2013年6月2日日曜日

悲しき玩具

『危機の時代におけるセックストイの使用について』
2012年フランス映画
"L'usage du sextoy en temps de crise"

監督:エリック・ピタール、主演:エリック・ピタール、マリー・レナル
フランス公開:2013年5月22日

  リック・ピタールは1953年生れの映画人です。ま、私と同世代と言えます。ピタールは一般に名の通った映画監督というわけではなく、ドキュメンタリー作品が圧倒的に多く、その大部分は国内外(特に海外)の社会闘争や民衆運動などを内部に入って取材したものです。闘う映画人、そういう立場です。68年5月革命の時は14歳でしたけど、既にゴダールら「マオ派」に近いポジションにあり、74年から77年までIDHEC(フランス映画高等学院)の教授と学生たちで構成された闘争的映画集団「シネリュット (Cinélutte)」のメンバーでもありました。 往々にしてメディアでは「極左」(extrême gauche)という枕詞がついて紹介される集団ですが。この映画でも、ピタールが回想的に旧マオ派の人たち(いい味の老人たちです)を出演させています。というわけで、それまで一般上映館にはあまりなじみのないドキュメンタリー映画をたくさん撮っていたのですが、私が初めてこの監督の作品を知ったのは、ゼブダが出演し、1998年のトゥールーズ郊外暴動事件を取材した映画 "Le bruit, l'odeur et quelques etoiles" でした。そしてその後2011年にジャズ・サキソフォニストの仲野麻紀さんを雑誌インタヴューした時に、仲野さんと"Ky"というユニットを組んでいるギタリストのヤン・ピタールが、エリック・ピタールの息子であることを知ったのでした。
 ヤンの話が出たので、先に音楽のことを書いておくと、この映画の音楽のオリジナルスコアはヤンの手になるもので、映画の最後のクレジットタイトルで流れる歌"La Chanson du Sextoy"は仲野麻紀さんが歌っています。いい歌です。
 さて、『危機の時代におけるセックストイの使用について』です。タイトルで構えてしまう人出てきますよね。また、こういうタイトルだから、そういう映画だと思って見に来る人もおりましょうね。ポスターの図柄は、社会党(PS)のロゴマーク(赤いバラ一輪と握りこぶし)のもじりですが、PSが右手握りこぶしなのに、このポスターでは左手握りこぶしであることなんかも、それなりに意味があるのだと思いますよ。
 危機の時代とは今現在のことです。時代の空気は危機的です。フランスの事情を言ってみれば、(一応 )左翼の大統領が選出されたのに、なぜに危機はますます深刻化していくのか、という不条理にして不可解な状況ではありますが、PSに期待したあんたがアホ、と言う人たちとはあまり口を聞きたくありません。エリック・ピタール(実名で出てきます。言わば主演男優です)は、この危機の時代に、自らも健康の危機に陥ってしまいます。より正確には生命の危機です。私は医学用語は無知で、何を言われてもわからないので、この映画の病院シーンは全く解釈できておりませんが、とにかく大変な事態で、何人もの専門医が稀なるケースとして議論しながら彼の治療に携わっていきます。これは自分は死ぬかもしれないという問題を通り越して、自分の体はもう自分のものではなく、病院に献体された実験材料であるかのような「やられ放題」なわけです。エリック・ピタールはこうしてゾンビーとなっていくのです。
 この闘病のいきさつをピタールは自分自身を俳優にして再現ドラマ化し、自分自身を固定カメラで撮影し、カメラに向かって独語します。このピタールのドラマの部分はモノクロで描かれ、独白の背景にブルターニュ海岸に打ち寄せる波が映されたりします。
 "J'ai fait le con"(俺はバカをした)とその独白は始まります。「俺に残されたものは、これとこれだけ」とカメラに見せる二つの物体は、右手にセックストイ、左手に映画フィルムの巻物。ピタールは世界中を旅して取材していたリポーターという自己紹介をします。中南米、アフリカ、マグレブ、フランスなどで実際にピタールが撮ったフィルムの断片が回想エピソード的に導入されるのですが、それらはすべてカラー映像で、ほとんどが労働者・人民の闘争シーンなのです。 現在の自分はモノクロで、過去の映像はカラーという意味もわかります。病室の中で、彼は失われた記憶をひとつひとつ取り戻していくのですが、それらは若き日の闘争の記憶なのです。若き日のマルク・ペロンヌ、ベルナール・リュバのアコーディオンも出て来て、私などは「おっ!」とうれしくなったりします。
 彼にはレイラ(演マリー・レナル)という(たぶんまだ交際年月の長くない)恋人がいて、二人は並の40歳台&50歳台の恋人同士のように愛し合っている(なにかこの映像ではあまりにも淡々として熱愛ではないように見えますが、40歳台&50歳台なのでこれが並でしょうか)のですが、白血病発病と共にエリックは欲望も失ってしまうのです。しかし映画のタイトルが仄めかすように、ここが最重要のテーマではないのです。
 深刻で痛々しい闘病場面は現れません。医者や看護婦たちは冗談好きで、非常にヒューマンな描かれ方です。実体験上お世話になったから敬意を表して、というだけではない、ドキュメンタリー映画人の「現場で働く人々」への厚い視線のようなものまで感じます。そして(私にはさっぱりわけのわからない)様々な治療法の甲斐あって、エリックは入院退院を繰り返す病気の鎮静状態に落ち着いていきます。その退院中に、レイラのアパルトマンでその衣装戸棚の中から偶然セックストイを発見してしまうのです。
 その間に国民保険局はエリックのことを重度の障害者として認定してしまい、二度と働くことまかりならずの身になってしまいます。「生」の世界から見放されてしまったようなショックです。
 病院で出会った(不法滞在の)アフリカ人に、病院で一緒に撮った写真を届けに行きたい。 「生」の世界への復帰をこういう小さなことから始めていくのですが、相手は不法滞在者ですから、なかなか見つかりません。田舎で休養したいというレイラと連れ立って、エリックはかつて毛沢東主義運動家だった農民の家を訪れ、自分の古い闘士の記憶を刺激されてしまいます。パリに戻って、彼は再びディジタル・ヴィデオカメラを抱え、サン・マルタン運河沿いのホームレスたちのキャンプ村を撮影して、闘士の血を蘇らそうとするのです。ところが、それは撮影された女から唾を吐きかけられる、ということになるのですが。
 セックストイは問題ではありません。なぜなら、それに刺激されたこととは言え、エリックには性欲が戻っていくのですから。それは同時に「生」への欲でもあり、危機の時代にも闘争心は「生」へのエネルギー源として機能するのです。
 闘争のさまざまな記憶は、彼が撮ったドキュメンタリー映像のコラージュとなって映画に挿入されていきます。その中でカギとなる映像のひとつが、2004年、サン・ナゼール造船所から完成した姿となって出港する超豪華客船クイーン・メリー・2を捉えたイメージです。その頃エリックは造船所の労働者(特に外国人労働者)たちのストライキやデモを撮っていました。そういう運動を経て、この超豪華客船は多くの労働者たちや市民たちから見守られて出港していきます。その中にシルヴェットと名乗る女性もいます。
 エリックの「生」への欲求は、こうして、もうひとりの女性、すなわち当時サン・ナゼールで彼が(たぶん)愛してしまった女性の記憶まで蘇らせてしまったのです。レイラはそのことを知りません。エリックはシルヴェットに手紙を書き、その返事の手紙がレイラのアパルトマンに届きます。おそらく彼は自分の病気のことや、レイラのセックストイのことまでも手紙に書いたのでしょう。その返事の手紙を「俺は病気で目が弱くなってしまったから、代わりに」とレイラに音読させるのです。それはシルヴェットが再会を望む手紙なのです。隠れた愛人登場。このバカ男。その手紙が終わって、レイラはエリックの「生」への復帰を祝福するように、二人の情熱の復活を祝福するように、二人でタンゴを踊るのです。
 いいですか、お立ち会い、これは男の側のリクツでできた映画ですよ。イージーな「生の讃歌」じゃないですよ。まあ、私は同年代の同性として、ちょっと共感する部分が多いので、まあ、よしとしようじゃないですか。

カストール爺の採点:★★★☆☆

↓エリック・ピタール『危機の時代におけるセックストイの使用について』予告編

De l'usage du sextoy en temps de crise par MonProgrammeTV