2013年9月5日木曜日

渋谷で「見性」するアメリー・ノトンブ

Amélie Nothomb "La Nostalgie Heureuse"
アメリー・ノトンブ『幸福なる郷愁』

 「人が愛するものはすべてフィクションになる(Tout ce que l'on aime devient une fiction)」と小説の第一行は書きます。なにか最初から言い訳しているなあ、と思いました。この人の立場は「フィクション」を書く作家です。彼女が好きなものを追いかけて突き詰めていったら、それは小説になったのです。その最愛の対象のひとつが「日本」であり、ノトンブはこれまで発表した22作の小説のうち、4作が日本と関連しています。愛するがゆえのフィクションなので、誇張やイマジネーションの産物や故意な曲解もまま顔を出し、私には居心地の悪くなるウソっぽい日本が登場します。フィクションですから。
 ノトンブを世に知らしめ、大ベストセラー作家としてメディアに(その奇怪な帽子と共に)登場させるきっかけとなったのが、『畏れ慄いて(Stuppeurs et tremblements)』(1999年)です。ベルギー人女性「アメリー」が就職した東京の大商社ユミモトで、日本人と西欧人の文化摩擦ゆえに社内で忌み嫌われ、苛められ、最後には便所掃除係にまで転落するという小説です。これは1年後の2000年に日本語訳されて作品社という出版社から日本発売されました。また2004年にはアラン・コルノー監督によって映画化されていますが、日本で一般公開はされませんでした。ノトンブはこの小説が日本で出版されたら、この日本社会の暗部の暴露が大醜聞となり、日本とベルギー、および日本と西欧の間に大きな国際問題にまで発展するだろうと思っていました。出版当時ノトンブは「私は日本ではペルソナ・ノン・グラータである」と誇らしげに言ってましたから。
 その翌年2000年に発表された『管の形而上学(Métaphysique des Tubes)』(2011年に日本語訳も刊行) は、彼女が生れ育った神戸・夙川での 0歳から3歳までの記憶をつづったフィクション。0歳から3歳までの記憶を保持しているとは希有な人だと思われましょうが、フィクションですから。日本人として生れ育ったと確信し、乳母ニシオ・サンを自分の理想の母と慕ってきたのに、それが真実でないと知り、3歳で自殺未遂をはかるという小説。そして2007年に発表された『イヴでもアダムでもなく(Ni D'Eve Ni D'Adam)』は、『畏れ慄いて』のユミモトに入社する1年前に、当時21歳の「アメリー」が東京でフランス語を家庭教師していた日本人学生リンリと交際していて、その関係は2年間続くのだけれど、この日本人青年は金持ち(宝石会社社長・ジュエリー専門学校校長の息子)で優しく気立てはよく交際相手としては申し分ないのに、「恋」に至らないというフィクションです。この小説に関してはこのブログのここで長々と論じています。(かなり批判的です)。
 ノトンブにとって最愛の「日本」とそれに関してフィクションしてしまったこの3作の重要な小説を、この新作小説は再検証しようとします。2012年春、アメリー・ノトンブは16年ぶりに日本を再訪します。なぜ「最愛の」と言いながら、16年間も離れていられたのか。まず私の素朴な疑問はこれです。ノトンブが言うように『畏れ慄いて』で日本社会を誹謗中傷した(と取られてもしかたがないことをした)ゆえに、「国際問題・外交問題」を避けるために自粛していたのか。そうではないでしょう。彼女は日本を「熟知」していることを土台に、西欧(ノトンブは誇らしげに "occidentale"と自称します。欧州人 "européenne"とは言いません)と日本の文化の差異と、それによって避けられなく生じてしまう文化摩擦の「生き証人」としてフィクションを書いてきたのです。それそのものが小説の中心的主題ではないにしても、多くの読者たちはノトンブによって「知られざる・意外な日本」を知りました。ところが読者の中には、ノトンブよりも日本を「熟知」している人たちがいたり、私のようにノトンブの「熟知」を疑問視する人間も少なくないのです。私は彼女の日本語理解という点はかなり問題があるのではないか、思っていました。
 おそらくノトンブはボロを出すまいと思っていたところがあると思います。断じて日本熟知者であり続けなければならない。その思いが、今ひとりでのこのこ日本に行ったら、赤っ恥をかくことになる、という恐怖にもなっていたかもしれません。
 そこへ、フランス国営テレビFrance 5から「アメリー・ノトンブと日本」というテーマでもドキュメンタリー映画を制作したい、という申し出が来ます。私はこれはノトンブにとって「渡りに船」のプロポーザルであったと思うのですよ。フランスのテレビの制作スタッフと共に日本に行き、その行状がすべてヴィデオ・カメラに収められ、「ノトンブによる日本」を映像化して、「ノトンブの書いていた日本」が確かに存在したことを証明してくれることになるわけですから。ノトンブの「私の最愛の日本」はここで優れた共犯者を見つけたのです。
 かくして2012年春、アメリー・ノトンブとテレビ局の撮影スタッフは日本に降り立ちます。16年ぶり。それは神戸に生まれてから5歳で日本を離れ、再び21歳で日本に住むという、最初の日本との別れの16年間と一致します。バイオグラフィーから演算すると、ノトンブは28歳で日本を去り、その後16年間一度も日本に足を踏み入れていないということになります。2度めの16年間よりも1度めの16年間の方がずっと辛かった。5歳6歳の時は机の下に隠れて、その失われた庭や音楽を想い、その思い出をよりはっきり再現するために暗闇の中で泣いていた、と言います。そして誰かが彼女を見つけて「どうして泣いているの?」と聞くと、彼女は "C'est la nostalgie(ノスタルジーよ)"と答えていた。彼女が感じた最初のノスタルジーは目を開けたまま泣けるほどの悲しみだったのです。
 日本の滞在は神戸に6日間、東京に3日間。その間撮影スタッフのカメラはアメリーとその夢の国日本を撮り続けます。23年ぶりに訪れる神戸では『管の形而上学』の舞台である夙川に向かいますが、彼女が住んでいた「家」は影も形もありません。1995年の神戸震災で倒壊したのかもしれません。次に「日本人アメリー」の理想の母であったニシオ・サンに会いに行きます。79歳のニシオ・サンは、実の娘から見捨てられ、神戸郊外のごく小さな公団アパートでひとり暮らしをしています。この再会のシーンは当然全員がおいおい泣き出すようなことになるのですが、テレビはしっかり撮影しています。しかしアメリーが5歳の時に無理矢理引き裂かれて別れた「実の母」と思っていたこの老女は、その遠い昔に育てた外人のお嬢さんと、あまり「まともな」話ができないのです。アメリーが「東北大震災の余震が神戸でもありましたか?」と聞くと、「何のこと?」と老女は答えられません。「フクシマのことですよ」とアメリーが言うと、「さっぱりわからない」と取り合いません。これを作者はこの老女の頭が、神戸空襲や神戸大震災などを経験してきたゆえに、もうこれ以上の大惨事を受け入れられなくなっているのだ、と解釈しています。そうでしょうか? 私には別の説明があります。フランスで超有名な大ベストセラー作家が、テレビカメラとマイクロフォンを引き連れて、一人暮らしの老人の貧乏アパートにやってきたら、その人は一体何が話せると言うのですか?目の前にいるテレビカメラが一体私の何を撮ろうとしているのか、どうやって理解できるのですか? テレビカメラの凶暴さ、ということをアメリー・ノトンブは考えたことがあるのでしょうか?
 次に夙川でアメリーが通ったということになっている聖母マリア幼稚園を訪れ、園の人から見せられた70-71年組の集合写真の中に、ふくれっ面をした幼女を見つけ「watashi desu !」と叫ぶのです。それから京都に行き、「バガンと同じほど神秘的で崇高で、ボルドーと同じほど豊かでブルジョワ的で、シアトルと同じほどテクノロジックで混沌とした町」 というノトンブ流の京都講釈があります。
 取ってつけたように(としか私には言いようがない)、一行は「フクシマ」に向かいます。小説の文面では一体どの辺まで行ったのか判然としませんが、あの日から1年と20数日経った東北のあの辺りでしょう、目の前に見える廃墟とそれに集まるサギ鳥の群れなどを、数時間にわたって表敬訪問するのです。
 終わって福島から東京に向かう電車は、チケットを急いで買ったので一行の座席が離ればなれになってしまいます。通訳君(ユメトと名乗る21歳の若者)が乗り合わせた乗客と席交換を交渉しますが、その客は譲らず「席番号を尊守せよ」の一点張りです。ま、こういう日本もある、というエピソードにしたかったんでしょうが。
 翌日4月4日は、この小説で最も出来事が集中した日で、言わばクライマックスです。まず、アンスティテュ・フランセでとある日本の女性ジャーナリストとのインタヴューがあります。話は主に『管の形而上学』(2011年末日本刊行)のことになるのですが(日本語でなされたのかフランス語でなされたのかが文面では判然としない)、通じなくなると、通訳(日本で最も有名な仏日語通訳と書かれている)のコリンヌ・カンタンが助けてくれます。アメリーはここで自分が幼い頃に暮らしていた関西の日々にどれだけ "nostalgique"であるか、と強調します。この "nostalgique"という言葉を通訳のカンタンは日本語で「なつかしい」とせずに、カタカナ英語で「ノスタルジック」と日本語通訳するのです。あとでアメリーはこのことに怒り、カンタンにどうして「なつかしい」と訳さなかったのか、と詰めよります。
 お立ち会い、よくお聞き。ここでコリンヌ・カンタンは(私のめちゃくちゃ入れこんだ意訳で説明すると)、あなたの言う"nostalgique"は日本語の「なつかしい」に相当しない、なぜならば、あなたの言わんとする"nostalgie"は、良い思い出、悪い思い出、楽しい思い出、悲しい思い出がゴッチャの過去への郷愁であるはずで、日本語の「なつかしい」は良いも悪いも楽しいも悲しいもすべて「幸福」の領域で包みこんでしまう、全面的に肯定的な回顧感なのである、と説明するのです。日本語の「なつかしい」は幸福な回想である、と断言的に定義するのです。 作者はここで初めて日本語の「なつかしみ」とフランス語の"Nostalgie"は根本的に異なるということを知るのです。そして、この小説の題名、およびこの小説の大趣旨が生まれるのです。すなわち『幸福な郷愁 (La Nostalgie Heureuse)』であり、これは日本人に特化した回顧感なのである、と。
 そのインタヴューと出版社が用意した昼食が終わり、アメリーはこの日本再訪のハイライト中のハイライトである、21歳の時の日本人フィアンセ、リンリと再会します。ここだけテレビ局のカメラは遠慮します。『イヴでもアダムでもなく』 で描かれたナイーヴな日本青年リンリは、アメリーとの不可解な別離にも関わらず(なぜならばノトンブの理屈では、日本語の「恋」は仏語の"amour"に相当せずに、「好き嫌い」「好み」でしかなく、自分はリンリに遂に amoureuse になることができなかったと言うのです)、その後人間的にも社会的にも成長し、企業家として成功して、愛する人を見つけて家庭をつくり一児を得て、幸せで魅力的な40男に変身しています。アメリーは予想していなかったその変身ぶりに目眩がします。そして、この再会をリンリはフランス語でこう形容するのです:indicible :(スタンダード仏和辞典の説明)アンディシブル:[文語](喜びなどが)言うに言われぬ。言語を絶する。
 わぉーッ!
 小説はこういうクライマックスを迎えるわけです。
 16年後に訪れた日本で、幸福なノスタルジーを抱えながらも、ニシオ・サンはあんな風に変わり、リンリはこんな風に変わった。作者はここで、幸福なノスタルジーの延長に、とてつもない虚無の淵に自分が立たされていることを悟ります。あ、この「悟り」という言葉ですが、作者もこの禅語に非常にセンシブルで、「悟り」などという境地はブッダかごく少数の高僧にしか至れるものではなく、私のような人間には到底近寄れぬものであると認識しています。しかし「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、これをノトンブのこの小説では"kenshô"とローマ字表記していて、この"kenshô"には作者は何度か至っているのだ、と書いています。
 無の始まりを感知すること、これをノトンブは"kenshô"と言い、私はその言葉を知らず、あれこれ調べた結果それが「見性」 であることをやっと突き止めました。この見性の体験は、アメリーに突然やってきて、渋谷の交差点で極端な人ごみの中で歩いている彼女をテレビカメラが撮影している時に「見性」を感じ取り、彼女はその中でバタっと足を止めてトランス状態に入っていくのです。

 さあ、この小説をどうするか。「人が愛するものはすべてフィクションになる」ー この第一行がこの小説のすべてを救済していて、泣き笑いもすべて含めて、ノトンブのフィクションの力に翻弄されてしまうのです。私は少なくとも「幸福なノスタルジー」という日本語的な「なつかしさ」をこの小説から教わったことだけでも、シャポー!と言いたい気持ちでこの本を閉じました。奇抜なシャポーをいつもかぶっている、イヤ〜なタイプの女性ですが...。

カストール爺の採点:★★★★☆

Amélie Nothomb "La Nostalgie Heureuse"
(Albin Michel 刊。2013年8月 。152ページ。16.50ユーロ)

(↓France 5制作のドキュメンタリー番組 "Amélie Nothomb - Une vie entre deux eaux"の予告編)

(↓『幸福な郷愁』発表時の出版社主催のインタヴュー)


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