と呼ばれ、カナダの「フランス語圏」とされるケベックの庶民階層で通用する非常に早口な町言葉です。「フランスのフランス人 (français de France)」とこの人たちはフランス人を呼びますが、そのフランスのフランス人ではこのジュアル語は半分も理解できないそうです。ましてや「フランスの外国人」である私には9割がた理解不能です。そこでこの映画はフランス語字幕つきです。その字幕を見ながら、このファッキングな町言葉("fuckin'"はそのままこのジュアル語に溶け込んでいて、意味も希薄なリズム取りの下品挿入詞でしょう)を聞きますが、(往々にして映画字幕というのはそういうものでしょうけど)字幕はこの雑多で豊穣な言語表現を大幅にはしょっている、ということが私でもわかります。
 さて、最初は字幕です。映画のイントロは字幕で、カナダにある法律が成立したことを告げます。2015年(つまりわれわれには近未来)に成立した(過去形)法律です。 「肉体的あるいは精神的あるいは経済的な理由で子供が社会にとって危険と判断される場合、家族はその子を国立の保護センターに養育委託することができ、その収容には司法手続きを必要としない」というような内容です。全世界的に増加している凶暴な子供、社会順応性のない子供などを国が面倒を見ましょうというものですが、これは合法的な子捨てでもあります。現実味のある近未来SFの始まりのような幕開けです。
 次にADHD(注意欠陥・多動性障害)という病気です。これはSFではなく現実にある障害です。それにはさまざまな障害の出方がありましょうが、この映画に出て来る14歳の少年スティーヴ(演アントワーヌ=オリヴィエ・ピロン)は知能は発達しているものの、過度にセンシブルで激しやすく、極度の興奮から極端な暴力状態に達してしまうのです。
 スティーヴは母親ディアーヌ(通称ダイ = Die。演アンヌ・ドルヴァル)と離れて寄宿施設で生活していましたが、その発作によって重大な問題を起こし、施設を出て行かなければならなくなります。映画は母ディアーヌがスティーヴを施設に引き取りに来るところから始まりますが、行儀も口も悪いこの母親の登場は、早くも映画のディメンションを「闘う映画 」の方向に決定づけます。つまり「不幸」に対して受け身でおろおろするのではなく、体当たりでぶつかっていくしかない姿がもろ見えなのです。このガラの悪さは、スティーヴの素行を見ると、この母にしてこの子あり、の感も否めません。
 夫(スティーヴの父)と死別し、女手一つでこの厄介者を育ててきました。世界でたった二人しかいな母と子は深く愛し合ってはいますが、その限界もあります。スティーヴは自分が信用されない、一個の人間として認められない、という疑念に耐えられない。そう思われたと疑いを抱いた相手には、たとえそれが母親であっても怒りは殺意にまで急上昇して抑えられなくなります。母親は母親で、自分が引き受けた運命とは言え、時にはすべてを投げ出したい衝動にかられることもあります。
 施設に置いておけなくなって、自宅にスティーヴを引き取って、新居に引越して二人生活が始まります。そのおかげでディアーヌは仕事も失ってしまいます。生活苦はすぐにやってくる。おまけにスティーヴの施設での傷害事件の被害者が訴訟を起こし、莫大な損害賠償金が請求されています。お先真っ暗だけれど生きていかなければならない。この映画は肝っ玉母さん物語でもあります。
 ディアーヌとスティーヴの引越し先の道を挟んだ向かいの家に、奇妙な女がいます。夫と娘の3人暮らしをしているこのカイラ(演シュザンヌ・クレマン)という女性は、二人が引っ越した時から自宅窓からこちらを覗き、気にしている風でした。 それがある日向かいの家で、スティーヴが発作的ヴァイオレンスでディアーヌと大乱闘になり、倒された家具で負傷してやっと鎮まったスティーヴの傷の手当をするために、カイラは二人の前に現れたのです。何の説明も必要もなく、瞬時にしてディアーヌとスティーヴのことを理解したように、この女性はこの時から二人の世界に割って入ったのです。
 カイラは情報エンジニアの夫と娘の三人で生きていますが(映画での説明はありませんけど)、不幸なのです。以前は学校教師をしていたということになっていますが、働かなくなって久しいのです。そして(これも理由は説明されていませんが)彼女は言葉を発声することに障害があります。いつから言葉が出しづらくなったのかわかりませんが、職を辞めたのはこのせいなのです。極端な「どもり」状態です。夫や娘に対してもこういう状態なのです。ところが、ディアーヌとスティーヴに対しては、そうではないのです。だんだん言葉が出てくる。ある日スティーヴの甘えた態度が度を過ぎた時、カイラは力ずくで少年の体を押さえ込み、激しい怒りと呪いの言葉をまくしたててしまったのです。スティーヴは恐怖のあまり失禁して、カイラに許しを乞うのでした。その心の叫びがあって、カイラとスティーヴは大の仲良しになります。
 ディアーヌは学校に行けないスティーヴのために、カイラの元教師のノウハウを生かして息子の家庭教師を依頼します。その学習時間を利用して、ディアーヌは働きに出ます。家政婦や掃除婦やその他どんな仕事でも食い付いて家計を支えます。スティーヴはカイラの教授法でどんどん勉強が好きになっていき、試験を通ってニューヨークのジュリアード・スクールに入学したい、という夢まで持つようになります。 映画はここで3人のユートピアを現出させるのです。
 最初に書くの忘れましたが、この映画の画面は特殊で縦横1対1の正方形なのです。だから顔ばかりが強調されて見えます。その上、冒頭で書いたように言葉が言葉なので、字幕を追いかけるのが忙しく、顔と字幕しか見れないような視界の狭さなのです。真四角というのは(この字から受ける印象もそうですが)本当に窮屈で閉塞感がすごいのです。グザヴィエ・ドランが狙ったこの息苦しい画面は、スティーヴ、ディアーヌ、カイラの3人の創り出した至福の瞬間に、その幸せのパワーで押されるようにぐ〜〜〜っと横に拡がっていき、16対9の映画画面になっていくのです。これはアベル・ガンスの映画『ナポレオン』(1927年)で途中で画面が3面のシネラマスコープ化して観る者の度肝を抜いた、かの映画のマジックと同じ系列のものでしょう。まさにマジックな瞬間です。
 この横長画面の幸せは、3人がリアルに束の間の休息を満喫している時に一回、そしてスティーヴが見事にジュリアード・スクールに入学できたり、結婚して子供ができたり、という想像の上での幸福の映像の時に一回。たった2回しか見ることができません。そして現実は3人のユートピアに対して破壊的で残酷で、画面はすぐに真四角に戻されてしまうのです。
 ディアーヌは夫の死後もそのまま老いるにはまだ若すぎるし、「きみはきれいだよ」と言われると全く悪い気はしないのです。ところがスティーヴにはそれが耐えられない。ディアーヌの(まだ男友だちにもなっていない)(職業が弁護士なのかどうかもわからないけれど、スティーヴの傷害事件の損害金請求のことでディアーヌが相談している)男とのレストラン〜酒場でのデートに同行したスティーヴは、ディアーヌが母親ではなく「女っぽく」なっていくことにがまんがならなくなります。そのイライラを抱えたまま、カラオケのステージに立ち、アンドレア・ボッチェリの歌を朗々と歌おうとしたのですが、その場にいた酔漢たちに邪魔されたり、バカにされたり...。ここでスティーヴは極端に凶暴なADHDスティーヴに逆戻りしてしまうのです....。
 ユートピアが崩れ、何もかもうまくいかず、ディアーヌは限界を越えたと判断して、遂に、かの2015年法に助けを求めることになるのです....。

 当年25歳、映画界の新アンファン・テリブル呼ばわりされているグザヴィエ・ドランの5作目の長編映画です。時事性も社会性も盛り込んだ、パワフルでヒューマンでエモーショナルでマジックもある2時間14分映画。私は泣きましたとも。それぞれがめちゃくちゃな問題ばかりを抱えた3人が寄り合ってできた一瞬のユートピア。こんな夢になかなか出会えるものではないでしょう。だから映画はマジックなのでしょう。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)グザヴィエ・ドーラン『マミー』予告編


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