2008年12月30日火曜日

ヴェロニク・サンソンを抱きしめて



 Véronique Sanson "L'Intégrale"
 ヴェロニク・サンソン『全集』


2008年はヴェロさんと話ができたことが、我が身では一番の出来事でした。その時もこの"L'intégrale"の話が出て、人の知らないサンソンというのは山ほどあるんだから、と言ってました。引出しには17歳頃までに書いた曲がまだたくさんある、とも。
 『全集』は12月3日にワーナー・フランスから発売されました。CDが22枚(420トラック+53未発表ヴァージョン)、DVDが4枚、バイオグラフィー本(116頁)、歌詞本(106頁)という構成です。テレラマ誌のヴァレリー・ルウーは[ffff]絶賛しながらも、多分全部は聞いていないような感じの評ですが、70年代後半("Hollywood", "7ème", "Laisse-la vivre")のソウル/ファンク/ラテンロック期の仕事に驚いておりました。発見するものが多いです。私もやはり70年代までで止まってしまいます。(というわけで私も全部聞いていません)。
 DVDの3本目、"BONUS TV"にはいろいろびっくりするような映像がありました。セルジュ・ゲンズブールとのデュエット「ラ・ジャヴァネーズ」は、ゲンズブールの方が緊張しているようで可笑しい。
 1990年発表のプラハ交響楽団との共演盤 "Symphonique Sanson"のリハーサルで89年秋にプラハを訪れたヴェロニクは、プラハの町で進行中だった「ビロード革命」に遭遇し、オケ団員やプラハ市民らに混じって革命のデモ行進に参加します。オケの譜面台にヴァーツラフ・ハヴェルの写真が張ってあったりするのも、歴史的瞬間だったことを思わせます。そしてそのコンサートでヴェロニクは客席に向かって「革命に連帯する人たちは、みんなライターを灯してちょうだい!」と訴えます。そうすると場内に無数の小さい炎が揺らめき、拍手と歓声とオケ団員の楽器を叩く音に包まれます。すごい絵だなあ。
 1994年ビヴァリーヒルズで撮影された、フランスのテレビ番組のための映像ですが、CSN(クロスビー、スティルス&ナッシュ)のレパートリー "Find the cost of Freedom"がスティーヴン・スティルス、クリストファー・スティルス、ヴェロニク・サンソンの3人のハーモニーで歌われます。いい絵だなあ。
 その時のインタヴューでスティーヴン・スティルスが、初めてヴェロニクに会った時の印象を話していて、「ピアノを聞いた時は、左手の力強さがすごいとびっくりしていて、俺はそのソウルフルな感じから、黒人の太っちょのおばさんを想像していた。歌を聞いたらハイトーンの可憐な声で、エディット・ピアフの娘かとも思った。太っちょのソウルピアノを弾くエディット・ピアフの娘は、実際に会ったら小さなブロンドのお嬢さんだった」なんて言ってました。ものすごい「戦争」をしていたヴェロニクとスティルスから十数年後に、スティルスが(フランスのテレビ向けの外交辞令みたいな部分もあるとは言え)「ヴェロニクはその時代にとって重要なアーチストである」と断言する時、まじに優しい良い顔しているのがとても印象的です。
 休み中ずっとこれ聞いていようと思います。気がついたことがあれば追記しましょう。

VERONIQUE SANSON "L'INTEGRALE" BOX SET
22CD + 4DVD + 2BOOKs WARNER FRANCE 2564696533
フランスでのリリース: 2008年12月3日


PS (1月28日)
今日ヴェロさんから,年賀状のお礼メール(たった2行ですが)が届きました。すごくうれしい。
2行目が "Mille soleils. Véro"で終わっています。千の太陽が輝きますように。

2008年12月29日月曜日

ダンソ!ダンソ! (オクシタン・ダンスの手ほどき)



DVD "PER PLAN LAS DANCAR - VOL.1"
DVD 『オクシタニアのダンス - VOL.1』

 ラ・タルヴェーロによる初のDVDは、ダニエル・ロッドーが解説し、セリーヌ・リカールがダンス指導する、オクシタニアのダンスのレッスンです。言語はオック語とフランス語のどちらかを選択できます。撮影は2008年の5月に、ラ・タルヴェーロの本拠地、コルド・シュル・シエル(タルン県)とその周辺で行われていて、コルドの美しい景色も見物です。
 ラ・ラルヴェーロの最新アルバム『ブラマディス』の中の曲、「ダンソ、ダンソ」の中で、怒りの叫びを発するためにダンスしよう、地球のいたるところでダンスしよう、幾万人もの人が一緒にダンスすれば、この古ぼけた世界は震えることだろう、と歌っています。このダンスは大地から生まれて、大地と人々を震わせることが本当にできそうです。
 このDVDは16種類のオクシタニア・フォークダンスを紹介していて、順番は簡単なものから複雑なものへ、で「ダンス・レッスン」の鉄則に従っています。まずレッスン1が、「ロ・ブランレ」という単純な2ステップものです。これは片足飛びの連続で、右足2回飛び、左足2回飛びを繰り返します。あれあれ?これは津軽のねぶたと同じですね。
 複雑な組みダンスから、大きな輪で交差しあうファランドールや、スコティッシュのオクシタニア版や、カップルとカップルがぶつかり合うちょっと乱暴なものもあります。それをダニエル・ロッドーとラ・タルヴェーロの演奏で伴奏し、コルドの町の広場で輪になって踊ったり、野にキャンプファイヤーを焚きながら、村の老若男女総出で踊ったり、本当に楽しい映像です。
 ボーナス映像がまたふるっていて、アルビジョワ、ケルシー、ルーエルグの各地方で同じように伝わっている「ふいごのダンス」で、顔にひょっとこのような化粧をして、白い寝着(スリーパー)を着た男女がふいごを持って行進列をつくり、前進と後退を繰返しながら、前の人のお尻にふいごで風を送るという、ケッタイな踊りです。これを村中の人たちがやるんですね。事情を知らない(中央から来た)地方行政官などがこれを見たら、集団発狂と思って逃げ出すでしょうね。ダンソ!ダンソ!

DVD "PER PLAN LAS DANCAR - VOL.1" (CORDAE/La Talvera DVTAL01)
フランスでのリリース:2009年1月

ラ・タルヴェーロDVD「オクシタン・ダンス」予告編

2008年12月28日日曜日

2008年よく聞いたアルバム・その2



 Dick Annegarn "Soleil du soir"
 ディック・アネガルン『夜の太陽』

 
2008年10月。Tot ou tard。爺が中学生の時分にポール・サイモン(当時はサイモン&ガーファンクル)のギターは少なくとも3人で弾いてると思ってました。90年に私が所属していた独立会社がディックのアルバムを制作して,その内輪お披露目に社員食堂ライヴをギター弾語りでやったのですが,どうしてこういうギター奏法が可能なのか,私は目を回して驚嘆したものです。そういう驚異のアコースティック(ブルース)・ギターが,このアルバムでも大活躍で,ギターは歌ほどに雄弁で,歌よりも数十倍早口なのでした。
 ディックは故国(オランダ)もその言語も捨てて,フランスで音楽アーチストとして生きるわけですが,それは暖かく迎えられているとは思いません。2曲め「ジャックJacques」は,故国フランドルもフランドル語も捨てたブレルのことを思っています。世界中で故国なく生きる人たちがどれくらいいると思いますか? "Nous sommes plusieurs millions"(数百万人いる)と7曲め「家族なく生きる人々 Sans famille」は歌います。私たちは特殊な人種でなく,こんなにたくさんいる人たちの一部ですが,こんなにたくさんいる人たちは同じようなブルースを心に鳴らしているのですね。「ロンドンのブルース,リールの憂愁,ロッテルダムのロック,ありとあらゆる都市のスモッグ」(8曲め"Blues de Londres")。ディックにはもう一度会えるだろうか,そう思いながら何度も聞いたアルバムです。
ディック・アネガルン「冬の太陽」クリップ(ミッシェル・ゴンドリー制作)





 Catherine Ringer "Chante Les Rita Mitsouko and more à la Cigale"
カトリーヌ・ランジェ『レ・リタ他を歌う』


 2008年11月。Because。CD+DVDという無駄な作り(環境にやさしくないぞ!)。DVDの方が8曲多いですし,そりゃあステージ映えのする女性ですから,DVDばかりでの鑑賞でした。カトリーヌ・ランジェはフレッド・シシャンが死んでしまうなどということは一瞬たりとも思ったことがなかったそうです。それは2007年11月に突然やってきたのですが,レ・リタ・ミツコはそれで終わってしまったのです。おしまい。続きはないのです。では何が残っているかというと,ノスタルジーだけなのです。
 このショー(2008年7月,パリ,ラ・シガール)は,ノスタルジーの大洪水です。それはカトリーヌの意志で,フレッドが好きだったレ・リタに最も近いショーをすることだったからです。30年近くレ・リタのカトリーヌをやってきた彼女には,この大洪水の水位はなかなかおさまらないものでしょう。ほんとにシロートっぽいバンドだったレ・リタは,目を見張るライヴバンドになってしまいましたし,イモっぽい姐さんだったカトリーヌはディーヴァそのものになってしまいましたし。終わっちゃったんですねえ。終わってないんですけど。
カトリーヌ・ランジェ「レ・ジストワール・ダ」2008年12月カナル・プリュス

2008年12月26日金曜日

2008年よく聞いたアルバム・その1



Thomas Fersen "Trois petits tours"
 トマ・フェルセン『三べん回ってタバコにしょ』


2008年9月 Tot ou tard。フェルセン7枚目のスタジオアルバム。カバン物語。ジェルメーヌという名前をもった旅行カバン、ウクレレ君、ギター君、巨大なきゅうりに乗っての大旅行。もう何をやったってトマ・フェルセンの世界ですから、面白いように出て来るシュールな演し物にあははは...と喜ぶしかないです。強烈な個性の上にあぐらをかいた芸、のような手厳しい批評をヴァレリー・ルウー(テレラマ誌)はしたのですが、森羅万象にふっと一息かけただけで、動物君も昆虫君も植物君もカバンちゃんもウクレレちゃんも全部フェルセンの言うことを聞いて、フェルセン音楽のワンダーランドが作れてしまうのだから、この個性はこのまま続けていってもらわないと困ると私は思うのです。
ジャン=バチスト・モンディーノ撮影のジャケットもすごい、としか言いようがありません。トマ・フェルセン "3 petits tours"CD'AUJOURD'HUI



MGMT "Oracular Spectacular"
 MGMT『オラキュラー・スペクタキュラー』


2008年6月 Columbia/Sony-BMG。もういろんなところで(英国NME、仏国レ・ザンロキュプティーブル...)2008年のベストアルバムに選ばれているから、爺からは何も付け足すことはないのだけれど、このアルバムを6月に手にした時、30-40年前にロックってすごいなあと思ったことが、この2008年にもう1回体験できたような気がしたのですよ。この子たちは世界中の年寄りたちを舞い上がらせたでしょうね。生意気で反抗的で違う方向のヴィジョンがあって美しい。それだけではなくて、この子たちの使う語彙(あ、メタファー的な意味ですよ)の多さは、年寄りたちが使っていたものですよ。若い人たちが熱狂するのは当り前。年寄りたちが頷くのも当り前。「音楽をやろう、金を稼ごう、トップモデルを妻にしよう」(Let's make some music, make some money, find some models for wives.I'll move to Paris, shoot some heroin, and fuck with the stars.アルバム第1曲"TIME TO PRETEND")。爺たちにはロックはそんなものだったのです。ル・パリジアン紙ヴィデオ「バタクランのMGMTの反応」



Christophe "Aimer ce que nous sommes"
 クリストフ『あるがままのわれらを愛すること』


2008年7月 AZ/Universal。63歳。ダニエル・ベヴィラッカ、アーチスト名クリストフはずいぶん前から老紳士の振るまいをしています。それは若い頃から(身に)厳しい創作活動をしてきたことを物語っているようです。1曲作るたびに顔の皺が増えていったような。身と心から絞り出すような作品ばかりです。作った本人はどんどん抜け殻に近くなっていく、そんな極端な創作態度のアーチストだと思います。
自ら強いて63歳のすべてから絞り出したようなアルバムです。第一声の「うぉ、うぉ、うぉ...」という呻きとも感嘆とも忘我とも聞こえるヴォカリーズから、命をすり減らすアートを思わせます。神々しいオラトリオのような曲「マル・コム」は、「時間が与えられたら、それ自体の恵みとして使おう、ありがたい恵み、それはあるがままのおまえを愛すること、あるがままの私を愛すること、すなわちあるがままのわれらを愛すること」と歌われます。こんな言葉を発したら磔刑に処されるでしょうに。
クリストフ『あるがままのわれらを愛すること』インタヴュー

2008年12月25日木曜日

ニコル・ルーヴィエ(1933-2003)



 Nicole Louvier "Et ses chansons 1953-1957"
 ニコル・ルーヴィエ『自作シャンソン集 1953-1957』


 ニコル・ルーヴィエ(1933-2003)の最初期の録音集です。ポーランド系ユダヤ人の家族に生まれ、15歳の頃から作詞作曲を始めた自作自演歌手です。もっぱらギターでメロディーを作るというのは、フランスの女性アーチストではおそらく初めてのケースかもしれません。爺たちの感覚ではこの頃のギターを持つ女性というのは、「修道女」というイメージが先入観としてあります。「サウンド・オブ・ミュージック」(ジュリー・アンドリュース)や「スール・スーリール」(ドミニク、ニック、ニック...)のせいかもしれません。このニコル・ルーヴィエの短い頭髪と清楚な服装(首のつまった白衿のシャツ)も、そのイメージから遠くありませんが、歌はそのイメージとは裏腹の、若い女性のアンニュイを歌っていたのです。フランソワーズ・アルデイの15年前、バルバラの10年前、そう思ってくれてもいいです。
ルーヴィエは20歳になる前に、モーリス・シュヴァリエにその驚くべきソングライティングの才能と確かな歌唱力を買われて、シュヴァリエの後押しでレコード・デビューします。1953年のことです。

Qui me délivrera
De ton corps de tes doigts
De ta bouche qui me délivrera
Qui me délivrera enfin de toi
誰が私を解き放ってくれるの?
 あなたの肉体から,あなたの指から
 あなたの唇から,誰が私を解き放ってくれるの?
 ねえ,誰があなたから私を解き放ってくれるというの?


 この"Qui me délivrera"という曲がノエル・ノルマンという歌手に歌われて1953年のドーヴィル・シャンソンコンクールの大賞を獲得します。多くの人に歌われたこの曲はマルレーネ・ディートリッヒによっても吹き込まれます。この歌詞など,はっきりとコレット〜サガン系列の性のアンニュイではないですか。またこのことから「シャンソン界の女ラディゲ」とも呼ばれました(ラディゲは『肉体の悪魔』を書いた少年作家)。禁忌を破って歌う20歳のニコル・ルーヴィエの歌詞には,同性愛者としての意思表示も暗号化されているのです。女性たちから大きな共感を獲得する一方,旧道徳を重んじる社会からは白眼視されたこの短髪の女性歌手は,それでも50年代末まではスター歌手として活躍し,1959年には来日公演も行っています。
 自作自演歌手,詩人,ラジオ番組プロデューサー,小説家でもあったルーヴィエは1959年に3作目の小説『商人たち Les Marchands』を発表します。この作品は若い女性歌手が芸能界の闇の部分に翻弄され,身も心もボロボロになってしまうという業界暴露的な内容で,その細部にわたる描写が実在するショービズ・ピープルの激怒を買ってしまうのです。クリスティーヌ・アンゴの先駆みたいですね。しかし,この結果,ニコル・ルーヴィエは徐々に芸能界から敬遠されるようになり,60年代後半にはもう録音もできなくなり,イスラエルに移住して細々と執筆活動を続けます。「商人たち」を敵に回したということに対する仕打ちであったわけですが,多くのファンたちの要望にも関わらず復刻CDもずっと出ないままでした。2003年3月8日,人知れずニコル・ルーヴィエはガンで亡くなり,現在はモンパルナス墓地に眠っています。
 ラジオ・プロデューサーでもあったルーヴィエは,その番組に出演した駆け出しのバルバラを激励し,バルバラはルーヴィエに自分の進むべき道を見ていました。またアンヌ・シルヴェストルもルーヴィエに感化されてシャンソンを書き始めたことを認めています。
 このCDは1953年から1957年にかけて,デッカ・レーベルにルーヴィエが録音した24曲に,未発表録音2曲を加えた,ニコル・ルーヴィエの初CD復刻です。
 
Quand j'ai faim il y a le pain
おなかが空いたらパンがある
Quand j'ai soif il y a le vin
 喉が渇いたらワインがある
Quand je suis seule il y ma guitare
 ひとりぼっちの時もギターがある
Quand j'ai le cafard il y a... les chemins
 気がふさいだら旅に出たらいい


 1954年の歌 "Quand j'ai faim"はこのCDで最も美しい曲のひとつです。ホーボー・ブルースのような歌詞ですが,若い女性の繊細な声で歌われるワルツです。波風を怖がらない女性だったのかもしれません。ひとりで行くことを怖がらなかった女性でしょう。ニコル・ルーヴィエ "Quand j'ai faim"

<<< トラックリスト >>>
1. Mon petit copain perdu (1953)
2. Tu es bien (1953)
3. Qui me délivrera? (1953)
4. Ce sera bien (1953)
5. Quand j'ai faim (1954)
6. A la vie comme à la guerre (1954)
7. C'est la loi (1953)
8. J'ai peur de l'amour (1953)
9. Dormez (1953)
10. Tu me dis que tu m'aimes (1953)
11. C'est le vent (1953)
12. Pour tout simplement (1953)
13. File la nuit (1955)
14. Monsieur Victor Hugo (1954)
15. Je ne suis plus parisienne (1955)
16. Si tu crains l'enfer (1954)
17. Nous n'avons pas changé (1956)
18. Toule d'araignée (1956)
19. Où te trouverai-je? (1956)
20. J'ai quitté Maman (1956)
21. Paris jardin (1957)
22. J'imagine que sur ta naissance (1957)
23. Soyons amis (1957)
24. Present compagnon (1957)
25. Amour je ne veux pas dormir (未発表)
26. Gentil roi Louis de Bavière (未発表)

CD ILD 642263
フランスでのリリース:2008年3月



PS 1
You Tubeに画像,映像が若干載っています。そのひとつニコル・ルーヴィエ "Mon petit copain perdu"

2008年12月23日火曜日

門戸開放モン・コテ・パンク



  (↑モン・コテ・パンク『IZGUBLJENI』。ロレーヌ・リトマニックがリードヴォーカル)

 12月22日(月)パリ13区のセーヌ河岸(国立フランソワ・ミッテラン図書館下)に停泊するペニッシュ・エル・アラマインで、ラ・リュー・ケタヌーのムーラド率いる寄り合いバンド、モン・コテ・パンクのコンサートでした。
 コンサートの前にムーラドと談笑しましたが、ムーラドは今度のラ・リュー・ケタヌーの新アルバム(2月リリース)の出来にとても満足していて、リリースが待ち遠しくてしかたがない、と言ってました。3人がこんなにいい状態でアルバムを作ったことはないんだ、と。確かに1枚めは公民館を借り切ってぶっつけの一発テイクだったし、3枚めは寄せ集めライヴだったし、2枚目が今日まで唯一のちゃんとしたスタジオ録音盤でしたから。自分たちのイニシアティヴで制作し(初めて自分たちのレーベルから出す)、十分に時間をかけて、おのおのが書き溜めたいい曲ばかりを持ち寄って出来たアルバムだそうです。「ゴールドディスク、間違いない」という自信でした。
 不特定集合体のバンド、モン・コテ・パンクは今夜は最少3人から最大7人までのフォーメーションで、欠席者がいるのは経済危機の直撃によるものである、とムーラドはMCで説明してました。
 それからムーラドのジョークのひとつでこんなのがありました。
 「ジョニー・アリデイとミッシェル・サルドゥーとバンジャマン・ビオレーとヴァンサン・ドレルムが同じ飛行機に乗り合わせて旅行していたが、運悪くエンジンのトラブルで墜落してしまった。救われたのは誰か? − (答)ラ・シャンソン・フランセーズ」
 (↑オルタナティヴなジョークです。気にせず笑ってすませましょう)

 さてステージはムーラドと,カリム・アラブ(元パダムのギタリスト。アコースティックもエレクトリックも。時々ガットギターがウードのような音になるのが面白いです)の二人が核になって,これまで2枚のアルバムで聞かれたような,アラビック,マヌーシュ,フラメンコ,バルカン寄りのミクスチャー音楽と,ムーラドの人情ヴォーカルで盛り上がっていく,場末キャバレー・ミュージックな展開です。今夜のステージではとりたてて「パンク的な面」(コテ・パンク)は強調されていませんでした。ロレーヌさんはミニスカートでしたし。
 レパートリーはモン・コテ・パンク,ラ・リュー・ケタヌーのものの他にアラン・ルプレスト,ブラッチ(そうか,彼らにとっても大先輩か),ロイック・ラントワーヌのものも出ました。立って踊るようなオーディエンスの動きはありませんでした(と言うのは,船上なので,踊ると揺れるのですよ。私は以前にそれをやって,しかもアルコールが入っていたので,ふがいなくも船酔いしてしまいました)が,熱心に聞き入るタイプの若者たちが多く,いいファン層を持っているなあ,と感心しました。
 ムーラドにはまたラ・リュー・ケタヌーのコンサートで再会するのがとても楽しみになりました。それよりも早くニューアルバムを送ってもらいたいものです。

2008年12月21日日曜日

今朝の爺の窓 (2008年冬至)



 毎年冬至は同じような曇天で。一年で夜が一番長い上に昼が曇天ということで,太陽渇望が極限に達する日であります。しかしこの日を過ぎれば,日照時間が増していくのがことの他うれしくなります。子供の頃から私にとってこの冬至から新年にかけての10日間というのは,マジカルな瞬間で,大恐慌だ大不況だと言ったって,この瞬間街々は一年で最も美しいし,食品売場には普段見ないものが山積みになっているし,人の家に行けばシャンパーニュの栓を抜くポーンという音が迎えてくれるし...。
 娘セシル・カストールは先週から冬休みですが,学校(コレージュ)の課題で「職業実習」を4日間しなければならず,実習先としてわが町ブーローニュにある私立の日本人保育園で「エデュカトリス/アニマトリス educatrice/animatrice」の研修をしています。要は子供たちと一緒に遊んだり,団体でゲームしたり,歌ったり,踊ったりができればいいのだと思いますが,これはたいへんな仕事ですよね。当たり前ですけど一人一人が違うのですから。簡単な子供というのはいるわけがないのですし。でも子供たちにいいお姉さんと慕われて,得意げになっているので,この道に進むかどうかはまだ結論を急がないにしても,良い選択肢ができたと思っています。娘の祖母(私の老いた母)は教育者ですから,私が継がなかったその道を,孫が継いでくれたらさぞうれしいでしょうし。
 私はと言うと,仕事の方が年末最終出荷を先週金曜日に出してしまったので,ちょっと時間が出来ました。娘のBrevet受験勉強の手伝いもしなければなりませんが,今週来週で見ていなかったエキスポ(まだピカソも見ていない)や映画を見たいと思ってますし,12月初めに入手したヴェロニク・サンソンの全録音集(CD22枚+DVD4枚)も封を開けて,身も心もヴェロさん漬けになってしまおうとも思ってます。
 今年たくさん聞いたCDというのは本当に少ないのです。悪い傾向です。年が変わる前にこのブログで紹介してみようかな,とも思っています。

 自分をほめてやりたい,と思うことが今年はひとつあります。3年半,毎晩欠かさず服用し続けた睡眠薬を,この秋やっと断つことができました。愛は勝つ,などという(私にとって)ありそうもないことを言うつもりはありませんが,何かが勝ったんだと思っています。
 次はアルコールだね,とタカコバー・ママは言うのですが,アルコールを断ったらタカコバーと縁がなくなるので,ね。

PS 1 (12月30日)

ちょっとだけ雪ですね。

2008年12月20日土曜日

BUDAはビュダですか? ブダですか?



 (←イランの笛/打楽器アンサンブル:サイード・シャンベエザデーの3人と、ジル・フリュショー、灰色上着の銀髪紳士は民俗音楽研究家アンリ・ルコント = 元テニス選手とは無関係、頭のヘッドフォンだけが見えるのが番組主フランソワーズ・ドジョルジュ。写真をクリックすると大きく見れます。)

 12月19日、ラジオ・フランスの中にあるシャルル・トレネ・スタジオで、国営FMフランス・ミュージックの番組「Couleurs du monde(世界いろいろ、とでも訳せましょうか)」の公開録音がありました。番組主はフランソワーズ・ドジョルジュというエレガントな女性で、世界音楽を紹介するプログラムです。当夜のメインゲストは、世界音楽の世界では世界的なレーベル(世界が3つ並んだなあ)Buda Musiqueのディレクター、ジル・フリュショーで、同レーベルの21周年を祝おうというものです。「21年」とは半端な数字と思われましょうが、フランスでは1974年まで成人は21歳でした。あの頃は21歳まで、あれもしてはいけない、これもしてはいけない、喫煙飲酒だけではなく、ご交際もご外泊もご休憩もしたら咎められる、そういう封建的な風潮があり、21歳になる、というのは大変なお祝いごとだったのです。その日には堂々とホテルを予約する、そういうものでした(どうも話題が違う方に行っているなあ)。
 というわけでBuda Musiqueの「元服」を祝おうという宴で、Buda Musiqueのオールスターズが集まって演奏を披露しました。箏と唄の千田悦子さん、ウード二重奏のロープイット親子、イランの笛/打楽器の三重奏アンサンブルのサイード・シャンベエザデー親子、オクシタン・ポリフォニーのルー・クワール・デ・ラ・プラーノ(ロ・コール・ド・ラ・プラナ)、そしてクレズマー・クラリネットの新王ヨムのクアルテットが出演しました。
 2〜3曲演奏したあとで、アーチストがフランソワーズ・ドジョルジュとジル・フリュショーのいるテーブルに合流して、自分とBuda Musiqueとの関わりみたいな話をして、ジルにヨイショするわけですね。ルー・クワール・デ・ラ・プラーノのマニュ・テロンは、その席で「ところで、これはビュダなのか、ブダなのか?」とジルに核心的な質問をしました。ジルは「それには諸説あるが、ハンガリーの首都の川を挟んだ半分という説と、パリ11区のチベットレストランの定食メニューの名であるという説がかなり有力である」とはぐらかしました。(★)
 テロンはプロデューサーとしてのフリュショーの徳は、とことんまでの相互信頼を許すパートナーであることだ、とも言いました。実はテロンは最新アルバム『Tant Deman 明日があるさ』の制作の前に、いろいろなレーベルを当たってパートナー探しをしていたのですが、その時をことを:「なんて言う名前だったっけ?ほら、シニックの反対語の会社、あそこはひどかったぜ」などと公然とNaiveの悪口を始めたりして...。まあ、その末にフリュショーという真に信頼できるパートナーを見つけるのですが、それは二人とも大変な飲ん兵衛であり、酒振る舞いの気前よさで意気投合したような内情を、私は知っています(秘密)。
 トリをつとめたヨム君は、例の王様扮装で登場してくれず、会場をがっかりさせたものですが、「ラジオだからいいじゃん!」という言い訳で。その1曲めの、超高速フレーズにジングルベルのメロディーを盛ったりして、サービス、サービス。そう言えば、この日の録音が国営フランス・ミュージックの電波でオンエアされるのは、12月24日午後8時から10時半。一体この日のこの時間帯に、この地味なラジオ放送局のこの番組を聞く人たちは、どれだけいるでしょうか?
 (↓)この日もちょっとだけディジカメでヴィデオ録りしました。Lo Cor de la Planaですが、この日は一人足りずに5人。欠席君は4日前にパパになったので、というめでたい話でした。

 



爺註(★)
Buda Musiqueの創始者は二人います。Dominique Buscail(ドミニク・ビュスカイユ = 故人)とFrançois Dacla(フランソワ・ダクラ = 現EPM社長)です。この二人の姓のあたま2文字ずつを取って、Bu Da → BUDA という社名になったのです。ですから「ビュダ」と読まれるのが妥当なわけですが、現代表のフリュショーやわたしなんぞはどっちだっていいじゃんという態度で、フツーに「ブダ・ミュージック」と言ってます。


PS 1 (12月23日)
 フリュショーさんに会っていろいろ話を聞きました。その恰幅の良さと,地方人風のたたずまいと,何でも知っている老教師みたいなわかりやすい語り口... そういう雰囲気が漢字で「古庄」と振るとぴったりでしょう。寒い日にお宅にうかがうと,おかみさんがすす〜っとお椀ものを出してきて,これ飲んだらあったまるけえのお,とすすめてくれる,熱い湯気をふうふう吹いて,お椀からずずず〜っと音を立てて飲み込む「古庄汁」(ブダ汁とも言う),そういう光景が目に浮かびませんか? ジル・フリュショーはそういう大地のヒューマンが香る音楽人です。机の上の仏陀の文鎮に注目あれ。

2008年12月17日水曜日

Ma plus belle histoire d'amour...



 BARBARA "UNE PASSION MAGNIFIQUE"

 フランスの独立レーベルNocturne(ノクチュルヌ)から2008年10月にリリースされた大変豪華なロングボックス(CD2枚+64頁ブック)です。テレラマ誌(ヴァレリー・ルウー)がffffで絶賛しただけでなく,同誌年末恒例の「理想のギフト選」にも入ってました。シャンソン愛好者ならギフトとしてもらったら感涙ものでしょうね。
 バルバラ(1930-1998)の世界的ファン組織「バルバラ・ペルランパンパン協会」の会長であるディディエ・ミヨーが監修&執筆した64頁の布張りハードカバー写真集&バイオグラフィーにまず圧倒されます。5歳のバルバラ(幼稚園の仮装会。赤ずきんちゃんのよう),20歳のベルギー(ブリュッセル)での下積み時代の写真やポスター,出演した劇や映画のポスター,外国盤のジャケット,ラジオ局の中で毛糸編みをするバルバラ,1988年の日本公演写真など,興味深い写真や図版が多数。これはフランス語がわからなくても十分堪能できるでしょう。
 CDの方は2枚ありますが,2枚目はラジオインタヴューが2編(1970年と1993年)で,これはフランス語のわからない人にはきついでしょうね。かなりの早口で,フランソワーズ・サガンみたいにつっかかるので,聞き取りはかなり疲れます。というわけで,日本の人たちには1枚目のCDに興味が集中するわけですが,これは1971年1月,スイス,ローザンヌでのコンサートの未発表ライヴ録音で,20曲(+MCが3トラック)入りです。
 71年と言いますと,劇「マダム」の失敗,シングル「黒いワシ」の大ヒットの直後になります。ここからバルバラのポピュラリティーは一般化していくわけですが,このスイスでのコンサートでは,フィナーレ3曲が「黒いワシ」,「ナント」,「生きる苦しみ Le mal de vivre」となっていて,「黒いワシ」がすでに多くのファンにとって「この曲を聞くまでは」の1曲になっていたのがわかります。
 バッキングはオーケストラではありません。バルバラのピアノとロラン・ロマネリのアコーディオン(非電気アコと電気アコ)だけです。アコーディオンに電気増幅装置を取り付けた最初の人がフランシス・レイである,という伝説があります。「男と女」「パリのめぐりあい」「白い恋人たち」,ずいぶん後年になってあの音がアコであると聞いて驚いたものですが,原理は電子オルガンと一緒なんですから驚くには当たらないのかしらん。このライヴでもロマネリの電気アコは,電子オルガンのペダルキーみたいな低音まで出たりするから,ほとんど「ヤマハ・エレクトーン」状態です。私はつい数年前まで「エレクトーン・アレルギー」みたいなのがありまして,あの安上がり結婚式みたいな音色に虫酸が走ったものです。セヴンティーズの音ですよね。なぜこのアレルギーから脱することができたかと言うと,多分90年代の一時期アコーディオンばかり聞いていたからなんだと思います。(つじつま合ってるかな,これ?)
 この時バルバラ40歳。私たちが多分一番レコードで慣れ親しんでいる声の頃だと思いますが,既に 「孤独(La Solitude)」の最も高い音は声が出ていなくて...。しかしそれにしても,死や孤独や生きる苦しみ系の歌ばかりなのに,なんという闊達無碍なパフォーマンスでしょうか。すべてではありませんが,のびのびと自作レパートリーを歌い上げている感じがすごいと思います。「いつ帰ってくるの?(Dis quand reviendras-tu?)」は,このライヴの歌が私にはベストのように思いました。逆にオーケストレーション抜きの「黒いワシ」はちょっと盛り上がらなくて...。
 CD2の1993年のインタヴューで「わが麗しき恋物語 Ma plus belle histoire d'amour」は,誰かれという特定人物のことではない,とすごい勢いで語っています。私の"public"のために書いたのだ,と。いいなあ!

 Je donnerais au public jusqu'à la dernière goutte de mon sang

とこのハードカバー本の表紙の裏に書いてあります。「私の血の最後の一滴まで,私は"public"に捧げるだろう」。この "public"という言葉をどう訳すか難しい場合があります。聴衆,観衆,お客さま,ファン...どれも違うような気がします。"public"は文字通り「すべての人々」(公衆,大衆)であるようなところもあります。この人はその歌を聞くすべての人たちのために,最後の血まで捧げた人なんでしょう。

<<< トラックリスト >>>
CD 1
1. Je t’aime
2. Parce que
3. Absynthe
4. Mon enfance
5. A mourir pour mourir
6. Au bois de Saint Amant
7. Une petite cantate
8. La solitude
9. (Intervention Barbara)
10. Joyeux Noel
11. Si la photo est bonne
12. Quand ceux qui vont
13. Dis, quand reviendras-tu?
14. (Intervention Barbara)
15. Drouot
16. Chaque fois
17. Le Soleil Noir
18. (Intervenstion Barbara)
19. Hop la
20. L’Aigle noir
21. Nantes
22. Le Mal de vivre

CD 2

1. 1970年8月放送の国営ラジオ「フランス・キュルチュール」での
エミール・ノエルによるインタヴュー。22分。
2. 1993年10月放送の国営ラジオ「フランス・キュルチュール」での
フランソワ・ドレトラのインタヴュー。22分。

LONGBOX 2CD (+64 pages Book) NOCTURNE ARCH576
フランスでのリリース:2008年10月20日

2008年12月9日火曜日

クレズマー・クラリネットの新王



 今夜はバスチーユ近くのカフェ・ド・ラ・ダンスで、クレズマー・クラリネットの新王ヨム君のクワルテットのコンサートでした。カフェ・ド・ラ・ダンス超満員で、私は袖口で立って見てました。ヨム君は28歳の若造クラリネット奏者ですが、1920年代ニューヨークのクレズマー・クラリネットの王と呼ばれたナフトゥール・ブランドワインに敬意を表して、ナフトゥールの曲ばかりを録音したアルバムを制作しました。ナフトゥールはクラリネットのヴィルツオーゾだっただけでなく、その派手なステージアクションや奇抜なステージ衣装でも知られていて、なおかつベースケで酒好きだったので「ナスティー・ドランク」の異名も取っていました。ヨム君はナフトゥールの後継者を自認して、みずから「新王」を僭称しますが、派手好き、ベースケ、酒好きなところは旧王に負けないと言いたい風です。件のアルバムのジャケ写に見えるような、サルコジ風のブリンブリン(Bling bling)なサングラス、ジャラジャラの金ピカアクセサリー、アフリカ独裁者のような衣装と王冠... このコンサートの第一曲めは本当にこのイデタチで演奏しました。
 クレズマーはもともと東欧ジューイッシュ(アシュケナージュ)の音楽で、15世紀くらいから東欧でユダヤ人の冠婚葬祭を彩る音楽として演奏されてきました。それが新大陸アメリカに渡ったアシュケナージュが伝え、ニューヨークなどの大都会のユダヤ人コミュニティーで演奏されていたんですね。"Klei"と"Zemer"の合成語で「歌の伴奏楽器」を意味するのですが、本来はインストルメンタル・ミュージックです。クレズマーの楽団または楽器のことをクレズモリムと言いますが、花形リード楽器は何と言ってもクラリネットです。
 ヨム君のクワルテットは、ピアノ(クレズマー・ピアノの第一人者ドニ・キュニオ)、チューバ&トロンボーン(ブノワ・ジファール)、パーカッション(アレクサンドル・ジファール)、そしてヨム君(クラリネット)の布陣で、今夜はゲストでトランペットのイブラヒム・マールーフが参加しました。
 ワンパターンと言えないこともないですが、ゆっくりと始まって、超高速で終わるクレッシェンド・トランスミュージックです。会場は踊る人こそいませんでしたが、かなりの陶酔度だったと思います。ヨム君はMCがうまい。ジューイッシュ・ジョークなんでしょうね。巧みな話術と笑わせどころにメリハリのある、達者な芸人です。楽しい1時間半でした。
 (↓またちょっとだけディジカメでヴィデオ撮影しました)

2008年12月7日日曜日

この本はサイテーである。



 マキシム・ヴァレット/ギヨーム・パッサグリア/ペネロープ・バジウ『糞忌々しき人生』
 Maxime Valette / Guillaume Passaglia / Pénélope Bagieu "VIE DE MERDE"


 爺は来年で在仏30年になります。この国は「おおむね」好きです。しかし生活者ですからさまざまな局面でこの国の人たちや制度や慣習などと衝突したり,理不尽に拒否されたり,リスペクトを欠く対応をされたりということがあります。それはしかたのないことだと思っています。この国に限ったことではないですし。
 また,この国の人たちがどうしようもなくアホであると思う時もないわけではありません。サルコジが大統領に当選した時には真剣にそう思いました。また,極々たまにですがフランス最大の民放TV局TF1の超高視聴率の娯楽番組など見てもそう思います。(まあ,日本のテレビ娯楽番組のことを考えたら,まだ救われているような気もします)。スカイロックやFUNラジオのような若者向けFMの早朝や夜の聴取者ダイヤルインの番組などでもそう思いますが,まあこれは若い衆の「程度の低さ」というものだからしかたがない部分もあります。
 イントロが長くなりました。この本は民放ラジオEUROPE 1のルーラン・ルーキエの番組で取り上げられたのを,たまたま車の中で聞いていて,面白そうだと思って帰宅後すぐにインターネット・オンライン・ショップに注文したのでした。しかし,結果は本当にアホな本でした。本というのは本屋店頭でペラペラと読んでみてから買う,という習慣を省いてしまった私が一番アホなんですが。
 "VIE DE MERDE"(クソ人生)は,もともとインターネット上のフォーラムボードでした。アドレスはwww.viedemerde.frです。泣きたくなるような,呆然と立ち尽くすような,場合によっては死にたくなるような失敗談や遭遇事件を,書込み告白して,それをみんなで笑い合うというのが,このサイトの始まりでした。糞忌々しい自分の運命を呪う書き手は,このサイトでみんなに笑われて,一種の厄払いをするわけです。書き方にはルールがあり,必ず "Aujourd'hui"(今日)で始まり,"VDM"(vie de merdeのイニシャル。クソ人生)で終わります。

Aujourd'hui, en jetant ma cigarette par la fenêtre de la voiture, le vent l'a renvoyée à l'intérieur. Je me suis brûlé tout le pantalon. VDM
 今日,車の窓からタバコをポイ捨てしようとしたら,風に戻されて内側に落ちて,ズボンが全部燃えてしまった。クソ人生。

Aujourd'hui, j'ai fait un don de sperme à l'hôpital. L'infirmière qui était là pour m'aider était ma cousine. VDM
 今日,病院で精子バンクの提供者になった。俺を担当してくれた看護婦はなんと俺のいとこだった。クソ人生。


 こういう投稿による失敗談や事件談を約850編セレクトして本にしたものです。インターネットで大人気を博していたものなので,内容は総じて若いです。当然匿名投稿ですから,至って無責任な内容です。匿名だと何でも書けると思っている人たちは困りものですね。自分の名前で何もできなくなってしまいますよ。
 こういうサイトは最初は真剣に失敗談を書く人の方が多かったんでしょうが,だんだん書く側は面白おかしければそれでいい,になっていくんでしょう。サイト運営者がちゃんとした編集権を発揮して,「実話だけにしぼる」という努力をしないと,ただの笑い話サイトに堕してしまうと思います。笑い話だったら,プロが書くような笑い話の方がずっとずっと面白いのです。しかしそれが真にシロートの書く実体験失敗談ならば,それに増して面白いはずなのです。中には,本当にこれは困ったろうという話も載っています。

 今日,俺の車のドアが開かなくなった。俺はいらいらしてドアに差し込んだキーを力いっぱいひねった。そうしたらキーがカギ穴の中でパキンと折れてしまった。よく見たら俺の車ではなかった。VDM

今日,朝早くまだ仕事場に俺ひとりしかいなかったので,俺は辺りに気にすることなくおならをした。ところが,それはおならだけではない結果になった。俺は仕事場には替えのパンツなど持っていない。その上俺の家はここから45キロも離れている。一日が長くなりそうだ。VDM


 しかし,大半は本当に程度の低いことばかりなのです。重要な場面(就職面接)やお目当ての女性の前でゲップしたりオナラしたり,携帯メールの宛先を間違って悪口や別れ話や愛の告白をしたり,本人が近くにいるにも関わらず大声で悪口を言ったり,数時間の仕事の後「保存」の代わりに「終了」を押したり,パソコンのポルノサイトの履歴を子供や恋人に見られたり,自慰の現場を親や恋人に見られたり,自分で気づかない口臭や体臭を一番言われたくない人から指摘されたり...。これを何十万というフランス人が見て,人の不幸を笑っていると思うと,とても情けない気持ちになります。私がいや〜な感じを持つのは,この人たちは「ウケ狙い」を第一の目的にしているようなところなのですね。

 今日,病院での長い検査の結果,俺は自分の精子が生殖不能であることを宣告された。俺の妻は,今俺たちの二人目の子を妊娠している。俺は今夜妻にいろいろ質問するだろうな。VDM

 今日,会社で仲間たちを集めて,俺が遠隔で自宅のウェブカムを作動させることができることを自慢げに披露したのだ。その結果,その場の全員が俺がコキュであることを知ったのであった。VDM


 上の2つのエピソードはフランスのお家芸のような「コキュ話」でありますが,話としては良く出来ていても,これは実話であるわけはないのが一目瞭然ですよね。こういうところがこの本のいやらしいところだと思うのです。匿名の創作話だったら,笑ってナンボのもんでしょうに。実体験の恥を包み隠さず告白してこそ,それを共有できる笑いの輪が救済となるのでしょうに。
 世界に自分ひとりしかいなくなったような孤独の瞬間があります。誰もこんな思いはわかってくれるわけがない荒野の寂寥と言いましょうか。たぶんこのサイトは,そういう思いを持った人たちが書き始めたと思うのです。他人にわかるはずのない恥,失敗,苦しみをあえて露呈してみようか,と。しかし公開してしまうと,人は平凡なものよりも極端なものをもてはやしてしまうんですね。これはインターネットが持つ,極端なものへ,より極端なものへと人を駆り立てる傾向のせいで,当初の意図なんかとうの昔に消えてしまっているのでしょう。
 インターネット的孤独ということではこういう話も載っていました。買い物やサービスサイトで人は知らず知らずのうちに,あちこちに自分の誕生日というのをばらしているではないですか。自分の誕生日が来て,身内からも友人からも誰からもお祝いメールなど来ないのに,誕生日おめでとうの多数の商業メールばかりが届いている,という話。これはウルトラ・モダンな寂寥 (ultra-moderne solitude)ですよね。

Maxime Valette / Guillaume Passaglia / Pénélope Bagieu "VIE DE MERDE"
(Privé刊。2008年10月。280頁。13.90ユーロ)


 

2008年12月5日金曜日

ケタヌー国ではもう悲しみを暖炉で...



 (←オリヴィエ・レイト。11月29日。パリ)
 
 ラ・リュー・ケタヌーという3人組の記事を書くのにまる10日間費やしました。
 一風変わった演劇工房(大道芸からモリエールまで)テアトル・デュ・フィル(「綱渡り劇団」と訳せるだろうか)出身の3人が、生ギター(ガットギター)とアコーディオンをかついで旅をし、行く先々の町の通りやカフェテラスや辻公園で自作の歌と寸劇のダイレクトパフォーマンスで人々を喜ばせます。この人々とのダイレクトのコンタクトがやみつきになるんですね。受ける芸、受けない芸、地方での人の違い、そういうのがだんだんわかってきます。サルタンバンク(Saltimbanque =大道芸人)という単語には「バンク」という言葉が含まれますが、金には縁のない職業です。20歳そこそこでサルタンバンクの道を歩み始めた3人は、町から町へ、野宿も平気、道あるところ俺たちは行くのさ、ってな、とても90年代後半的ではない生き方をしていたのです。私の偏見かもしれませんが、私はこれは60年代/70年代的には可能だった、と言うか、やる気があれば普通に出来たような記憶があるのです。それは自分が若かっただけでしょうか。あの頃の「明日をも知れない」は、昨今の「明日をも知れない」とは過酷さにおいてかなりの開きがあるのではないか、つまりあの頃はまだ楽天性が優位にあったように思うのです。これは自分だ歳取っただけなのでしょうか。
 それはそれ。
 ムーラド・ミュッセ、オリヴィエ・レイト、フロラン・ヴァントリニェの3人は道祖神の招きのまま、風まかせの旅芸人となります。1998年、彼らはラ・ロッシェル(ジャン=ルイ・フルキエ「フランコフォリー」フェスティヴァルのお膝元です)と、その沖に浮かぶ保養地の島イル・ド・レ(レ島)の、通りとカフェテラスに登場し、フロランの書いた街頭音楽劇を披露します。そのテーマの歌がこんなリフレインでした。

 C'est pas nous qui sommes à la rue
 C'est la rue Kétanou[C’est la rue qui est à nous]
 セ・パ・ヌー・キ・ソム・ア・ラ・リュー
 俺たちは路頭に迷っているんじゃない
 セ・ラ・リュー・ケタヌー
 往来は俺たちのものなのさ


 これはスローガンであり、マニフェストであり、彼らの生きざまをわずか2行で端的に表現したものです。この歌が大受けに受け、3人は自然と人々から「ケタヌー、ケタヌー」と呼ばれるようになります。いつしか彼らはこれをバンド名として「ラ・リュー・ケタヌー」を名乗るようになります。
 1年間の大道/放浪芸人の末、出会いが出会いを呼び、ロイック・ラントワーヌやアラン・ルプレストなどとも交流するようになります。彼らのシャンソンはブレル、ブラッサンス、フェレ、ピアフ、フレール、ルプレストなどを師とする、旅と出会いと別れを歌うシャンソン・レアリストだったり、ジタン/ツィガーヌ寄りの情念の濁流のような泣きものだったり、祝祭的なジャンプ系だったり、ミニマルの楽器で音響なしの環境で、最後には聴衆の輪を陶酔までもっていくパワーを獲得していきます。
 ブルゴーニュのカフェテラスでその演奏を見ていたひとりのソーシャルワーカーが惚れ込み、彼が主催するコンサートの前座に出てくれないか、と頼みます。ケタヌーの3人がその会場に行ってみたら、その夜のメインはゼブダだったんですね。ゼブダのファンたちは、この全く無名の大道芸人3人を最初はいぶかしげに、しかし最後には熱烈な喝采とジャンプ&ダイブで歓迎することになります。この夜から、ラ・リュー・ケタヌーはストリート・アーチストからステージ・アーチストに転身し、その進撃は止められなくなってしまうんですね。次いでトリオ(Tryo。フランスのアコースティック・レゲエの人気グループ。名に関わらず4人組であるところはチャンバラ・トリオと同じですね)の前座として彼らの全国ツアーに同行し、パリのオランピアにも登場して、ラ・リュー・ケタヌーは全国的に知られることになります。
 トリオの後押しで2001年にファーストアルバム。配給がトリオと同じメジャー会社(SONY)であったこともあるんでしょうけど、たちまちに2万5千枚を売って、ラ・リュー・ケタヌーはレコード・アーチストとしても成功してしまうわけですね。
 まあ、その数々の成功のことは雑誌記事の方を読んでいただくとして、ラ・リュー・ケタヌーは2003年にその破竹の進撃の頂点で活動を休止します。ゼブダやマッシリア・サウンド・システムみたいなもんですが(こういう例は世界のどこの人気バンドでもあるありふれた話ですが)、3人はソロプロジェクトを始めるわけですね。ムーラドが中心になってモン・コテ・パンク(Mon coté Punk)という不定型集合バンド(ムーラド・ミュッセ、ディケス、ロイック・ラントワーヌ、パダム...)が一方にあって、もう一方にフロランの率いるマヌーシュ・スウィング系のトリオ(ギター、コントラバス、アコーディオン)のタンキエット・ラザール(T'inquiete Lazare)があります。オリヴィエは最初モン・コテ・パンクのプロジェクトに参加しますが、3人のうちで最も演劇寄りの彼は、スラム〜ポエトリー・リーディングの方向でソロを準備しています(ジャン・コルティのアコーディオンをバックに一人芝居のようなスペクタクルをしたのを見たことがあります)。
 こういう3人組が5年のブランクの後に再結成して、極上のシャンソン・アルバム『ア・コントルサンス(逆方向に)』を制作します(2009年2月リリース)。先週の土曜日(11月29日)にオリヴィエ・レイトに会ってインタヴューしたんですが、とても面白い話をするヤツだし、大道で鍛え上がられたコミュニケーション術みたいな、一言一言がとても分かりやすくて熱いエモーションが伝わってくる、ありがたい1時間でした。好きになりましたねえ。この伝導力が決め手ですねえ。握手しただけで暖かさが通じてくる人というのがいますが、私はオリヴィエからはなにかとてつもなく熱いものが伝わってきたように感じました。それを日本語で日本人にどう伝えるかが、私に課せられた問題なのですが... 1週間も10日もかかっても、それを日本語化できないのは、私が大道で鍛えられていないからかなあ、と愚考したりします。
 人に出会うことや、旅することを、いつから億劫になってしまったんでしょうか。オン・ザ・ロード・アゲイン。もう一回出ないといかんなあ、とオリヴィエに教えられたような気がします。

 ラ・リュー・ケタヌーのオフィシャル・サイトに, 活動再開後のライヴヴィデオ(2008年3月ル・アーヴルでのライヴ Les Maisons)が張ってあります。これを見たらだいたいの人はわかってくれるんじゃないでしょうか。


PS 1 (12月8日)
オリヴィエの着てるTシャツ良く見て下さい。「オリジンヌ・コンコトロレ」です。ラ・リュー・ケタヌーは11月(このインタヴューの1週間前)に,ブール・カン・ブレス(Bourg-en-Bresse)という町でオリジンヌ・コントロレ(ムース&ハキム)とジョイント・コンサートをしています。