2014年2月9日日曜日

パリの日本人にとって「パリ的」なるもの

小沢君江『四十年パリに生きる』

 日本で出版された日本語の本なので、何も私が解説したりしなくてもいいんですけどね。今さっき「ラティーナ」に紹介記事の原稿送ったところです。掲載号は2014年3月号の予定。
 著者小沢君江さんは、パリの日本語新聞(フリーペーパー)オヴニーを編集発行しているエディシオン・イリフネ社の共同代表(もう一人は夫のベルナール・ベローさん)で、その前身であるフランスで初めての日本語ミニコミ紙「いりふね・でふね」は1974年5月の創刊だから、今年でちょうど40年間日本語新聞作りをしている方です。この本は1993年に草思社から出版された『パリで日本語新聞をつくる』の増補改訂版で、パリ生活20年&日本語新聞作り20年の時点で書かれた同書に、今日までのその後20年のことを二章新たに書き加えたものです。50歳までの自叙伝を70歳までの自叙伝に延長した、という感じですね。
 タイトルを見ると、パリ生活体験記か、自分が作ってきた新聞のクロニクル的回想録みたいねものを想像してしまいますよね。あにはからんや中身は(もちろんそれもあるんですが)実に濃厚で、 小沢さんの女の生きざまがむき出しになっていますし、日本人フランス人関係なく盆百のパリ市民には絶対に体験できないさまざまな特別な事件も記述されもしていますが、それよりもなによりも、小沢さんとご主人(文中では「ルネ」という仮名になってますけど、ベルナール・ベローさんです)の関係が年と共に深化していっているというのがこの本の一番太い軸だと思ったのですよ。雑誌原稿はそのことを中心に書いたので、小沢・ベロー夫妻の「愛の軌跡」的な紹介になりました。そんなふうに読む人って余り多くないと思いますよ。ただ、無理矢理な深読みではない、と断言できます。
 「ルネ」と小沢さんは1963年に東京で出会っていて、早稲田の仏文科にいた小沢さんは翌年の東京オリンピックのためのフランス語通訳に借り出されることになっていて、「ルネ」はその通訳コーチでした。二人の関係はそれから50年の Je t'aime moi non plus です。その微妙な難しさは「日仏」カップルであることがまず第一にあり、その「日仏」は40-50年前と今日ではおおいに違っていると思います。文化の違いの壁というだけではなく、時代が持っていた空気の差もあります。当時の小沢さんはサルトルやボーヴォワールを読んで大きく影響されるような「新しさ」(これはもちろんカッコつきで書かねばなりません)があった反面、親が探してきた相手と見合いで結婚してこのまま家庭に入るのもしかたない、という当時の「人並みの」考えもありました。これを「ルネ」が変えてしまうのですが、それは多少なりとも当時の日本に逆らうことでした。出会いから8年かけて二人は結婚し、長男(それが現在、イリフネ社の代表となっている、ダン・ベロー君です)が生まれた翌年の72年にパリに移住します。
 そこまでの間にフランスは68年5月革命がありましたし、日本も大学闘争で揺れ動いた時期でした。「ルネ」は日本で映画の仕事(特に日本の独立プロの映画をフランスに紹介する仕事)をしていたし、日本の新左翼のことをルポルタージュする本をフランスで発表したりしていました。小沢さんもまた銀座の画廊で働きながら、銀座通りにベトナム戦争反対のデモ行進が通ると職場を抜け出して、デモに参加してしまうようなやんちゃな女性でした。 私はベロー一家のフランス移住前の約10年間が、全面的に「いい時代」だったとは言いませんが、確実に何かを変えてしまった運動の時期だったと思います。それが日本で急速にしぼんでしまう(71年〜73年)頃に、フランスに移住したのです。
 本には出てきませんが、原稿のためにインタヴューした時に(これも原稿には書いてませんけど)、あの当時全共闘運動の残党が「革命浪人」のような粋がり方で海外移住するケースがあり、ヨーロッパにもずいぶん流れていて、自分たちもそんな見方をされたことがあった、と言っています。しかたないでしょう、それは。これは本に書かれていることですが、実際に1974年の日本赤軍派によるオランダ、ハーグのフランス大使館占拠事件に関与したという嫌疑で、「ルネ」はフランス警察に逮捕され、拷問にかけられるという体験をしています。その一部始終と顛末が、74年に創刊された日本語ミニコミ紙「いりふね・でふね」の紙面で、堀内誠一さんのイラストで描かれているのです。
 「いりふね・でふね」はそういうアンダーグラウンドで、アヴァンギャルドで、ある種反体制的な傾向をはっきりと出していたミニコミ紙だったと思います。それは74年から79年までそれは続くのですが、 宝物のように全号保存しているファンも多いと聞きます。
 それは「日本とフランスの文化の架け橋」のようなお題目をはるかに逸脱した、斜に構えた市民感覚で、パリとフランスを観察して、面白がり、楽しみ、パリの日本人たちと情報を共有しよう、という知的コミューンの創造だったと私は見ています。当時読んでいて「何だこりゃ」と思った人たちもいたでしょうが、めちゃくちゃ面白がった人たちの方が多かったんじゃないかな。私のイメージの中では、70年代に「パリ的」というのはそういうことだったのです。
 私はその末期の79年にフランスに移住しました。既に1万人を越えていた在パリ日本人住民の中には、やはりそういう粋がり方をしている人たちが多くて、訪れる日本人観光客たちを冷たい目で見るような傾向がありました。パリの本当の良さは観光客にはわかるまいに、みたいな優越感でしょう。79年に創刊されたフリーペーパー「オヴニー」は、「いりふね」の延長線上にあるとはいえ、アンダーグラウンド/アヴァンギャルド性は大きく後退し、「売りたし買いたし」「アパート情報」「求人」などの情報交換欄で、在パリ日本人社会に圧倒的な浸透力で広まっていきます。その大衆的な波及力は、大使館の広報活動や在仏日本人会など全く比較にならないものでした。在パリ日本人たちは、自分たちに最も身近な活字メディアをやっと手に入れたのです。
小沢さんの本には触れられていないことですが、日本経済の伸張に比例して80-90年代はフランスでの日本企業の数も増え日本製品の露出度も高く、パリにそのまま日本社会の一部が出来るのではないか、という勢いがありました。大きな企業の人たちはそう考えていたでしょうね。フランスに合わせることなどない、日本式にやるのが成功の条件だと思っていたでしょうね。私はそうは思っていなかったから、日系企業の子会社を辞めて、(ヤクザな)音楽の仕事に入っていきました。幸いにしてバブルは良い時期にはじけたと私は思いますよ。パリでも「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は急速にしぼんでしまった。奢る平氏...。その頃、オヴニーの対抗紙が出来て、日本の大新聞の受け売りのようなエディトリアルを展開するので、私はこの人たちは根本的に「パリ的」ではないと見ていました。
 が、私も歳取ったのでしょう。オヴニーも70年代的なところからずいぶん遠くに来てしまいましたし、小沢さん的なエスプリが今日どの程度まで紙面に生かされているのか、ちょっとわからなくなる時もありますよ。毎号の時事解説批評欄を、今でも小沢さん自身が1200字で書いていらっしゃるし、それが「楽しい」とご自身が語っています。最新号(2014年2月1日号)では、極右&反ユダヤ主義を煽動することを「お笑い芸」とするボードヴィリアン、デュードネのことを解説してました。ヘイトスピーチが堂々とメディアや街頭に登場する日本とは違い、フランスは最高行政裁判所(Conseil d'Etat)の命令でデュードネの劇場でのショーを全国的に禁止しました。日本とフランスの違いで、考えなければならないことのひとつだと思いますよ。私たちフランスにいる日本人は、ときどきそういうことを日本語で言わないといけません。そういう意味もあって、私は小沢さんを応援する記事を書いたのです。土台にあるのは70年代的エスプリだと、私は感じています。

小沢君江『四十年パリに生きる   ー オヴニーひと筋 ー』
緑風出版刊 2013年12月 270ページ

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