2009年8月30日日曜日

1年6組の子も、2年6組の子も、3年6組の子も... Rock me!



 重低音に揺さぶられながら、ああ、この夏もまた終わってしまうのですね。
 8月30日。Rock en Seine最終日。今日の最大の驚きは、ゼム・クルッキード・ヴァルチャーズ(Them Crooked Vultures)。このバンドはプログラムに載っていません。匿名バンド「レ・プチ・ポワ」(日本語ではグリーンピースか。親子丼に乗ってる豆ですね)として登録されていて、「超大物」という思わせぶりな紹介文つきで、正体は明かされていませんでした。まあ、よくあるプロモーションの手口なんでしょうが、インターネット上でその正体をつきとめたという情報がフェスティヴァル開催の1週間前くらいから、あちこちで噂の焚き付けをしまして、まだCDも出ていないのに、Tシャツだけがやたら売れている某バンドということがわかるんですね。私はこの轟音ロックの世界は全然門外漢なので、何が大物で、何がすごいのかは、プレス評などを見ても、へえ、そんなもんですかねえ、としか思わなかったんですが。
 クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジというメタルのバンドをやりながら(ここではギタリスト/ヴォーカリスト)、そのサブプロジェクトのイーグルズ・オブ・デス・メタルというバンド(ここではドラマー)もかなり売れているらしく、またプロデューサーとしても名を成しているジョッシュ・オムという人が、ニルヴァーナ〜フー・ファイターズのドラマー、ディヴ・グロールと、レッド・ツェッペリンのベーシスト/キーボディストのジョン・ポール・ジョーンズと組んで始めたバンドが、このゼム・クルッキード・ヴァルチャーズです。
 今回のステージではクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのギタリストのアラン・ジョハネスが加わって、ツィン・リード・ギターのクアルテットで登場したゼム・クルッキード・ヴァルチャーズですが、いやはや、最初の第一音からぶっ飛びの、ヘヴィー・ヴィルツオーゾのアンサンブルで、私は心臓がバクバク言うのを感じましたね。重い重い。曲後半に必ず見せ場をつくるデイヴ・クロールのシンコペーションの重いこと、重いこと。若い3人に囲まれて、ジョン・ポール・ジョーンズがベースにキーボードにはしゃぎ回っているのがとても意外。この人ツェッペリンではこんなふうに前面に出て目立ったことはないですよね。2009年のロック・アン・セーヌのベストは、私には断然これです。
(↓ Them Crooked Vultures)


 その日、サン・テチエンヌ出身の20歳の男性アーチスト、スリーミー君も見ました。プリンスの風貌でミカ風なエレ・ポップをするスリーミー君は、アメリカでのデビューも決まったし、ヨーロッパもツアーすることになってます。娘は大好きみたいなんだけど、まあ、がんばってね。
 ソウルのメイシー・グレイもすごく良かった。まあ、良くて当り前のような貫禄のアーチストですが、午後4時台ではなくもうちょっと暗くなってから見たかったような、大人の音楽でした。午後3時に組まれていたセネガルのバーバ・マールは私たちが会場に着くのが遅くて、見ることができず。夏の陽気の日曜日の午後3時は、ちょっと辛いですねえ。
 その夜は、娘と私が最も楽しみにしていたMGMTでした。サイケデリック! 顔に炭を塗った若い子たちがたくさん踊ってました。ははは。キノコを食べている気分。
 こうやって、この夏も終わってしまったんですね。

(↓ MGMT)

2009年8月29日土曜日

パパ・ノエルは来なかった



 2009年8月28日。わが家の向かい、セーヌ対岸のサン・クルー公園の晩夏の恒例行事 Rock En Seine に家族で行くようになってから、これで3回目。私たちが行くようになってから、一度も雨が降ってません。これが7回目ですけど、1回めと2回めの時は雨が降っていて、わが家の前を泥だらけになった若い衆がぞろぞろ歩いているのも見て、ああ、ウッドストックっぽいなあ、と思っていたものです。そう言えば今年はウッドストック40周年で、40年かかって「ラヴ&ピースの3日間」はわが家の前までやってきてくれたんだなあ、なんて感慨にふけったりして。入口のゲートをくぐると、私たち中高年夫婦と十代娘の3人連れとわかっていても、おねえさんがスポンサーマーク入りのコンドームをいっぱい手渡してくれるし...。これもラヴですかね。
 昨日も晴れでした。おととしジャーヴィス・コッカーが "Saint CloudにはCloudがない"と英仏語バイリンガルのジョークで受けてましたが、昨日はちょっと雲と風がありました。しかし上々の天気。まず私たちは4時半頃から始まったキーン(from England)を最初から最後まで見ました。ロマンティック&ポエティック。こんなはっきりしたメロディーのポップロックを生で見るのはこれが初めてかもしれません。爺でさえ "Everybody's changing"を唱和できましたから。妻子も大満足で、今年は初めから良いのに当たって、先が楽しみだあ、と期待に胸膨らませておりました。
 場内には今年もいろいろなEXPOがあって、400本のペイントスプレーの缶を400人のアーチストがオブジェにした"400ml"と題されたものがとても面白くて、しばしゆっくり鑑賞してました。食べ物屋もかなり多彩で、おなじみのケバブ屋さん、タルティフィレット屋さん、テックスメックス屋さんに加えて、タイのヴェジェタリアン料理屋や、アンティルのクレオール料理屋さんも。またラマダン期にあたるので、ドライフルーツと砂糖菓子を出すミント・ティー屋さんもありました。
 いろんなところをうろうろして、5時半の回のヤー・ヤー・ヤーズ(from New York)を遠目に見ながら、移動してグランド・セーヌ(メインステージ)の6時半のエミー・マクドナルド(from Scotland)を、持参したパイプ椅子に坐りながら鑑賞。娘お目当ての"This is the life"が終わったところで、移動して奥様お目当てのマッドネスへ。
 いやあ、良かったですねえ、マッドネスは。私たち中高年だけではなく、若い人たちも大変な盛り上がりようで、驚きでした。しかし(往年の、とは言え)ヒット曲の数多いですよね、この人たち。ああ、これもマッドネスだったんだあ、と思い出した曲が次々と。まあ百戦錬磨のショーマンたちですね。脱帽しました。
 というところで、8時になったので、みんな思うことは同じで、どこの料理屋台も夕食を求める人たちの長蛇の列で、私たちは30分待ちくらいでやっとクレオール料理にありつけました。長い間待って食べれば、何食べても皆おいしい、ということでしょうか。まあまあ、いけてました。
 9時を回って、私たちは移動してグランド・セーヌへ。10時に予定されているオアシスを見るための場所取り。ステージをかなり上手の方から見ることになるんですが、サン・クルーの森側にちょっと坂になった芝生があって、そこにパイプ椅子3脚で陣取りました。10時が近い頃にはこの特等席から見るとものすごい数の人たちが集まってきているのがわかりました。今朝のリベラシオン紙の報道では3万人と書いてありました。スタジアム一個分でしょうかね。
 持参した双眼鏡でステージを見ますと、10時を過ぎたというのに、ステージの用意が全然できていないのがわかりました。ローディーたちは立っているだけで、全然作業していない。照明の位置をやり変えたり、マイクスタンドを持って右に行ったり左に行ったり...。10時15分を過ぎても状態は変わらず、これはコンサートができそうにないんじゃないの、と娘と話してましたら...。
 10時25分、オアシスのスポークスマンがステージに出てきてマイクを取り、フランス語と英語で「楽屋でギャラガー兄弟が大げんかをして、今夜オアシスはステージに立てない。詳細はノエルが公式サイトで説明する。バンドはもう存在しない。今夜だけでなく、今後のヨーロッパツアーはすべてキャンセルされる」とスピーチしました。ステージ横のモニター画面には文字で「オアシスのコンサート中止。チケットを捨てないでください。賠償の詳細はフェスティヴァルの公式サイトに」と書かれています。
 笑っちゃいますよね。私たちこれで3度目です。一昨年と去年はエミイ・ワインハウスのどたキャン、今年はオアシス。「このフェスティヴァルは呪われている」と今朝のリベラシオン紙は書いてました。
 さてオアシスに何があったのか、というと、現時点でニュース等で知る限りでは、28日の午後にはサン・クルーの楽屋にちゃんと入っていたそうです。その後、どういう理由でかははっきりしないが、ノエル・ギャラガーとリアム・ギャラガーが激しい喧嘩になってしまい、一説ではギターが炸裂したとも言われています。そしてノエルが楽屋を出てしまい、そのまま帰ってこなくなりました。
 「今夜俺はオアシスを脱退した」とノエルは公式サイトに声明を書き込みました。
 まあ、こういうことはこの兄弟はこれが初めてではないので、と重要視しない論調もあるようです。
 というわけで、この季節なので「パパ・ノエルは来なかった」と嘆いても、それほど悲しくないできごとと、私たち家族は苦笑いしています。

 Rock en Seine 2009には明日30日も行きます。

(↓ワン・ステップ・ビヨ〜〜〜〜ンド!)

2009年8月21日金曜日

シルヴァン・ヴァノ(忠太郎)



Silvain Vanot "Bethesda"
シルヴァン・ヴァノ『ベテスダ』


 かつて「ノルマンディーのニール・ヤング」と呼ばれた人です。1963年生れ。中学教師をしながら作ったデモテープがジャン=ルイ・ミュラに認められて,ミュラの後押しで1993年にLABELS(Virgin)からアルバムデビュー。ほんと,まんまニール・ヤング(クレージー・ホース時代)でした。それからだんだんに丸くなっていって,シャンソンや映画音楽に接近したりして,ミュラとよく比較されるオーガニックなシンガーソングライターになっていきました。アルバムはLabelsから5枚出ました。最後の2002年のアルバム"Il fait soleil"は,以前運営していたインターネットサイトで私は大絶賛していたはずです。鈴木惣一郎も参加してましたね。
 あれからもう7年。同世代の90年代フランス・インディーシーンの立役者たち(ドミニク・ア,ミオセック,カトリーヌ,イニアテュス,オトゥール・ド・リュシー,リトル・ラビッツ...)などと同じように,レーベルとの契約を切られたり,お呼びがかからなかったりで,鳴りをひそめざるをえなかった時期が長かったですが,シルヴァン・ヴァノはちゃんと帰還して新アルバムを作ってくれました。
 英国は北ウェールズのブリン・ダーウェン録音で,寒々とした草原と農場を思わせるカンタベリー的環境です。で,元ヘンリー・カウのジョン・グリーヴスが,ベース,ハーモニウム,オルガン,ピアノなどで重要な働きをしています。それからシャック(マイケル・ヘッド)のドラマーのイエイン・テンプルマンが参加しています。ペダルスティール・ギターの名手B.J.コールが甘く切ない音色で入ってくると,ニール・ヤング/ストレーゲイターズのベン・キースがまぶたに浮かびます。それからエルヴィス・コステロやチチ・ロバンのバンドでバス・クラリネットを弾いているルノー・ガブリエル・ピオンもいます。
 アルバムタイトルの『ベテスダ』は,聖書(ヨハネ書)に出て来るエルサレムの池の名前で,主の使いがその水を動かせば,その水を最初に受けた者はいかなる病気でも治ってしまうと伝えられています。全体的に癒しの雰囲気があるアルバムですが,枯れてさらに丸くなったシルヴァン・ヴァノの慈愛みたいなものも,ふつふつと。
ビート・ジェネレーションの聖歌みたいなエデン・アーベ作「ネイチャー・ボーイ」の仏語カヴァー「エトランジュ・ギャルソン」が唯一の例外で,あとは全曲ヴァノのオリジナル曲です。
 
    河よ おお 河よ
    私はおまえがどこで眠っているのか知っている
    だがおまえが起きて出ていく時どこに行くのかは知らない
    河よ おお 河よ
    私が知らないことは
    私には苦にならない,少なくとも今のところは
               (河 - Rivière)

 なにか竹林の七賢人みたいな,中国の仙人が自然と問答しているような歌詞ではありませんか。山や河や野に向かって,日がな一日語ったりしているのでしょうね,このヴァノは。アルバム終曲の「花 - Les Fleurs」に至っては,このヴァノの賢人ぶりが際立って,私は恐れ入りましたと深々とお辞儀しましたね。

    花は他の花の上には生えない
    それはあらゆる匂いを自分にふりかけるが
    最良の匂いもあり最悪の匂いもある
    (中略)
    花は水と泥を吸って生き,そして死ぬ
    花の命は長くはない
    それは1年よりは短いが,1時間よりは長い

    人は花を美しい少女たちに与えるし
    みんなが泣いている時に死んだ者たちにも与える
    花ってそういうものさ

 その(ヴァノ)場の気分と言いますか,飾らず,気取らず,ありのまま,無農薬...。眠くなったらお茶を飲みましょう。おいしいお茶を!

<<< トラックリスト >>>
1. O MON TOUR
2. UN PIED DERRIERE
3. LES CLOCHES DE L'AMOUR
4. HAWAII
5. RIVIERE
6. LE MOUTON A TROIS TETES
7. NATURE BOY (ETRANGE GARCON)
8. BAMBI BLANC / FORET NOIRE
9. BOIS FLOTTANT
10. IMPLACABLE
11. LES FLEURS

Silvain Vanot "BETHESDA"
CD MEGAPHONE MUSIC CDMEGA20
フランスでのリリース:2009年9月28日


(↓アルバム4曲め「ハワイ」のライヴヴィデオ)

Silvain Vanot - Hawaï (2007) from Jean-Philippe Pelletti on Vimeo.

2009年8月19日水曜日

やせっぽちのことを日本語で「えんぴつ」という



Amélie-Les-Crayons "A l'Ouest, je te plumerai la tête"
アメリー・レ・クレヨン『ライヴ2009』


 2001年ジャン=ピエール・ジュネ映画『アメリー・プーランの華麗な運命』(邦題は題も名前も短縮して『アメリ』)以来,アメリーという名の人物は周囲の人々に惜しみなく幸福をばらまく太陽のような少女,というイメージがついてしまいました。われらがアメリー・レ・クレヨンがこの芸名でリヨンで活動を開始したのは2002年のことで、アメリー人気のご利益狙いと思われたのはしかたありません。しかし、こちらのアメリーもその演劇的で物語的なスペクタクルが噂を呼び、観る者に必ず幸せな気持ちで家路につけるマジックな少女として、フランス全土で年間90日間ステージをつとめる努力が認められて、テレビやFMと縁のない「オン・ザ・ロード」の実力派女性歌手として評価を固めていきました。この辺の事情はジュリエット・ヌーレディンヌと良く似ています。
 アメリー・レ・クレヨンの「クレヨン」は日本語のクレヨンではなく,「えんぴつ」という意味です。たくさんのえんぴつを持った少女アメリーというわけです。
 自主制作の6曲入りアルバム『ひなげしの歌 Le chant des coquelicots』(2002年)に続いて,初フルアルバム『なぜにエンピツ? Et pourquoi les crayons?』(2004年)とCDは発表していますが,このアーチストはたぶんCDを売るということにあまりこだわっていないように思えます。彼女の歌とピアノと腕達者な3人の男性ミュージシャンで構成される,4人の旅芸人一座によるスペクタクルがCDよりも重要であるようなのです。彼女の歌を聞くのはいろいろな町でそのスペクタルを見に来る人たちであって,部屋でCDプレイヤーで聞く人たちは少なくてもいい。なぜならそのスペクタクルはCDよりもずっといいからなのです。
 400人のホールで始まった『ひなげしの歌』のスペクタクルを立ち上げてから,それはやがてフランス全土に広がり,1時間半の演し物は2時間になり,ツアー中に新しい曲が追加され,観客との丁々発止のインプロヴィゼーションで毎晩その様相は変わっていき,日々成長と変容を続けて行って,3年後には毎夜ソールドアウトで公演数200回を越してしまうのです。
 その記録は既に2005年にDVD化されていて,『ひなげしの歌』の総決算的な2時間のスペクタルを収録した "LE TOUR DE LA QUESTION 2005"は,それに先立つCD『なぜにエンピツ?』では見えづらかったこの女性とその一座のサーカス的で視覚的で劇的な展開がやっと見えた感じがしました。これを目の当たりに見たなら,誰もが納得するでしょう。
 そしてそのサイクルに一旦終止符を打ち,2007年に新しいアルバム『ラ・ポルト・プリュム(羽根の扉)』を発表し,さまざまなキャラクターの登場する絵本(32ページ)の体裁をした15曲アルバムから,また新しいスペクタクルが創作されます。2007年4月から始まったスペクタクル『ラ・ポルト・プリュム』のツアーの総集編的DVDがこれです。言わなくてもいいようなことを言いますが,今回もCDよりもずっといいのです。
 本編のコンサートライヴ90分の他に,ツアードキュメンタリー風の短編映画(ロード・ムーヴィーと副題されています)"A L'OUEST JE TE PLUMERAI"(童謡「アルエット=ひばり」のもじりで,西に着いたらおまえの羽根をむしってしまうぞ,といった意味でしょうか)が収録されていて,アメリーと3人の男たちの旅路が描かれます。この短編で,彼らの旅することの意味,スペクタクルと人生の関係などが,本人たちの口から語られます。言葉少ないながらも繊細さを感じさせるアメリーは,「アメリー・レ・クレヨン」は自分のことではなく,プロジェクトの名前であり,それを共同でつくりあげている人々の集合体であることをほのめかします。ミュージシャンたちは途中で招集されたわけではなく,最初の図面引きのときから参画しています。この一座の苦労と喜びがたった30分の短編で本当によく見えてきます。リヨンから始まったツアーが,西へ西へと向かい,フランスの大西洋岸の町サーブル・ドロンヌに着いた時,彼らは波打ち際でスペクタクル最初の曲「ラ・メグルレット(やせっぽち女)」を(もちろんアンプラグドで)歌います。この時アメリーが感極まって,頬に涙がつたっていくのをカメラは捉えます。--- この人たちはこういう旅をしているのだ。だから止められないのだ。旅を肥やしにしてスペクタクルを育てている人たちなのだ。---そんなことを考えました。

Amélie-les-crayons DVD "A L'OUEST, JE TE PLUMERAI LA TETE"
★ LA PORTE PLUME (90分コンサートライヴ映像)
1. Intro
2. La Maigrelette
3. Calées sur la lune
4. Depuis
5. La derniere des filles du monde
6. Chamelet
7. Le Train Trois
8. Les Pissotieres
9. De nous non
10. Mon docteur
11. Le citronnier
12. L'Errant
13. Le linge de nos meres
14. Les manteaux
15. La garde robe d'Elisabeth
16. Marchons
17. La fève
18. Le gros costaud
19. Ta p'tite flamme
★ Road Movie "A L'OUEST" (30分ドキュメンタリー)
★ Les Maigrelettes (10分の"La Maigrelette"のアンプラグド映像集)

DVD L'autre distribution AD1546V
フランスでのリリース:2009年8月17日


Amelie-les-crayons : DVD A L'Ouest (bande annonce)

2009年8月16日日曜日

さらばスカーフ、さらばマドラス



Robert Mavounzy, Alain Jean-Marie, etc "L'album d'or de la biguine"
ロベール・マヴーンズィ、アラン・ジャン=マリー他『アルバム・ドール・ド・ラ・ビギン』


 フレモオ&アソシエ社のビギン復刻シリーズを長年監修しているジャン=ピエール・ムーニエの新しい仕事です。ものは既にビギンおよびフレンチ・ウェスト・インディーズのレコード史の中で屈指の名盤と評されていた1966年録音の『アルバム・ドール・ド・ラ・ビギン』(原盤セリニ・レコード、ポワン=タ=ピトル録音)のCD復刻です。加えて1972年セリ二・レコード録音のグアドループ島のカドリーユ・アンサンブル(ヴァイオリン:エリー・コロジェ)の4曲も収録されています。
 時期としてはアレクサンドル・ステリオなどのビギンのパイオニアたちの次の世代が、ビ・バップ・ジャズの影響のもとに伝統のリミットを越え出した頃で、クラリネッティスト/サキソフォニストのロベール・マヴーンズィがその旗手的な存在でした。後にビギン・ピアノの第一人者となるアラン・ジャン=マリーはこのセッションの時に21歳で、兵役の最中にこの録音に参加したため、録音のあと明け方に兵舎に帰ったところを上官に咎められ、数日間の営倉禁錮の罰を喰らいます。この名盤に女性歌手として参加しながら、有名になることなく、若くして消えてしまったマニュエラ・ピオッシュを、解説のジャン=ピエール・ムーニエはブルースの女帝ベッシー・スミスと比肩するとして、ビギンの女王の称号を与えるほどのオマージュを捧げています。
 このアルバムは、土地の名士にして、島の音楽に大変大きな貢献をしたロジェ・ファンファン(1900-1966)へのオマージュとして、ロベール・マヴーンズィ等がファンファンとその楽団「フェアネス・ジャズ」のレパートリーを再録音するかたちで制作されましたが、結果は先輩たちをはるかにしのぐビギンの金字塔アルバムになってしまったわけですね。
 追加で収められたエリー・コロジェのヴァイオリンを中心としたカドリーユ・アンサンブルの4曲ですが、ジャン=ピエール・ムーニエの解説がたいへん面白く、18世紀フランス宮廷で流行っていた社交ダンス音楽が、いかにしてフレンチ・カリビアンの各島で大衆ダンス化したかを説明しています。もちろん最初は仏領西インド諸島に入植した貴族入植者たちが持ち込んだわけですが、白人入植者たちにしてもこれが島での数少ない娯楽の最高のもので、家事に従事する黒人奴隷たちに才能があれば、どんどん楽器や音楽を習わせて、このダンスパーティーの習慣を消すまいとしたのです。黒人楽士たちはどんどん増え、その音楽は上流社会だけでなく、黒人たち同士の社会でも広がっていきます。
 カドリーユは18世紀ヴェルサイユで流行した、4組のカップルが四角になって踊る組ダンスで、グアドループのサトウキビ・プランテーションにうもれた村落部の野外ダンスパーティーで、これが18世紀のスタイルのまま踊られていたりするんですね。ジャン=ピエール・ムーニエはもちろんリズムやパーカッションなどがアフリカ起源のものがどんどん入っていってクレオール化することも強調しますが、これが長い間隷属されてきた人たちの、自由希求の表現となっていたことが最も重要なこと、という結論を引き出します。良い勉強になりました。

<<< トラックリスト >>>
1. Nous les cuisinieres (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
2. Guadeloupe An Nous (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
3. Moune a ou cé moune a ou (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
4. Cé biguine (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
5. Ti doudou an moin (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
6. Ninon (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
7. Mon automobile (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
8. Serpent maigre (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
9. Touloulou (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
10. Doudou Pas Pleuré (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
11. Chauffé biguine là (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
12. Adieu foulards, Adieu Madras (Orchestre traditionnel de la Guadeloupe)
13. Pantalon (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)
14. L'été (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)
15. La poule (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)
16. Pastourelle (Ensemble de quadrille Guadeloupéan)

"L'album d'or de la biguine"
CD Frémeaux & Associés FA5259
フランスでのリリース:2009年9月



 

2009年8月12日水曜日

In Jane B. we trust



 8月11日,アウン・サン・スー・チーへの判決(自宅軟禁18ヶ月)への抗議するデモはパリのビルマ大使館前。ジェーン・Bはもっとテレビやラジオに出なければダメです。私はそれを知ってたら,犬連れて参加に行きましたとも!今朝の新聞報道によると,デモ参加者「約50人」ですと。ウッソだあ...。そんなバカな...。いかにこの時期でパリに人がいないとは言え,そんなはずはないと思いますが,知らなかったとは言え,行かなかった自分を責めます。
 しかし昨夜のフランス国営TVフランス2ではこのニュース見ませんでした。
 ジェーン・Bがアムネスティ・インターナショナルと共にアウン・サン・スー・チーの解放を要求する運動を積極的に行っているのは,昨日今日のことではなく,既に数年間も続いていて,デモでは必ず先頭,テレビ/ラジオへのコメントはアムネスティ代表よりも頻繁で重要度が高いです。なにしろジェーン・Bですから。巨大石油会社トータルを敵に回しても全然平気。1985年セルジュ・ゲンズブールはトータル石油のために5分間の映画館上映用コマーシャル・フィルムを監督制作しています。1988年ビルマに軍事独裁政権が生れ,1992年トータル石油がビルマのヤダナで天然ガス採掘を始めました。「軍事独裁政権のスポンサーは中国政府とトータル石油である」とアムネスティ・インターナショナルはこの石油会社をボイコットするよう世界に訴えています。
 昨日の判決を受けて,世界の主要国が抗議の声明を発表し,米国オバマもアウン・サン・スー・チーの無条件解放を要求しました。フランスのサルコジは「早急にEU全体でビルマへの経済制裁を強化するよう働きかける」と言いました。ジェーン・Bは「ずいぶんサルコジは強いことを言ったものだ」と皮肉っぽく評価したあとで,「石油会社をボイコットすることをなぜ言えないのか」と批判。トータル石油のビルマ撤退こそ,アウン・サン・スー・チーの解放とビルマの民主化への最短の道である,とジェーン・Bは繰り返して訴えます。
 私はジェーン・Bの言うことを信用し,全面的に支持します。次のデモには必ず行きます。

(↓アムネスティ・インターナショナルと共同制作による、ジェーン・バーキン「アウン・サン・スーチー」のヴィデオクリップ)

2009年8月6日木曜日

おお湖水の上に煙が立っているぞ そして空には炎が



 昨日マニュ・チャオ原稿を書き終えました。
 私が89年に入社したメディア・セット社に,ディディエ・パスキエという人がいて,彼は同社の営業マンをしながら,オルタナティヴ・レーベルALL OR NOTHINGのプロデューサーだったのです。マノ・ネグラの前身バンドであるホット・パンツや,フランソワ・アジ=ラザロとマニュ・チャオのバンドであるロス・カラヨスのレコードを制作していたレーベルです。私はその頃はヴァリエテだけしか頭になかった時期なので,ディディエから見本盤をもらっても,あまり関心を示さなかったのでした。
 マノ・ネグラはその頃アルバム『パチャンカ』の大ヒットで,ディディエや私から見ればかなり天狗になっていた時期でした。喰うや喰わずの生活をしていたパンク小僧たちが,急に金を持ったら...。そしてディディエがホットパンツの権利をめぐって,マノ・ネグラから訴訟を起こされたのです。私のうろ覚えの記憶では,ディディエがホットパンツ制作のギャラをミュージシャンに払っていない,あるいは現金払いのため払ったという証拠書面がない,という理由で,この権利をディディエから奪い取ろうとしていたような話だったと思います。貧乏プロデューサーのディディエは寝耳に水で,かわいそうに,3年前のスタジオ費やバンド飲食費の領収書のかわりになるものを一生懸命探して...。そしたらマノ・ネグラ側から「ホットパンツのレコードが東京のレコード店で見つかった。あんたたちには輸出の権利はないはずだ」というイチャモンまでついて。そのレコードを東京に送っていた張本人は私でした。
 そういう事情があって,89年当時の状況では,私はマノ・ネグラのマニュにしても,ブッシュリーのフランソワにしても,できることなら近づかないでおこう,としていたのでした。
 その後のマニュの発言にしても,たいへんひっかかるのは,レコード産業全般に対する嫌悪感ですね。レコード会社から強制されることを拒否して,創作の絶対の自由を死守し続けたマニュですから,衝突することは多かったと思います。俺は音楽を人々と分かち合いたいわけで,レコード売上げの利潤をレコード会社と分かち合いたいわけではない,なのです。前者が達成されれば,後者など必要ないのです。時々出て来る「俺はもうCDを出さない」発言は,レコード会社にとっては脅威ですが,時代の趨勢であり,マニュのような南米の山の奥まで行ってでも人々と音楽を分ち合いたいアーチストは,無料配信された方がずっと自分の目的に近いものになるのです。
 マニュは "GROS"(グロ。大物。メジャーアーチスト。メジャーな音楽)は無料(違法)ダウンロードしたってかまわない,とはっきり言っています。その中には当然自分の音楽も含まれます。ただ小さい独立のアーチストや大国でない国の音楽などは買ってあげた方がいいんじゃないの?とは思っているようですが,そのあとすぐに「CD買う金があるんだったら,恋人と映画見に行く方がずっといい」なんて言ってしまうんですね。
 というわけで,今後,マニュ・チャオの新曲の無料ダウンロード公開がどんどん増えていきそうな感じです。

 9月11日,フランス共産党機関紙ユマニテ主催の「ユマニテ祭り」にマニュ・チャオ&ラジオ・ベンバを見に行きます。11日夜はメインステージにマニュ・チャオ,同じ時間のサブステージにアラン・ルプレストというがっちゃんこですが,迷わずマニュ・チャオです。
 12日土曜日は,今朝の爺の窓 (2009年夏) で書いたように Le Grand Feu de Saint Cloud があるので行けませんが,メインはディープ・パープルです。今年のユマニテ祭りのプロモーション・ヴィデオもかわいらしく「スモーク・オン・ザ・ウォーター」づくしで,笑えます。
 13日日曜日はマチネ17時にジュジュ様です。「イ〜〜ヴァノヴィッチ」って歌うんでしょうね,やっぱり。

(↓)Fête de l'Huma 2009 でのマニュ・チャオ