2013年4月30日火曜日

あわゎゎゎ...

『日々の泡』2013年フランス映画
"L'Ecume des jours" 監督:ミッシェル・ゴンドリー、主演:ロマン・デュリス、オードレー・トトゥー、ガド・エルマレ、オマール・スィ
フランス公開:2013年4月24日


 まずミッシェル・ゴンドリーというマルチな映像作家のことから。1963年ヴェルサイユ生れ。ウィキペディアの記述によると祖父にあたるコンスタン・マルタンというエンジニアが、1947年に開発された世界初の単音シンセサイザー「クラヴィオリーヌ」の発明者だそうです。またゴンドリーの父親も電子エンジニア・情報エンジニアで、ジャズ狂にしてアマチュア・ピアニスト/キーボディストだったそうです。ここでゴンドリーの育った環境が、ヴェルサイユの裕福な家で、その中に楽器や電子機器がごろごろ転がっていたようなところであったことが容易に想像できます。そんな中で少年ゴンドリーは発明家か画家になることを夢見ていました。(私の家のセーヌ対岸の丘の上にある)セーヴル工芸リセに通っていた頃の仲間にエチエンヌ・シャリー(この映画『日々の泡』の映画音楽作者でもあります)がいて、この二人を中心にしたロック・バンド、ウィウィは1978年に結成されていて、ゴンドリーはドラムス担当でした。凝ったサウンドと奇態なユーモア感覚を特徴としてインディーズ・シーンでは一部に(言わばクロート筋に)高い評価を受けるものの、バンドは2枚のアルバム(1989年、1991年)を残して解散。しかしウィウィはミッシェル・ゴンドリー監督制作のヴィデオクリップが(バンドの音よりも)、MTVなどを通じて世界的に知れ渡るという徒花を残します。例えば、このクリップ "La Ville"(↓)

この足上げダンスの手法は、映画『日々の泡』の中にも再現されます。こういう数点の傑作クリップのおかげで、ゴンドリーはビョーク、カイリー・ミノーグ、ローリング・ストーンズなどから続々クリップ制作依頼が飛び込んできて、往年のジャン=バチスト・モンディーノを凌ぐ勢いの、世界超一流のクリップ作家になっていきます。同時に広告界にも進出し、エール・フランススミルノフ・ウォッカリーヴァイスなどで傑作CMを作ってしまいます。
 当然のように映画の世界に入って行きますが、それまでの活動が国内よりも国外の方が評価が高かったのでしょう、長編第一作『ヒューマン・ネイチャー』(2001年、パトリシア・アーケット、ティム・ロビンス主演)からアメリカ制作の映画でした。それからこの最新作の『日々の泡』まで長編映画は10本撮っていて、そのうち8本がアメリカ制作なんですね。それも『グリーン・ホーネット』(2011年、セス・ローゲン、キャメロン・ディアス、ジェイ・チョウ主演)のようなハリウッド大予算ブロックバスター映画までやっちゃってる。結構この辺が私のひっかかりだったりします。
 折しもこの5月に、ヴェルサイユ派の旗手のようなエレクトロ・ロボット・ミュージックの2人組ダフト・パンクが3年ぶりの新作 "Random Access Memories" を発表するというので、その方面がかなり騒がしいのですが、私はゴンドリーとダフト・パンク(およびフェニックスやエールのようなヴェルサイユ派)はかなり似たようなサクセス・ストーリーを経てきているように見ています。国内よりも最初からアメリカで成功してしまうところ、主要言語が英語であること、ヴェルサイユの裕福な環境の出身であることなどなんですが、人が想う「フランス的なるもの」から遠くにあることで逆説的に「フレンチ・タッチ」を外国で発揮してしまう人たちなんですね。このことで言うなら、「フレンチ・タッチ」という概念をフランス人たちはほとんど理解できていないのです。何が「フレンチ・タッチ」なのか、これは外国人にしかわからないものなのでしょう。
(↓ダフト・パンク"Around the world" 1997年、ゴンドリー制作のクリップ)


 そのゴンドリーがきわめて「フランス的なるもの」に初めて挑戦した映画です。 ボリズ・ヴィアン(1920-1959)の小説『日々の泡』の映画化ですから。この小説はフランスだけでなく、日本でもかなり多くの読者を持った作品です。私のような昭和期に仏文科の学生だった人間には必読の「青春の書」みたいなものでした。発表は1947年。ジャズと実存主義(サルトル)とサン・ジェルマン・デ・プレの時代のSFファンタジー恋愛残酷物語です。ヴィアン存命中には知る人ぞ知るの小説だったのが、死後に驚異的に読者を増やし、『墓につばをかけろ』と並び称されるヴィアンの代表作として、みんな暗記するほど読んだんです。で、どういう小説かと言うと、女の子と一緒にいることとジャズがメシよりも好きな金持ちの若者コランが、デューク・エリントンが編曲した曲と同じ名前の娘クロエと恋に落ち、雲の上にいるかのような幸福な日々を送るが、クロエが肺の中に睡蓮の花ができるという奇病に襲われ、それの治療のためにコランはクロエを転地療法させたり、多量の花を買ってクロエに送り続けなければならなかったり、(その他の事情は省きますが)コランが持っていた巨額の財産は底をつき、クロエの死に至っても葬式の金をまともに払えぬほどの困窮の状態にあり、このままコランも悲しみの中で死んでしまうだろう、という結末。ずいぶんはしょりましたが、大体こんな感じ。
 で、ゴンドリーの映画化は、私の印象では、超ポピュラーな原作の映画化にありがちな、「みんなだいたいの筋は知っているんだよね」という観客設定が前提となっているようなところがあります。大体が原作の忠実な映画化などできっこないような小説ではありますが。テレラマ誌4月27日号は「原作に忠実であることを尊重しすぎた結果、がっかりさせるような出来になった映画」という例のひとつにティム・バートンの『不思議の国のアリス』(2010年)を挙げています。それにひきかえ、ゴンドリーは原作へのベーシック(ほんとにミニマムにベーシック)なリスペクトを踏まえた上で、かなり自由翻案な、ほとんどやりたい放題の映画になっています。アメリカもジャズも実存主義も出番はほとんどありません。ヴィアンの小説がゴンドリーの放縦なイマジネーションを極端に刺激した結果でしょう。
 裕福で怠け者で内気な青年コラン(ロマン・デュリス)は、通りを挟んだ高い二つの建物の中腹を屋根付き橋のように繋いでいる、鉄道客車の形をした家に住んでいます。両端が建物に接していますが、それを見なければ宙に浮いた列車で、銀河鉄道ムードです。そこには料理人にして「弁護士であり思考の師匠」でもあるニコラ(オマール・スィ)がいて、いつも極上のごちそうを作ってくれますが、それを影で手助けしてくれるのが大シェフのジュール・グーフレ(アラン・シャバ)で、彼はいつもテレビのブラウン管映像の中にいてニコラに細かい指示を与えたり、冷蔵庫の中にいて最良の材料をニコラに選んであげたり。またこの家の重要な同居者に黒い口ひげを生やしたネズミ(サッシャ・ブールド)がいて、机の引き出しの中の野菜農園を耕したり、コランのジャズ・レコードをターンテーブルに乗せるディスクジョッキーになったり。ここには様々なシュールなガジェットがあり、弾いたピアノの音色によって配合される材料や味がつくられるカクテルマシーンとか、見たい対象を例えば「クロエの好きなところ」というような抽象的な指示入力をするとそれを探して見せてくれる望遠鏡とか...。それらはすべてコランの発明であるわけですが、この夢見心地の青年はその夢をひとつひとつ現実化するような発明を、ありあまる金にまかせて道楽でやってしまえるのですね。そこに親友にしてエンジニア(しかしコランほどの発明能力はなにもない)のチック("Chick"と書くが、フランス式に「シック」ではなくここはヴィアン流アメリカ式に「チック」と呼ぶべき)(ガド・レルマレ)がやってきて、彼が黒人女性のアリーズ(アイサ・マイガ。セネガル出身の女優。映画後半で哲学者ジャン=ソル・パルトルの殺害者となりますが、この映画で最も注目されていい女優さん)と恋に落ちたと告げます。コランはそれに嫉妬して、自分も恋人を探さねば、と。
 ニコラの恋人であるイジス(シャルロット・ル・ボン。カナル・プリュスの番組「グラン・ジュルナル」の天気予報嬢で人気の出た人)の家でのパーティー(セットがとても「テレタビーズ」的。そしてみんなが踊るダンスが、↑に書いたウィウィの"La Ville"と同じ振り)で、コランはクロエ(オードレー・トトゥー)と出会う。その娘が「デューク・エリントン編曲のシングル盤」と同じ名前を持っていることに、なにか運命的なもののように感じてしまったロマンはクロエと電撃的な恋に落ちます。
 この映画はこの恋のシーンばかり見ていたら、それはそれは幸せな気分になれますよ。ゴンドリーのファンタジー全開で、特に雲の形をした遊園地観覧カプセルに乗って自在に空や町を移動するシーンなどは、映画史上に残るかもしれませんよ(ウソです)。また、結婚式(会場がわが事務所から徒歩5分のメニルモンタン坂の教会、ノートル・ダム・ド・ラ・クロワ聖堂です)での箱自動車レース(ロマン+クロエのチーム対チック+アリーズ+ジャン=ソル・パルトル人形のチーム)も大遊園地のどんな奇抜なアトラクションも叶わないでしょうに。
 この映画でロマン・デュリスは一連のセドリック・クラピッシュ映画(「猫が行方不明」「スパニッシュ・アパートメント」「ロシアン・ドールズ」...)に出ていたそのまんまのロマン・デュリスに見え、オードレー・トトゥーはそのまんま「アメリー・プーラン」なのです。なにかこの二人はセルフ・パロディーをしているような絵が多いのです。だからハッピーなところではこれ以上のキャスティングはないだろうという感じではまっているのですが、不幸がやってきてからが弱い。クロエが発病(肺の中に睡蓮の蕾ができているという奇病)してからも、デュリス+トトゥーのキャラクターだったら楽観的に見ていてかまわないんじゃないの?という軽さが観る者には勝ってしまうのですね。
 映画は、ゴンドリーの遊び仕掛けを全編にちりばめながらも、後半はシリアスな展開に変わっていきます。貧乏人チックは恋人アリーズよりも哲学者ジャン=ソル・パルトル(フィリップ・トレトン!)を愛しているが故に、親友ロマンからもらった金もすべてパルトルに貢いでしまう。映画はここで(原作にあるように)出版界のスターシステムを痛烈に揶揄(サルトルとボーヴォワールへのあてこすり)したり、工場労働の非人間性を暴露したりするのですが、まあ、この辺は単なるオカズ程度のことで。
 クロエの病気は重くなり、自慢の客車ハウスはどんどんボロボロになっていく。金がなくなり、あれほど働くことを嫌っていたロマンも労働者に身を落とし、泣く泣く料理人のニコラにひまを出すしかない。アリーズは嫉妬のあまりパルトルを殺害し、書店に火を放ってその中で焼死してしまう。チックは税金未納という不条理な罪状で投獄させられてしまう。客車ハウスは崩れ落ち、ほとんど地下壕のさま。黒ひげネズミだけが最後まで献身的にロマンを助けるのだが...。

 アメリカでは既に "Mood Indigo"というタイトルで公開されていることが決まってますし、日本でも『うたかたの日々』という邦題でこの秋公開だそうです。ゴンドリーですから、早々と外国配給が決まってしまうのはわかりますが、この観客たちの大多数はボリズ・ヴィアンを知らない人たちで、それはもうあっち向けホイでかまわない、というパワー(観客動員パワーということですが)がこの映画にはあります。ここに引っかかりを感じてしまうフランスのプレス評は少なくなく、レ・ザンロキュプティーブル誌のセルジュ・カガンスキは、とにかくエフェクト過剰、ストーリーの深みが皆無(不治の病の軽さ)、豪華メンツ(デュリス、トトゥー、スィ、エルマレ...)が人形のように何のキャラクターもない、と酷評しています。逆にテレラマ誌のジャック・モリスは、この種の映画が陥りがちなディジタル・エフェクトの洪水という罠にゴンドリーははまっておらず、むしろクラフトマンシップに則った手作りで前時代的な「特撮」処理がこの映画を救っているとして、「大見せ物」にしなかったゴンドリーの妙をたたえています。
 それは画面に映し出されるおおまかな時代設定が風景(レ・アール工事現場)や自動車のかたちもそうですが、キーボードではなくタイプライターが強調され、レコードは塩化ビニール盤であったりする50-60-70年代の混在であることや、その時代の最先端モダニズム(過去から見た近未来)の想像上のガジェットがすべて、私たちにはなにか黄ばんだような、セピアがかったような映像に見えてしまう、という妙だと思うのです。それがわかれば、たとえボリズ・ヴィアンを読んでいようがいまいが、この映画の持ってしまった奇妙な「なつかしさ」は多くの人たちに共有できると思うのです。

カストール爺の採点:★★★☆☆ 

↓)ミッシェル・ゴンゴリー『日々の泡』 予告編
 
 

2013年4月20日土曜日

手を打って、ムッスー・テ

Moussu T & Lei Jovents "Artemis"
ムッスー・テ & レイ・ジューヴェン 『アルテミス』


 ムッスー・テ&レイ・ジューヴェン、2年半ぶりの5枚目のアルバムです。前作『プタン・デ・カンソン (拙ブログのここでレヴューしてます)のことを書いた時に、私はこんなにたくさんアルバムを出していいのだろうか、とその多産ぶりにちょっと首をかしげたのですが、スタジオ盤としては2年半ぶりでも、2012年にライヴアルバム "Empêche-nous"も出ているので、多産家ペースは崩れていないんですね。
 一体いつからタトゥーは座って歌うようになったのか。マッシリア・サウンド・システムの時は立っていたんですよ。レイ・ジューヴェンになってから座ってしまった。これは「ワイをぶちまく」アティチュードとは別物ですよ。なぜもうマッシリアのようにできないのか。まあ、ソロでやるということは、マッシリアと違うことをしなければ、その意味がないわけではありますが、この「座位」はラジカルな変容でした。
 私なりの説明を試みるとすると、それは「レゲエ/ラガ・バンド」(マッシリア)から「ブルース・バンド」(レイ・ジューヴェン)への転身であって、タトゥーがブルース(これは彼自身がオリジネーターとなっている「マルセイユのブルース」ということです)に強烈にこだわった時から座るようになった、と見ています。ブルースマンは座っている。全部が全部じゃないでしょうが、ブルースマンはだいたい座っている。タトゥーは立とぅうとしなくなった。I'm stay seated.  .... (ここ「ムステ」とシャレようとしたのだが、うまく行きませんでしたね。呵々)
 マルセイユにブルースは存在するか。それは本牧にも伊勢佐木町にも存在するように、マルセイユにも存在するのです。アフリカへの郷愁がブルースの根っこだとすると、マルセイユはアフリカ大陸に海路でつながった港町なのです。昔々2600年以上も前に古代ギリシャ人(ポカイア人)がここに港町マッサリア(ラテン語読みではマッシリア)を築いた時から、その建設のために奴隷で働いていた人たちや、その後この港で2600年も働いていた人々にはさまざまな「ブルース」があったと想像するのは間違いではないでしょう。
 新アルバムは『アルテミス』 と題されています。これはギリシャ神話に登場する「狩猟・純潔の女神」とウィキペディアには説明されていますが、古代小アジアの商業都市エペソスで盛んだった処女女神アルテミス信仰は、移動してきたポカイア人によってマッサリアに伝来し、マッサリアの守護女神となるのです。すなわちマルセイユは古代より純潔の女神に守られているわけです。アルバムの3曲めに収められたタイトル曲「アルテミス」はこんな歌詞です:
かまどの女神
おお強き女主人よ
おまえの家に入口には
戦いから戻って
疲れきった奴隷が
おまえの愛撫に飢えて
おまえの火刑場で
身を焼きたいと望んでいる
女よ、俺はおまえの犬になりたい
女よ、優美な女よ
家庭のマドンナよ
その指が星や稲妻を動かす
マドンナよ
この閉ざされた世界の
おまえの哀れな兵隊の
願いを聞いてくれ
この男はおまえのたらい桶の中で
溺れ死にたいのだ
歌よ、馬よりも早く
俺の祈りを伝えてくれ
女神よおまえはどこにでも入れる鍵を持っている
ためらわずに行っておくれ
その黒いインク壷の中に
霊感の泉があるところへ
原詞はオック語(プロヴァンサル語)で書かれていて、これはそのフランス語訳からまた訳をしたものです。こんな下手な訳じゃわかんないかな? これは女性崇拝、女性讃歌なんですよ。マルセイユの各家庭の中にはこういう女神(日本語でいうところの「山の神」と似ているニュアンスですよ)がいて、男を戦場に送り、男に詩的霊感を与え、男にこの女神のためならば死んでもいいと思わせるのですよ。古代女神アルテミスから、今目の前にいてご家庭の台所に立つ奥様まで、みんな私たち恭順な男たちは身を捧げて尽くさなければいかんのですよ。これを中世トゥルバドールの言葉では「アムール・クルトワ amour courtois」と言い、 この献身の愛は12世紀オクシタニアで発明された、ということになってるんですね。
 つまりこの歌は、マルセイユ的アイデンティティー(アルテミス信仰)とオクシタニア的アイデンティティー(女性崇拝、アムール・クルトワ)を総合させた、神話的スケールのマニフェストなんですよ、お立ち会い。

 アルバムは港町マルセイユの男たちの心意気を誇示するかのように、海の男の歌(chanson de marins)から始まります。

Embarcatz !
頼むよ、お頭! 俺たちの持ち場をつくっておくれよ。
俺たちは家を出て、もう家なんか焼き払ったんだ。
阿呆どもや卑怯者どもを煙に巻いたんだ。
未来は俺たちに合図を示したんだ。
頼むよ、俺たちは機械の音を聞きたいんだ
ピストンが騒々しく躍動する音がさ。
そしたら岸はもう目から見えなくなってしまう。
もっと強力にやってくれ! 俺たちはガキじゃない
世界というごちゃまぜの食べ物の中に
俺たちは俺たちの塩をまきたいのさ
さあ俺たちはここにいる。音楽が鳴りだす。
船の進路はおまかせだ。
地球という巨大な歌の中に
俺たちはパッションを注ぎたいのさ
とどまることを知らない高浪のように
俺たちはあらゆる港に押し寄せるのさ
俺たちがポカイア人の子孫だってことが本当なら
航海は俺たちの血を踊らせるはず
女神さまが見守ってくれているってことが本当なら
女神さまは大洋と契約を結んでいるはず
生活の煩わしさなんか背後にうっちゃっておけ
さあ良い季節の始まりだ
すばらしいことがたくさんあるってことが本当なら
セミだって正しいってことさ
町の猛者どもよ、さあ船に乗れ!
勇気だけを積荷にして
不要なものは水に捨ててしまえ!
希望だけを胸にしまった
さあ船に乗れ! 過去はもう消えてなくなった
俺たちの涙の量が多すぎて過去は流れていってしまった
さあ船に乗れ! 今をつかみ取るんだ
そして新しい花々を見つけに行こう
勇ましいですね。海と男とマルセイユ、それは女神アルテミスに加護されているのです。アルバムのトーンはこの2曲で明らかだと思います。この2013年的現在、すなわち、長引く大不況&大失業時代、社会党が大統領選挙で勝ったところで何も変わっていないフランス、暴力と犯罪の代名詞であることをやめないマルセイユ... こういったことを踏まえた上でもポジティヴであろうとする「進もうじゃないか(ファイ・アヴァン)」のアルバムです。俺たちはアルテミスに見守られている。そのアルテミスは台所に立っている人かもしれない。
 ここでタトゥーはマルセイユの持つポカイア人的ルーツと、西欧の中世文化をリードしていた南仏オクシタニアのルーツを重ね合わせます。5曲め「オクシタニー・シュル・メール(海に浮かぶオクシタニア)」もマニフェスト的な歌です。

俺たちを見つけたかったら、世界地図を出してきて
その青いしみのところに指をあててごらん
海の端っこのところに小さな点があるだろう
そこをようく見てごらん
ここまで来るのにどうするかってわからなかったら
貨物船に聞いたらいい
世界中の船舶がそこへの航路を知っている
船学校の幼稚園部で教わることだもの
ベンヴェング・ア・ロストー(われらが家へようこそ)
オクシタニー・シュル・メール
ここでは群衆の中でも
すぐに兄弟たちを見分けられるんだ
ベンヴェング・ア・ロストー(われらが家へようこそ)
オクシタニー・シュル・メール
身分証明書やヴィザなんて
ここでは何も必要ないんだ
旧港の波止場にはりっぱな係員がいて
到着者たちを歓迎してくれる
はっきり言っておくぞ、丈夫な体が必要だ
アルコールに関しては彼らはハンパじゃない
心からものを言う人間には
仲間たちのダンスパーティーには必ず席を用意しておくよ
ダンスの熱狂の中に入ると、誰もがひとつの人種になるんだ
幸福を渇望する人種にね
これは冗談じゃないんだ
もう2000年も前に
俺たちは建設を始めたんだ
もう2000年も前から
波は俺たちに少しずつ新しい血を持ってきてくれるんだ
アルコールとダンスと「心からものを言う」人たちの国、幸福を求める人たちの国(これは来世に幸福を求めるのではなく、現世にそれを実現しようというカタリ派的な考えなのかもしれません)、これがオクシタニアなんですがね、2000年も前からそれを作ろうとしているのに、それは実現されていません。それを邪魔しようとする人たちとは時々は闘わないといけないんです。
 私はやはりそういう闘士的なマッシリア・サウンド・システムが好きでしたし、「ワイと自由を!」と叫ぶタトゥーが好きでした。このアルバム『アルテミス』ではそういう闘士タトゥーが終盤11曲めから13曲めの3曲でぐんぐん頭をもたげてきます。そこでは、やはりブルースやオールド・スクールなロックのスタイルよりも、マッシリアやファビュルス・トロバドールやラ・タルヴェーロ(ダニエル・ロッドーもこのアルバムに参加しています)が援用しているようなブラジル・ノルデスティ逆輸入のオクシタン・フォッホーが有効なのです。このアルバムの中で最も闘士魂にあふれた歌、11曲め「俺の赤い旗」にそれが端的に表れています。

やつらは俺たちを網にかけ
腕と体をおさえつけ
くず鉄に縛りつけ
あがくことしか許さない
やつらは俺たちを実験動物にして
そのあと半死の状態で追っぽり出す
やつらの宝物が山積みされた時
やつらは俺たちを貧乏のどん底に落とし込む
やつらは俺たちを束縛し、俺たちを歩かせ
俺たちをやつらのブイヨンの中で煮込み
俺たちをやつらのサラダに混ぜ合わせ
俺たちを将棋の駒のようにもてあそぶ
この鉄柵を倒さなければならない
弱肉強食の法を打ち破ろう
ビー玉を再分配しよう
背景を塗り替えよう
俺の赤い旗をくれ
外窓にそれをくくりつけよう
日を浴びた通りに
それがはためくのを見てごらん
俺の赤い旗をくれ
外窓にそれをくくりつけよう
俺の赤い旗をくれ
おまえがそこにいる限り、この世は闇だ
ラガディガドゥー
舌がうずうずしてきたぜ
今朝俺は最高に昂ってるぜ
ラガディガドゥー
俺はすべてが変わってほしい
俺は最高の幸せを知りたいんだ
ラガディガドゥー
俺は窓に出ていって
大声で怒鳴りたいんだ
ラガディガドゥー
これらすべての悪党たち、権力者たち、詐欺師たちを
追っ払ってしまいたいんだ
ラガディガドゥー
あらゆる種類の愚か者ども、
今日俺に火を点けたのがまちがいさ
ラガディガドゥー
おまえら悪魔にさらわれちまいな
せいぜいしがみつくがいい
ラガディガドゥー
まったくもって、せいせいするぜ
俺はこれで気が狂わなくてすむんだ
ラガディガドゥー
行儀が悪くてもかんべんしな
俺たちをここまで追いつめた方が悪いんだ

わお!これは「ワイと自由を!」と叫ぶタトゥーの姿ですよ。ラガディガドゥーはラガマフィンやってた頃のタトゥーの再来ですよ。ファイナンスが世界を牛耳る今を呪う前半部をブルーが歌い、追いつめられた人民が赤い旗を持ったとたんに「ラガディガドゥー!」と元気づくところからタトゥーが歌うという曲の構成もすばらしい。こういうレイ・ジューヴェンが本領だと私は思いますがね。
 『プタン・デ・カンソン』 の記事でもちょっと書いたんですが、私はレイ・ジューヴェンがあまり「ギターばかり聞こえるバンド」になってほしくないのです。今回も作詞作曲は「ステファヌ・アタール/フランソワ・リデル」名義になっています。ステファヌ・アタールすなわちブルー、フランソワ・リデルすなわちタトゥーなんですが、マッシリア・サウンド・システムのMCとギタリストによるソングライティング・チームというわけです。ブルースにしてもロック風な楽曲にしても、この二人はオールドスクールでジャガー/リチャーズ的なところがあります。それやるとやっぱり「歳とったなあ」の印象が強くなって、タトゥーが座って歌うもんだから、爺くささが強調されます。それが狙いなのかもしれませんけど、この世の中、爺のノスタルジーで笑ってられるわけはないのです。マルセイユやオクシタニアやアルテミス女神を出してくる意図は、爺のノスタルジーとは無縁であってほしい。
 というわけで、私はこのアルバムの半分は納得していないのです。

<<< トラックリスト >>>
1. EMBARCATZ !
2. MISTRAL
3. ARTEMIS
4. TOUT MON TEMPS
5. OCCITANIE SUR MER
6. SUR MA SERVIETTE
7. TENTACULES
8. LEI ARINARDS
9. LE BATEAU
10. TE'N VAS DE MATIN
11. MON DREPEAU ROUGE
12. FADA REPUBLICANA
13. MONTE VAS CANCONETA ?

MOUSSU T & LEI JOUVENTS "ARTEMIS"
MANIVETTE RECORDS CD MR008 
フランスでのリリース:2013年4月23日 


(↓ "EMBARCATZ !"クリップ)

2013年4月11日木曜日

フクシマ モナムール

4月10日、雨の中、バスチーユのカフェ・ド・ラ・ダンスでケントのコンサートに行って来ました。カフェ・ド・ラ・ダンスはキャパシティー500人と言われていますが、ずっとメジャー・シーンにいた人なのでこれくらいの会場はすぐにソールドアウトになってしまう。パリ中のケントのファンが結集するわけですから。ケントは今年56歳で、リヨンのパンクバンド「スターシューター」の頃(70年代)からメジャーなアーチストでしたし、アコースティックなシンガー・ソングライターに転身してからも"J'aime un pays"、"A nos amours"、"Tous les mômes"、"Les vrais gens"のような、全国FMでがんがんかかるヒット曲がたくさんありました。会場を見回して、大体が40・50・60代の中高年ばかりなので、この人たちは(新アルバム "LE TEMPS DES AMES"の曲を除いて)全部歌詞を暗記していて唱和できるはずだと見ました。
 当夜のケントはそういうファン・サーヴィスはもちろん外さず、往年のヒットチューンをところどころにはさんでのショー展開ですが、なにしろ新アルバムがドイツ人ピアニストのマルク・オースマンとの「ピアノ+ヴォーカル」デュエットのみ、というもので、ステージの上にはこの二人だけ。マルク・オースマンは叙情的と言いますかリリカルと言いますか、そういう雰囲気をつくることに長けたピアニストで、例が適当かどうかわからないけれど、"LES INTOUCHABLES"サントラを手がけた伊人ピアニスト、ルドヴィコ・エイナウディみたいなところもある人だなあ、と聞いてました。たしかにピアノは聞かせどころ多かったです。ケントもずいぶんこのピアニストを立てていましたね。
 私はと言えば、もちろんこの新アルバム"LE TEMPS DES AMES"の中の曲を聞きたくて行ったのですが、その中でも "Face à la lumière"(光と向かい合って)という曲が一番気になっていたのです。↓これはその曲の録音の様子を紹介している動画です。

 後日クリップみたいなのが発表されたらまたここに貼りますけど、今はないので曲を紹介できないのが残念ですが一種の反核・反原発のプロテストソングです。歌詞はこんな感じです。
FACE A LA LUMIERE
光と向かいあって

人はもうかれこれ長いこと
光と向かいあっている
それが欲しくて人は石を叩いて打ち
雷を生け捕ろうとした
それを取り合ってわれらは攻撃を受け
われらの兄弟を殺した

宇宙を渡る蝶のような
光に近づきたくて
夜の境界線を
向こうに押しやりたくて
人は谷に降りていき
学校で勉強した
人は狂人たちを追い出し
その偶像を破壊し、
人は新しい区々をつくり
大都市を建設した

ステンドグラスの反射のような
光に近づきたくて
夜の境界線を
向こうに押しやりたくて

かがり火、キャンドル、
ハロゲンランプ、
蛍光灯、街灯
ライトショー、レーザー光線
火炎の思想
原子の熾き火

もっともっと光を得て
宇宙を圧倒したくて
夜の境界線を
向こうに押しやりたくて

真夜中を過ぎても真昼のように明るい都市
すごいことだよね
フクシマ、モナムール (福島、私の恋人よ)
この光を前にして
この光と向かい合って
この光に
おまえは何と言う

 この夜、この歌で震えたのは私だけではないと信じます。ありがとうケント。

(↓)"FACE A LA LUMIERE"
(Spotify)