2013年11月24日日曜日

ゲンズブール映画と思ってもらったら困る

『パリは実在しない』
1969年フランス映画
"Paris n'existe pas"
 監督:ロベール・ベナユーン
主演:リシャール・ルデュック、ダニエル・ゴーベール、セルジュ・ゲンズブール


 寺山修司の1974年の映画『田園に死す』 で、バーで飲みながら木村功が菅貫太郎にこんなことを言います:
ボルヘスは言ってるじゃないか。5日前に無くした銀貨と、今日見つけたその銀貨とは、同じじゃないって。ましてやその銀貨が、一昨日も昨日も存在し続けたと考えることなんて、どうしてできるんだい?

  おいおいおい、このボルヘスって誰なんですか? 映画は逆に「おまえはボルヘスも知らないのかい?」と観る者を試すようなところもあります。寺山のこの映画でこのシーンがどれほどの重みを持っているのかは別として、こういう引用や衒学的なレトリックは私はとても苦手です。画面が見れずに下に流れる字幕だけについていかなければならないような映画に似ています。おまけに私は字幕を読むのが遅く、読み終わる前に字幕が消えてしまうのです。ちょっと話がそれました。ロベール・ベナユーンの『パリは実在しない』 は、映画の最後に、ジェネリック(クレジット・タイトルのスクロール)の前に、文字でこういう4行が映し出されます。

時間は私を構成する要素である。
時間は私を連れ去っていく流れであるが、私は時間である。
それは私を咬み千切る虎であるが、私は虎である。
それは私を焼き尽す火であるが、私は火である。
      ー ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 わお、またボルヘスですか? これは私たちフランスにいる人間たちには、バカロレア(大学入学資格試験)の哲学の試験問題のようだ、と頭が痛くなるような引用文に見えます。しかし、よく読むとそれほど難しいことを言っているわけではない。人間は時間と共に生きることを余儀なくされているわけですが、時間によって翻弄されようが、時間によってひどい目にあおうが、時間は自分の外にある見えざる力なのではなく、自分に内在するものなのだ、ということでしょう。他人と同じ時間を共有していると錯覚してはいけない。時間は自分だけのものなのです。自分が死んで無くなった時に、時間もまた無くなってしまうのです。 
 この時間は自分だけのもの、と思ってしまったら、ひょっとしてこれは自分の五体と同じように自分でコントロールできるのではないか、なんてことを考えるようになります。つまり時間を一定の速度の一方向への流れであることをやめさせて、過去・現在・未来を自由に統御できないものだろうか、という願望ですね。このテーマは古くから多くのSF小説やSF映画を生み出してきました。『ふしぎな少年』(手塚治虫 1961年)、『時をかける少女』(筒井康隆 1967年)など挙げたらきりがありません。
 映画『パリは実在しない』 は、インスピレーション枯渇期にある若い画家シモン(リシャール・ルデュック)が、ある夜のパーティーで知らずに喫った幻覚剤がもとで、過去と未来を視覚化する能力を得てしまう、という話です。制作年が68年です。このような設定の映画では、私たちはSF映画などで後年、特撮やCGなどを駆使した「見えないものが見える」ファンタスティックな映画表現をたくさん見ることになるわけですが、68年の低予算独立映画の表現では、え?っと驚くようなシンプルな描かれ方(例えば、柱時計の針がぐるぐる逆にまわる)です。それはともかく、シモンは現在にありながら、人には見えない過去と未来が見えてしまうようになります。最初は当惑していたシモンも、次第にこの能力をコントロールできるようになり、混乱状態で現れていた過去と未来の「幻視」を、自由に見たい時点の過去と未来を視覚化するまでに至ります。ところが、現実の「現在」の世界にいる恋人アンジェラ(ダニエル・ゴーベール)と親友のローラン(セルジュ・ゲンズブール)は、このシモンの状態を「幻覚」「幻視」またはスランプ時期のノイローゼのように見なし、早く現実の世界に復帰せよと諭そうとします。現実の世界と人々との溝は深まっていきます。
 さてここでこの映画におけるセルジュ・ゲンズブールのポジションです。一言で言うならばディレッタント・ダンディーです。ブリティッシュなテイラード・スーツ、手には(あるいは口には)いつもシガレット・パイプ、隣りには美女、上からの目線で芸術論をよどみなく語る趣味人、そんな感じです。フリルつきのシャツで出て来るシーンもあります。観念的で衒学的で引用の多い語り口です。だから、ローランとシモンのダイアローグに私はほとんどついていけないのです。「なんだボルヘスも知らないのか」と言われているような気分になります。
 ロベール・ベナユーン(1926-1996)は40年代からシュールレアリスム運動の渦中にいた人で、作家・脚本家・文芸評論家・映画評論家・映画俳優でもあり、映画監督としてはこの『パリは実在しない』(1969年)と"Sérieux comme le plaisir"(1975年。あえて訳すと『快楽のように真剣』。ジェーン・バーキン、リシャール・ルデュック主演。音楽がミッシェル・ベルジェ)の2作しか発表していません。バイオグラフィーを読む限りでは、シュールレアリスム的審美観の論客として評論活動がこの人の本領であるようなので、わかりやすい映画など作るわけがない、というのは了解できます。この映画ではそのダンディー的な部分を俳優セルジュ・ゲンズブールが体現していたと言えるのでしょうが、私には言っていることがよくわからん、というイライラがあります。
 さて映画はシモンが視覚的な「過去へのトリップ」を自由に操れるようになり、シモンが住んでいるアパルトマンの1940年代にタイムリープし、そこに住んでいた麗しい婦人フェリシエンヌ(モニック・ルジューヌ)にほのかな恋心を抱く、というところまで行ってしまいます。恋人アンジェラは遠くまで行き過ぎたシモンをなんとか引き戻そうとするのですが...。
 では『パリは実在しない』 というタイトルはこの映画では何なのでしょうか?映画の1時間13分めにシモンがアンジェラにこう言います:
すばらしいことさ。
(何がすばらしいの?)
パリは実在しないんだ。
(どういうこと?)
きみと僕は継続的に存在する。だけどパリはその背景でしかなく、いつも姿を変えている。だけど僕らは永遠なんだ。僕らの周りで世界はバラバラになろうが、僕らは動かない。僕らは僕らの道を断念しない。
おわかりかな? 常に姿を変えてばかりいるもの、それは実在しないのです。われわれは動かない。だから実在するのです。だんだん禅問答っぽくなってきました。そして1時間28分めにローラン(=ゲンズブール)が、「ある有名なイギリスの詩人がこう言ったんだ」と前置きしてこう言います。
時は過ぎ行く、というのは間違いだ。
時は留まり、われわれが過ぎ行くのだ。
こんなこと言われましても、ねえ...。

 68-69年という動乱の時期でもあり、私はこの映画を観る前になにかその時代の空気をこの映画に期待していたと思います。旧時代の秩序や道徳と異なるもの、反抗的なもの、サイケデリックなもの、例えばバルベ・シュローダーの『モア』(1969年)みたいな。ところが、『パリは実在しない』はシュールレアリスティックでスタイリッシュで観念論的な映画でありました。サイケデリックという点では、セルジュ・ゲンズブール(作曲)+ジャン=クロード・ヴァニエ(編曲)というコンビによる音楽はその期待に十分応えてくれます。このコンビの初の共同作業だそうですが、この3年後、このコンビは大傑作『メロディー・ネルソンの物語』を制作することになるのですよ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

Paris n'existe pas (un film de Robert Benayoun 1969)
DVD 93分 (+ ボーナス 30分)

言語:フランス語
DVD XIII Bis Music EDV2567
フランスでのDVD発売:2013年11月


(↓『パリは実在しない』予告編)


0 件のコメント: