2012年2月29日水曜日

マオい日々


Anne Wiazemsky "UNE ANNEE STUDIEUSE" 
アンヌ・ヴィアゼムスキー 『もう勉強の1年』 

 アンヌ・ヴィアゼムスキー(1947-  )の11作目の長編小説です。1947年生まれのこの女性は、日本ではゴダール映画『中国女』や『ウィークエンド』(共に1967年制作)やパゾリーニの『テオレマ』(1968年)の女優として知られていて、ジャン=リュック・ゴダールとは1967年から72年まで公式に夫婦であったことから、「ゴダールの女」のひとりとしてのみ認識されているきらいがあります。この小説はまさに19歳のアンヌ・ヴィアゼムスキーがゴダールと邂逅して、激しい恋に落ち、結婚に至る1年間のことと次第が描かれているのですが、私たちはまず、この女性がごく一般的な背景を持った「フツー人」ではない、ということを知っておく必要があります。
 まず母方の祖父がノーベル文学賞作家のフランソワ・モーリヤック(1885-1970)です。『テレーズ・デスケールー』や『愛の砂漠』で知られるカトリック人道主義の大作家で、日本の遠藤周作に多大な影響を与えました。個人的なことですが、私は四谷のカトリック系私立大学の仏文科に入ったのですが、初年度5月に課外で主任教授(フランス人、カトリック司祭)から視聴覚室で映画上映会をするから、映写助手として手伝いに来いと言われて土曜日の午後に映写室から見たのが『テレーズ・デスケールー』(1962年ジョルジュ・フランジュ監督映画。主演テレーズ役にエマニュエル・リヴァ)でした。この重々しくも(超)退屈な映画を大学初年度の5月に見たことは、かなり大きなトラウマとなり、私は大学の選択を間違った、私が学びたかったのはこれではない、という確信の「五月病」に陥り、以後卒業まで劣等生を続けることになったのです。それはそれ。
 その娘のクレール・モーリヤックが結婚したのが、ボルシェヴィキ革命のために亡命してきたロシア大貴族のジャン・ヴィアゼムスキー(ルヴァショフ伯イワン・ヴィアゼムスキー公)で、その間に生まれたのがアンヌ(1947年生れ)とピエール(1949年生れ。のちにヌーヴェル・オプセルヴァトワール誌やリベラシオン紙の風刺画イラストレーターとなります。筆名はWiaz=ヴィアーズ)でした。この姉弟は、父ヴィアゼムスキー公の死後、祖父フランソワ・モーリヤックの庇護のもとに育てられることになりますが、祖父硬派カトリックと亡父貴族の反共主義の家風にさらされながら、パリ16区の大富豪住宅街で何不自由なく大きくなります。しかし、一歩16区から外に出ると、時代の空気は自由で、反抗的で、ヌーヴェル・ヴァーグで、ロックンロールだったわけで、この姉弟も祖父の価値観と相容れない新しい文化に染まっていくのです。特にアンヌはサルトルとボーヴォワール、現象学のモーリス・メルロー=ポンティなどを好んで読み漁る少女だったのですが、さすがに60年代なので実存主義は往時のパワーを失っていたものの、祖父モーリヤックが公然と論敵にしていた思潮でした。
 小説は1966年6月に始まります。アンヌは19歳。当時は成人年齢が21歳だったので、未成年です。バカロレアの筆記試験で芳しくない結果だったので、9月の追試験(口頭試験)のために夏のヴァカンス中に「猛勉強」を強いられています。そんな6月のある日、観たばかりのゴダール最新映画『男性・女性』(1966年制作)に強烈に心惹かれ、その監督にファンレターを送ってしまいます。住所は知らないので、ゴダールが論陣を張っている映画誌カイエ・ド・シネマの編集部気付を宛名にその手紙は書かれます。その映画がとても好きだったこと、そしてそのカメラの背後にいる人間もとても好きだ、とその手紙は告げます。最初からこの小説は、この手紙はその言葉がどういう意味なのかをわからずに書かれていた、と言い訳します。つまり「好き」「愛する」という言葉は、この娘には「言葉」にすぎず、まだ実質のものではなかったのです。
 ゴダールと邂逅する前に、アンヌはこの時期にもうひとつの重要な出会いをしています。哲学者フランシス・ジャンソン(1922-2009)。サルトルの雑誌レ・タン・モデルヌの編集委員をつとめ、アルジェリア独立戦争時にはFLN(独立派=国民解放戦線)を支持してフランス軍脱走兵を救済する地下組織を創設してフランス警察から追われる身になっていました。このサルトルと親交のある哲学者に、ガリマール出版社のカクテルパーティーで初対面するや、大胆にも彼女はバカロレアの追試(哲学の口頭試験)のために個人教授を依頼するのです。こんなことなど以前はできなかったのに。すべては映画『男性・女性』のショックが引き金になっている。急に背伸びを覚えた娘は、哲学者ジャンソンを魅了し、次いで当時光り輝いていた革命的映画作家ジャン=リュック・ゴダールをも魅了してしまいます。
 その夏アンヌは南仏ラングドック=ルーシヨン地方ギャール県のモンフランという小さな町で、親友のナタリーの家が持っている城館でヴァカンスを過ごしています。そこにジャン=リュック・ゴダールと名乗る男から電話がかかってきます。カイエ・ド・シネマに送られた手紙を読んだ、明日会いたい、そこへはどうやって行ったらいいのか、と。パリからマルセイユまで飛行機、その後飛行場でレンタカーを借りてアヴィニョンを目指して走れば、モンフランの表示が出て来る。明日の正午、どこで待合せ?「 市役所前で」とゴダールは指定する。 - 市役所で待合せ、これがその1年後にスイスの小さな町の市役所に二人で出頭する(すなわち結婚を届け出る)ことの予行演習のようであった、とアンヌは述懐します。
 この本を手にする大部分の人々は、たとえ「小説=フィクション」という但し書きがあっても、そこに実名で登場する「ジャン=リュック・ゴダール」は一体どんな人物だったのか、ということに興味を集中させていたと思います。当時この映画人は35歳。『気狂いピエロ』、『アルファヴィル』、『男性・女性』、『メイド・イン・USA』、『彼女について私が知っている二、三の事柄』などを短期間に矢継ぎ早に制作していた頃です。61年に結婚したアンナ・カリーナとは65年に破局していて、『二、三の事柄』の主演女優マリナ・ヴラディとの仲が噂になったりもしていました。で、この小説に登場するゴダールは、やはりメチャクチャにカッコいいのですよ。
 それは17も歳が離れたブルジョワ娘に狂おしいまでの恋に落ちてしまった男のアティチュードなのですが、電話、手紙、電報、プヌーマティック(かつてパリの地下に網の目のように通っていた圧縮空気管を使った筒入り速達便)などあらゆる通信手段を使って、愛の言葉とデート約束を送りつけることや、一言書込みを入れた本のプレゼントなど、恋する男の見本のような姿があります。前述のようにアンヌはまだ成人していないので、ゴダールがアンヌを連れ出すことは、訴えられれば「未成年誘拐罪」が成立してしまうのです。私だって経験がありますが、とかく年下の女性を自分の世界に引き寄せようとする時、この本を読め、この音楽を聞け、この映画を観ろ、といった趣味の押しつけ的な教育をしようとしますよね。私はたいがいそこで失敗するのですが、ゴダールはその「こっちへ来〜い、こっちへ来〜い」がゆっくりと分かりやすく、知らず知らずの間にアンヌはゴダールの映画ワールドにまで身を浸してしまうようになるのです。
 フランシス・ジャンソンの個人教授の甲斐あって、アンヌはパリ大学ナンテール校の哲学科に入学します。時は68年5月革命前夜、その発火点のひとつとなるナンテール校では、その前触れのように学生たちがさまざまなグループを作ってヴェトナム戦争反対や新左翼運動を始めています。この小説の中で、未来の5月革命リーダーのひとり、「赤毛のダニー」ダニエル・コーン=ベンディット(現在緑の党選出の欧州議会議員)が、ナンテール校構内でアンヌをナンパしようとするシーンがあります。 「赤毛同士の連帯」とダニーは同じように赤毛のアンヌに言い寄るんですね。いやあ、こういう青春もまぶしいですねっ。
 こうしてアンヌは、政治的アンガージュマンの哲学者や戦闘的映画作家や、若いトロツキストたちやマオイストたちに囲まれて、何も知らなかったウブなブルジョワ娘からぐぐぐぐ〜っと背伸びした19歳に大変身していくのです。しかし、この変貌を容認せず、とりわけジャン=リュック・ゴダールとの交際を絶対に認めようとしないのが、母のクレール・モーリヤックです。母は露骨に二人の関係を壊すよう画策したりもします。ブルジョワ保守主義とヌーヴェル・ヴァーグ世代の全面戦争となるか、とも思われましたが、当然母側の論客になるべき祖父フランソワ・モーリヤックは、最初苦々しく思っていたこの映画作家を一度の面談の後に主義主張に賛同こそしなくてもその人物を「認めてしまう」度量の深さを示してしまいます。こうして孤立してしまう母を、口では喧嘩ばかりしていてもアンヌは愛していて、母とゴダールの和解を密かに望んでいたのです。
 小説は瞬く間に過ぎていく1年の中で、映画『中国女』(1967年)の制作、そして67年7月のスイスでの結婚という大きな山を迎えます。フランソワ・トリュフォー、ジュリエット・ベルト、ジャン=ピエール・レオーなどあの頃の人々も活き活きと描かれています。そして映画『中国女』に関しては、ゴダールが真剣に中国政府にラヴ・コールを送っていて、中国政府はきっとこの映画を評価してくれて、俺たちを中国に招待してくれる、と信じ込んでいた、という驚くべき記述があります。在仏中国大使館での試写上映で徹底的に酷評され、ゴダールは極度に落胆してしまいます。
 アンヌがひとつだけ留保点として上げているのは、ゴダールには激情すると人が変わって暴力的になってしまう面があることです。それを除いては、ダンディで、時には俗っぽく(アルファ・ロメオを持っているのが自慢)、贈り物の名人で(免許証を持たないアンヌが一度としてハンドルを握ることのないクルマをプレゼントしたり)、愛の言葉の名人であるゴダールがいます。
 文章は淡々としていて、湿度も少なめで、66-67年という温度高めの時代を匆々たる人物群像の中で見た19歳の証言は無声の連続スライドのようです。多くの人がゴダールへの興味本位だけで手にしてしまうであろうこの本を、「少女から大人になるための激動の1年」の魂の記録として読み終わらせてしまう、これはヴィアゼムスキーのしたたかな文学性によるものです。発表後のアンヌ・ヴィアゼムスキーのインタヴューでは、刊行前の原稿も、印刷後の本も、ゴダールには送っていないそうです。過去の落とし前は一方的につけるものなのでしょう。

ANNE WIAZEMSKY "UNE ANNEE STUDIEUSE"
(Gallimard刊 2012年1月、262頁、18ユーロ)

(↓ゴダール映画『中国女』予告編)

2012年2月13日月曜日

ノジャンにカルラ・ブルーニの銅像が立つ

ノジャン・シュル・マルヌはパリの東側の郊外の町で、その名の通りマルヌ川の北岸に位置し、西隣はヴァンセンヌの森(パリ市に属します)です。17世紀には画家ワットーが好んで描いた風光明媚な森林河川の自然があり、現在は人口3万人強の住宅町で、マルヌ川沿いにかなり豪奢な館も並んでいて、裕福さがそこはかとなく感じられますが、20世紀前半にはこのマルヌ川沿いにガンゲットと呼ばれるアコーデオン・ダンスホール兼レストランが立ち並び、民衆の週末娯楽としてたいへんな人気を博しました。「ミュゼットの女王」と呼ばれたイヴェット・オルネールもこの町の出身です。また「小さなイタリア」と呼ばれるほど、産業革命期にイタリア移民が多く住み着いた町です。
 さてこのノジャンの町に、かつてイタリア出身移民労働者の女性たちが多く働いていた羽毛細工工場がありました。今はその工場跡地に新しい住宅区画が開発され、そのデブロッパー会社とノジャン市が、そのまさに「プティット・イタリー(小さなイタリア)」と名付けられた新街区入口の小さな広場に、羽毛細工工場の女工たちにオマージュを捧げるモニュメントを作ろうという話になりました。
 それは北イタリア・エミリア=ロマーニャ州(州都ボローニャ)のヌーレ渓谷地方から移住してきた女性たちがほとんどだった、ということで、モニュメントは『ラ・ヴァルヌレーズ(ヌーレの谷の女)』と名付けられ、羽毛細工女工の姿の銅像(高さ2メートル)とする市長案で、2011年の市議会で投票によって可決されました。しかしノジャンの市長ジャック・JP・マルタン(大統領派与党UMP)は、その議決の時に、最も重要なことを議員たちの前で明らかにしていなかったのです。
 そのイタリア人羽毛細工女工の銅像のモデルとして、ノジャン市長は大統領夫人カルラ・ブルーニ=サルコジを選んだのです。「フランスのファースト・レディにして、最もイタリア的なフランス女性」というのがその理由だそうで、依頼を受けたカルラ・ブルーニ=サルコジは、その名前がモニュメント上に明記されないことという条件でモデルとなることを引き受けたのでした。
 2012年2月11日に、このノジャン市長の突飛なアイディアがメディアで明らかになったとたん、フランスでは大変な論争が巻き上がっています。反対派は「女工へのオマージュのモニュメントが大富豪の娘の顔を持つというのは労働者階級への侮辱である」、「大統領夫人の銅像を作らせるのは、北朝鮮の指導者個人崇拝と同様にグロテスク」と抗議します。市長派は「これはフランスに移住したイタリア人女性のシンボルとして大統領夫人をモデルにしたものであって、 カルラ・ブルーニの銅像ではない。」と説明します。

 銅像の完成は2012年5月。
お立ち会い、よろしいですか、この時にサルコジ王朝はちょうど終焉しているはずなのです。(終焉していなければならない、と言い換えてもいいです)。この5月、私たちは王朝の最期を祝って町に出るでしょう。その行進の波はバスチーユ広場から東に向かって、ヴァンセンヌの森を越え、ノジャンの町まで行くでしょう。民衆がレーニン像や、サダム・フセイン像や、カダフィ像を倒したように、私たちはその像を倒すでしょう。

(↓2012年2月APのニュース)

2012年2月5日日曜日

失われたシャービを求めて

『エル・グスト』2011年アイルランド映画
"El Gusto" サフィネーズ・ブースビア監督ドキュメンタリー
フランス公開 2012年1月10日

 「歴史が男たちを別れさせ、音楽が男たちを再び結びつける」とポスターに書いてあります。いいキャッチです。
 監督サフィネーズ・ブースビアはアルジェリアとアイルランドの混血女性であり、2003年からという長い制作年月をかけたこの映画の筆頭出資国がアイルランドであるため、この映画は「アイルランド映画」ということになっています。ちょっと奇異な感じがしましょうが、これがこの映画のインターナショナル性と中立性の土台にもなっています。この映画で語られるシャービの悲劇はアルジェリア独立戦争が直接の原因となっていて、これに関してはアルジェリアもフランスも言い分がたくさんあるわけで、もしもこれが「フランス映画」か「アルジェリア映画」になっていたら、どちらかに偏りが出てしまうでしょうから。
 サフィネーズ・ブースビアはそのルーツにも関わらず、アルジェリアで暮らしたことがありません。最初はナイーヴな旅行者のような視点だったと思います。 彼女は当初この音楽のことについては何も知りません。
 それは2003年にサフィネーズがアルジェでヴァカンスを過ごした時、カスバ地区でお土産を買いに偶然入った「鏡屋」から始まります。そこにはモアメード・フェルキウイと名乗る老店主がいて、種々の装飾鏡の間に、ある楽団の古いモノクロ写真が飾られています。それに興味を抱いた彼女が、フェルキウイからその楽団のこと、その音楽のことをいろいろ聞き出します。聞かれたフェルキウイは古い写真を次から次に出してきて、また音楽学校の免状なども見せて、今から半世紀も前にこの音楽がカスバでどんなに人気があったかを嬉々として語ります。この若い女性はフェルキウイの封印されていた記憶を解き放ち、強烈なノスタルジー心を掻き立ててしまったのです。彼女もまたこの聞いたことのない音楽に激しく惹かれてしまいます。「あなたの音楽仲間たちはどこに行ってしまったの?」- 「あちらこちら、いろんなところに散ってしまったよ」。
 彼女はここから方々に散ってしまった当時の音楽家たちを追跡するのです。カスバ/アルジェに残っている人たち、マルセイユやパリに移住してしまった人たち、彼女が見つけ出した元カスバの男たちがその音楽シャービと往時のカスバについて証言していく、というのが映画の進行です。
 「シャービ」それは大衆を意味する言葉です。1920年代にこの音楽はカスバで発祥しました。創始者はハジ・マハメド・エル・アンカ(1907-1978)とされ、それまでのアラブ=アンダルシア音楽を「古典」とすると、エル・アンカはそこにカスバに住むさまざまな人々(アラブ人、カビール人、ユダヤ人、イタリア人、スペイン人)の音楽傾向を溶け込ませ、ミクスチャーによる大衆音楽を作り上げたのです。それは大衆歓楽街の音楽であり、カフェ、バー、キャバレー、娼館のひしめく町でのストリート・ミュージックでした。伝統楽器とギター、バンジョー、ピアノ、クラリネット、サックスなどが混じり合った、モダン・ポピュラー・ミュージックで、エル・アンカはフランス植民地政府から許可をとって、シャービのコンセルヴァトワール(音楽学校)クラスも開校しています(それはその大衆性または「低級性」のため、コンセルヴァトワールの地下に置かれたのです)。
 カスバの証言者のひとり、ムスターファ・タハミ(ギタリスト)が話上手で当時の雰囲気をよく伝えてくれますが、彼の名調子の弁では、シャービ楽士たちはみんな「バッド・ボーイズ」なのです。不良たちがやっていたからこそ、カッコいい音楽だったわけです。 この音楽のカッコ良さはピエ・ノワール(欧州からの植民者)やユダヤ人たちも惹き付け、人種/宗教が混在となってこの音楽シーンを盛り上げていたのです。
 アルジェリア独立戦争(1954-1962)はこの音楽を引き裂きます。この映画は当時の記録映像を援用して、カスバで何が起こっていたのかを映し出します。FLN(アルジェリア民族解放戦線)がアルコールの販売を禁止し、カスバのカフェやバーが次々をシャッターを閉じてしまうのですが、フランス軍兵士たちが「アルジェリア人たちの自由に連帯する」という名目でカフェやバーのシャッターを開けていく、というシーンもありました。しかし、カスバは享楽を禁止され、ピエ・ノワールとユダヤ人たちは国外に逃れていきます。これは「棺桶か旅行カバンか」の選択と言われました。
 失われたシャービを求めて。この証言を集めていくにつれて、サフィネーズ・ブースビアには、離れ離れになってしまったこの往年の楽士たちがもう一度集まったら、というとんでもない考えが浮かびます。50年の時を経て、もう一度彼らが一緒に演奏できたら...。
 「エル・グスト」はサフィネーズの熱情から数年の歳月をかけて、2007年に具体的なかたちになった42人のシャービ・オーケストラです。エル・アンカの息子で、今もカスバでシャービ音楽をコンセルヴァトワールで教えているエル・ハジ・ハロ(ピアノ)がバンドマスターとなって、マルセイユの地で初めてこのバッド・ボーイズたちは50年後の再会を果たします。もう楽器を持たなくなって久しくなった者、昔のカンが戻るかどうか不安な者、そういう人たちがリハーサルでどんどん記憶と技能が戻ってくる美しいシーンがあります。
 「エル・グスト」とは文字通りには「味わい」の意味。人生の味わい、生きる喜び、楽天的な見通し、心の高鳴り...。マルセイユの最初のコンサートの前、ひとりのミュージシャンが「このコンサートはのるかそるかだ」と言います。するともうひとりが「ああ、エル・グストだ」と言うのです。なんという緊張した喜び。そしていざステージが終わってみると、予定していた1時間半をはるかに超過して3時間も演奏してしまっていたのです。
 エル・グスト・オーケストラの冒険は、その大所帯(楽団員だけで42人)というハンディキャップにも関わらず、2007年からマルセイユ、アルジェ、パリ、ベルリンなどを巡演していて、ファーストアルバムはデーモン・アルバーン(ブラー、ゴリラズ)のプロデュースで、彼のレーベルであるHonest Jon'sから発表されました。そしてこの映画のサウンドトラック盤としてこの1月に発売された"EL GUSTO"(仏レーベルREMARK RECORDS)が事実上のセカンドアルバムとなっています。
 映画はパリ・ベルシーでエル・グスト楽団が「ヤー・ラーヤ」(ダハマン・エル・ハラシ曲)を 演奏し、ベルシーの大会場が踊りの波で揺れるというシーンで終わります。サフィネーズ・ブースビアが「これは小さな鏡から始まったストーリーなのだ」とナレーションを添えて。パチパチパチパチ....私が観た映画館では大拍手が起こりました。

 サフィネーズ・ブースビアはこの映画が初作品になりますが、この作品のきっかけになった2003年のアルジェ旅行の時は映画監督ではなく、若き建築家でした。20代の若い女性でしたが、鏡屋に入ったことで彼女の人生は激しく変わってしまったわけです。この映画を制作することと同時に、エル・グスト楽団のマネージメントも担当しています。いわば「エル・グスト」は彼女の10年来のエンタープライズという見方もできます。
 映画はこのような性格のドキュメンタリーですから、フランスでの上映館の数は少ないものの、上映館はどこも満員の盛況でした。とかく「アルジェリア版ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」というレッテルがつきますが、甘美なノスタルジーを越えて「エル・グスト」はアラブ/ユダヤ/ピエ・ノワールという異文化の混在が作っていたユートピアを50年後に再創造するという途方もない企てだったのです。そこのところ強調しておきます。

(↓『エル・グスト』予告編)





2012年2月3日金曜日

砂の男

Abdallah Oumbadougou "Zozodinga"
アブダラー・ウンバドゥーグー『ゾゾディンガ』

 トゥアレグ人はサハラ砂漠の西側のほぼ全域で活動する遊牧民で,その数はウィキペディアでは520万人とされています。国別で言いますと,ニジェール,マリ,アルジェリア,ブルキナファソ,リビアがトゥアレグ人の多い地域とされていて,アブダラー・ウンバドゥーグーは1962年(頃)にニジェールのアガデス近郊で生まれています。その来歴については2006年発売のアルバム『デゼール・ルベル』のライナーで書いたので詳しくは繰り返しませんが, 16歳でギターを初めて手にして独習で覚え,ニジェール政府のトゥアレグ迫害に追われ,アルジェリアさらにリビアと亡命の旅を続け,その間にトゥアレグの抵抗を呼びかける歌を書き続け,カセット録音でサハラ中のトゥアレグ野営キャンプにその歌を伝播した廉(反政府プロパガンダ)で,何度も投獄されています。
 90年代フランスのオルタナティヴ・パンクの筆頭バンド,ベリュリエ・ノワールのマネージャーだったファリッド・メラベが呼びかけ人になって,2005年,アブダラーの抵抗運動を支援する在フランスのアーチストたちとアブダラーのバンドの共演プロジェクト「デゼール・ルベル」が立ち上がります。アマジーグ・カテブ(グナワ・ディフュジオン),ギズモ(トリオ),DJイモテップ(I AM),サリー・ニョロ,ダニエル・ジャメ(元マノ・ネグラ)が参加したこのプロジェクトは,2005年からヨーロッパと北米を含むツアー,2006年にCDアルバム,2007年にドキュメンタリーDVDを発表して,その収益金はアブダラーの2校の音楽学校設立の資金に充当されました。

アブダラー・ウンバドゥーグー名義で2011年にパリで制作されたこの新アルバムは,派手なゲストを排して,ダニエル・ジャメ(元マノ・ネグロのギタリスト)がアブダラーのヴォーカルと特にリード・ギターを思いっきりフィーチャーさせた,ギターマン・シップにあふれたアルバムに仕上がっています。ティナリウェンとジャスティン・アダムスの関係を持ち出すまでもなく,この砂漠のギターブルースは,多くの欧米のギタリストたちを魅了しました。アブダラーとダニエル・ジャメは2005年に「デゼール・ルベル」のセッションで出会って以来,ギターの兄弟仁義を通して,6年間もの密なコラボレーションを続け,その結果として産み落とされたのがこのアルバムです。
 曲によっては録音メンバーに,フィリップ・テブール(ドラムス),ジョゼフ・ダアン(ベース)というダニエルと同じマノ・ネグラ出身者の名前が見えます。とは言ってもここでマノ・ネグラの音を期待してもらっても困るのですが,ダニエル・ジャメのアプローチはやはりロックの修辞法だと思います。アブダラーのヴォーカルとギターを決め技にとっておきながら,過度の修飾を避けながらも北側のロックのアンビエントで包み込むということなのです。端的な例を挙げますと,「砂漠のギター」はたくさんの音色がないのです。それに対して「北側のギター」はアタッチメント/エフェクトで多種多様な音色が出るのです。
別の例を言いますと,アジズ・サハマウイのアルバム『グナワ大学』 の中で,3曲でプロデューサーのマルタン・メソニエが(控えめに)自らギターで参加していて,このバンドのギタリストであるエルヴェ・サンブ(セネガル人)とは違う,明らかに「北側」の隠し味として機能しているのです。ダニエル・ジャメはこのアルバムでメソニエよりもやや派手にそれをやっているのだ,という聞き方をしました。ステレオのレンジスケールが東西に広がるのではなく,南北に広がっているようなサウンドと申しましょうか。
 ブックレットではアブダラー自身がその歌詞を解説していますが,それはそれはみんなトゥアレグ抵抗の歌,目覚めよ蜂起せよと煽動する歌,逆に平和のために団結せよと訴える歌,トゥアレグ文化讃歌,戦士の士気を鼓舞する歌... その中で6曲めに恋人と離れてしまった兵士をなぐさめる癒しの歌があります。
これは愛の唄。私の幼なじみの友人のひとりがある娘と恋に落ちた。それは1989年のことで,戦争に突入する前の緊張した時期だった。しかしニジェール政府軍は私と彼を捕まえ,アガデスで20日間監獄に入れられた。釈放されるやいなや,私と彼はリビアに逃れた。恋人と遠く離れて彼はとても不幸になった。彼が持っていた指輪が唯一の思い出の品だった。私は嘆き暮れる友だちを癒す薬としてこの唄を作った。
ほとんどが内戦時代の歌で,これを歌い/聞きながら,トゥアレグ義勇軍兵士や野営キャンプの人々が踊っていたという姿が目に浮かぶのですが,歌詞内容とはうらはらに旋律とリズムは祝祭的でグルーヴにあふれています。
終曲12曲めが,内戦がようやく終結した1998年に書かれた曲です。
この歌は私が1998年に書いたもので戦争の終わりを歌っている。ニジエールは平和の光に包まれた。今日この歌を歌うのは悲しいことだが,ニジェールはいつの日にか幸福が訪れるだろう。平和協定が尊守されるためには,国があらゆる人々に対して門戸を開き,仕事を与えなければならない。自らの自由のために戦った人々を除外してはならない。
アブダラーのアコースティック・ギター弾語りに2声のバックコーラスだけの,静かなアレンジで歌われるこの終曲に,ダニエル・ジャメは砂漠を吹き抜ける風の音を挿入してフェイドアウトします。 砂漠とその民トゥアレグの問題は解決されていないものがたくさんあります。アブダラーが北の友だちと歌わなければならないことは,まだたくさんあるということでしょう。

(追記):アルバムタイトルの『ゾゾディンガ』 はサハラ砂漠の中のニジェール領内のテネレ砂漠(テネレはトゥアレグの言葉で「何もないところ」の意味)にある山の名前で、トゥアレグ人たちから神秘の山として崇められているそうです。

<<< トラックリスト >>>
1. DJEICHE CHAABI
2. ARHAT TOUMAST
3. TADALT
4. TAPSIKT
5. TASILE
6. SOUVENIR NAM
7. ELAN WINA
8. AFRIKYA TAOURA
9. BALOUS
10. ZAGZAN
11. NIRTAI ID WAKHSAN NET
12. ALHER

ABDALLAH OUMBADOUGOU "ZOZODINGA"
CD Culture & Résistance / L'Autre Distribution CD AD1720C
フランスでのリリース:2012年2月27日

(↓アブダラー・ウンバドゥーグー "Tapsikt"のヴィデオクリップ)