2008年10月26日日曜日

ゲンズ、ゲンズ、ゲンズ・ワールド



 今日から冬時間でして。
 昨日シテ・ド・ラ・ミュージックで開かれているエキスポ『ゲンズブール2008』(10月21日〜3月1日)に行ってきました。午後2時半頃着いて、行列待ちが1時間ほどでした。土曜日、しかも子供たちの秋休み(ヴァカンス・ド・トゥーサン)期間中なので、ゲンズブールの熱心なファンと言うよりは、家族連れやらフツーっぽい人たちの方が多く、チケット買い待ちの行列の私たちの前と後ろは全然ゲンズブールっぽくないおじさん/おばさんばかりでした。
 チケットは買えても、その後でまた入場者数制限でまた20分ほど待たされました。会場の入り口への通り道がハルモニア・ムンディのショップで、ゲンズブール関係の書籍、CD、レコード(LPが多く復刻再発されてます)は豊富に置いてあって、みんなたくさん買っているので、ちょっとびっくりしました。ミュージアム・ショップというのはどこでも購買力をそそる何かがありますよね。世界恐慌とは縁のない世界かもしれません。
 さて会場に入りますと、メイン展示場はゲンズブールの年代別の変遷を、壁には写真+時事ドキュメント、柱には映像(ヴィデオ)と画像というやり方で展示されていました。リュシアン・ギンズブルグからセルジュ・ゲンズブールになり、ゲンズブールから影の分身ガンズバールがあって、画家、バー・ピアニスト、シャンソニエ、自作自演歌手、映画俳優、映画監督、性倒錯、ロリータ偏愛、詩人、作家、CM作家、魅惑のクルーナー、ロッカー、ラスタマン、美人歌手プロデューサー、テレビ挑発人、エレクトロ・ファンクマン、近親性愛者、病人...., まあまあマルチな位相を持った人物でしたが、それをこの小さなスペースで全部見せようというのは、どだい無理な話です。特に壁に張ってあった小さい図版のドキュメントの数々は、エキスポ用に拡大するような工夫がどうしてできなかったのか、とても不満です。見づらく判別しがたく、凝視するのにとても疲れました。これらのドキュメントは、詰まるところ、あまり珍しいものではなくて、たくさん出版された伝記本や写真集などで多くの人たちは既知(デジャ・ヴュ)のものばかりでしょう。
 「キャベツ頭の男 L'homme à la tête de chou」の彫刻や、パウル・クレーの「星からの悪い知らせ」の原画、それからフランス国家「ラ・マルセイエーズ」の作者ルージェ・ド・リールの直筆の歌詞原本など、ゲンズブールに大きなインスピレーションを与えたものも陳列されています。
 ヴェルヌイユ通りにあったゲンズブール邸のプライヴェート・コレクション(ワッペン、腕章、ピストル、弾薬...)も、娘シャルロットの許可で陳列されていましたが、私はこんなもんじゃないでしょうが、という印象があります。と言うのは、(こういう家族連れの入場者たちにはあまり見せられないもの、という主催者側の判断でしょうが)、ゲンズブールが蒐集していたエロティックなオブジェのコレクションが一切公開されていないんですね。それだけでなく、毒々しい趣味を持った倒錯のアーチストという部分がほとんど見えてこない展覧会で、私は少なからず失望しました。
 家族連れで見に行って、20世紀後半のフランスにはこんなにポップなアーチストがいたのだ、と再認識させるにはそれなりの意味を持ったエキスポかもしれません。しかし、このナルシスティックなアーチスト像は、こんな中途半端なエキスポでは、ダリにもコクトーにもウォーホルにもなれないような、テレビで良く見たヴァリエテ芸人ゲンズブール(+若干の延長)としてしか見れないような印象でした。残念です。

2008年10月21日火曜日

機関車は走るのです



Jean Echenoz "Courir"
 ジャン・エシュノーズ『走るなり』


 タイトルの出典は小坂忠の71年頃の歌です。「忘れ物はもうありませんねと機関車は走るのです」という歌い出しです。妙な歌です。
 遠い昔,北国の洟垂れガキだった時分,西津軽郡鰺ヶ沢町立西海小学校という古い学校に入学する時,どういうわけか学力テストのようなものがあって,先生が1枚の絵を見せて,それにどんなものが表されているかを言ってみてごらん,と言うのです。そこには一台の自動車が描かれていて,都会のような光景だったと記憶しています。私は見たままにこう答えました。「自動車が歩いています」。先生は笑って「自動車は歩くもんじゃないよ。自動車は何をしているかな?」と質問を変えました。- 私の家に自動車はなかったし,生まれてからそれまで自動車なんか数度しか乗ったことがなかった私には,自動車が何をするものなのか,私には答えることができなかったのです。答えに窮して,私はその場で大声で泣きました。
 このショックで私は小学校に入りたくないとかなりゴネたのですが,時はゆっくりとその痛手を解消してくれたものの,その後もずっと私には「自動車は歩くものではない」というロジックが理解できないでいたのです。「自動車は動く」「自動車は走る」は日本語として正しいが「自動車は歩く」は正しくない。人間や動物は「歩く」ことも「走る」こともできるのに,自動車や汽車は「走る」ことはできても「歩く」ことができないのです。 「歩く」と「走る」の違いは何でしょうか? 速度の問題ではないのです。歩くとは「足裏の一部が常に地面に接地している」一連の動作のことで,それに対して走るは「足裏のどの部分も地面についていない瞬間がある運動」なのだそうです。自動車や機関車には足裏があって,それが地面についていない時があるのか!
 まあ,それはそれ。
 機関車は走るものであり,歩くものではありません。「人間機関車」と呼ばれた人間も走ることだけが許され,人間並みに歩くことができなかったのです。

 小説とは関係のない長いイントロになりました。ジャン・エシュノーズの小説『Courir - 走るなり』は,前作の『ラヴェル』同様,実在した人物の自由翻案によるポートレイトで,モデルは人間機関車エミール・ザトペック(1922-2000)です。『ラヴェル』の時もそうでしたが,エシュノーズは史実に即した偉人伝を書く意図は全くありません。実像を暴露するという意図もありません。しかし,この人物について多くの人たちが伝え聞いて想像していたようなスポーツヒーローの姿はこの小説には登場しません。むしろヒーロー像とは無縁の「フツー」の人がそこにあります。たまたまその状況に居合わせた人という感じなのです。
 チェコ(当時はチェコ・スロヴァキア)のモラヴィア地方の職工の息子エミールは,スポーツ嫌いの子供ででした。学校で無理矢理させられる体育授業が嫌いで,特に団体競技が嫌いで,欧州の子ならば誰でも好きでやるはずのサッカーが大嫌いでした。それでも授業などで強制的にサッカーをやらされる時,エミールは球が自分にやってきたら,とにかく出来るだけ遠くに蹴り返すというのが彼のやり方で,ルールや敵味方の動勢などまったく頓着しないのでした。靴の工場で働きながら,教員資格のための学校にも通う,勤勉な青年でしたが,ナチス・ドイツがチェコを占領して運命は変わります。ナチの国家社会主義は体育教育を重要視し,靴工場でも学校でもスポーツと競技会が頻繁に行われるようになり,運動嫌いの青年も競技会に出場させられ,長距離走で,こんなめちゃくちゃな走り方では絶対に最後まで走り通せるわけがないという,後世に知られることになるザトペック走法で勝ってしまいます。
 野球でも,美しい投球フォームのピッチャーが必ずしもすごい球を投げるわけではありません。村山実はその全身投げのようなピッチングを「ザトペック投法」と呼んだのですが,それは美しくないだけではなく,体に大きな余分な負担をかけるのです。エミールは腕の振りにしろ,上体の傾きや揺れにしろ,足の蹴り出しにしろ,無駄が多く,不規則で,体の各部位への負荷も大きく,スポーツ力学の理論にことごとく反するわけです。だからエミールにはコーチがいないのです。自分のやり方でしか走れないから,自分にしか通用しないトレーニング方法(ザトペックの「インターバル練習法」)を自分で考案してしまいます。
 しかしこの自己流の長距離ランナーは,多くの識者/専門家の予想を裏切って,次々と勝ち進み,記録を更新して行きます。これは当時のチェコの指導者たちからすれば,必ずしも歓迎されたことではなかったのです。地方大会や国内大会で勝っているうちはまだしも,国際競技会で勝つということは,なにかと波風が立つのです。ナチス占領時代は,この選手がドイツ人選手を破って勝つというのは... まずい。ナチス時代が終わり,チェコの共産主義建設時代は,この選手が共産主義の偉大な先輩たるソ連の選手を破って勝つというのは...まずい。というふうにエミールの国の上層部は思うわけですね。にも関わらず,エミールはそんなことおかまいなしに勝ち進んで行きます。しかも,いくら勝っても,ゴールに入るまでのあの断末魔の苦悶の顔をしながら,体を傾けながらがむしゃらに走るのは変わらないのです。
 この小説の23頁めで,エミールは世界で最初に「ラストスパート splint final」を生み出したことになっています。それまで長距離走というのはできるだけ平均的に走行速度を保って最後まで走り抜けるのが常識だったのに,エミールは最後の直線まで十分な力を温存させておいて,そこで一気に全速力で走りきるということをしてしまったわけです。
 今と違って,長距離ランナーというのは「職業」になりえなかった時代です。ましてや共産主義の国チェコ・スロヴァキアではエミールはそればかりをしているわけにはいかず,職業的には軍人として体育教官となります。国際大会に勝つたびに軍人ザトペックの階級は昇進していきますが,国際的なスポーツヒーローとして派手な生活ができるわけはなく,同じく陸上選手(やり投げ。60年ローマオリンピックのゴールドメダリスト)の妻とたいへんつましい生活を送っています。エミール・ザトペックの頂点は52年ヘルシンキ・オリンピックでの,長距離3種目(5000メートル,10000メートル,マラソン)での金メダルです。こんなことは後にも先にも誰にもできるわけのないことでしょう。
 しかしいくら勝っても,共産主義チェコはこの国際チャンピオンをことさらに重要視しようとはしないのです。個人タイトルというのは共産主義の理想とは異なるものだからかもしれません。建設途中の貧しく小さな国は,エミールの遠征費をしぶり,むしろ早く落ち目になって勝たなくなってくれた方がいい,と願っていたかのようです。とりわけ当時の共産圏は西側世界との接触に神経質で,エミールが西側でスター化することを嫌い,エミールが西側からさまざまな影響を受けることを恐れていたのです。そのせいだけでなく,エミール自身も走ること以外にあまり興味がなく,西側のこともあまり知らないのです。
 そういう時に,パリ滞在中のエミールにチェコ・スロヴァキア共産党の指導下にある地方新聞がインタヴューします。「同志ザトペック,パリの印象について語ってくれたまえ」。エミールはあまりそんなことを考えたことがないので,しどろもどろの答をします。「いや,パリはあまり見るべきものがないね。そりゃあピガールは悪くない。女たちもきれいだ。新聞に出ている女たちでもとてもきれいだ。それからもちろん,ワインもいいね。それとこの国ではたくさん店があるんだ。こんなにたくさんの店,僕は見たことないね。どこまでも店だらけだ」と答えます。このインタヴューがどんなふうにチェコの新聞記事になったか : 「ザトペック,パリの幻滅を語る。パリには下品な新聞雑誌があふれ,売春婦とエロ写真に飾られた町がある。市民の心はその奥深くまで商業主義や販売競争で蝕まれている」!!!。 数日後,フランス外務省はコミュニケを発表し,この新聞での「ザトペック氏のパリとフランスを侮辱する発言により,フランス国は今後同氏のフランス入国を拒否する」ということになるんですね。

 いつしかエミールは人間機関車と呼ばれるようになります。この呼び名はエシュノーズによるとその名「ザトペック」に負うところが大きいのです。 Zatopek。Za - to - pek。これを小説の93頁めはこう解説します。

このザトペックという名前はただの名前だがとても奇妙な名前で,有無を言わさず3つの音節が動的で機械的な音を立て始め,それは過酷な3拍子であり,馬の駆け足の音,タービンの唸り音,連結棒やバルブのカチカチいう音,それは[k]という音で区切れるが,すぐさま[z]がまたやってくる。それは最初に[zzz]と音を立てるが,あたかもこの子音がスターターであるかのように,この後はすぐに速度が上がる。おまけにこの機械は流体のように響くファーストネーム(エミール)によって潤滑される。ザトペックというエンジンにはエミールという潤滑油がつきものなのだ。

 拙い訳でごめんなさいね。原文はとても面白いことを書いているのに。「ザ・ト・ペック」は耳にそのまま3拍子の機械音で,「エミール」はオイルのように聞こえるように潤滑油なのだ,という詩的で文学的な解釈です。わかってくださいな...。ずずず・・・ざっ・・・とっ・・・ぺっく・・・ざっ・・とっ・・ぺっく・・ざっ・とっ・ぺっく・ざっとっぺっく・ざとぺっ・ざとぺっ・ざとぺざとぺざとぺざとぺ......

 この小説の名調子は,国際陸上の偉大なチャンピオンなのに,どこにでもいそうな男に描かれ,あまり感情をあらわにしない朴訥な青年であるのに,ときどき「むっ」と来るところなのです。このことをル・モンド紙のパトリック・ケシシアンはこの小説の書評で "Idiosyncrasie"(イディオサンクラジー)という難しい言葉で説明していて,それは個体が持っている衝動的な反応で,それが意図せぬ結果となる場合があります。例えばエミールは,貧乏国チェコが予算がないために国際大会に参加するのでも,交通手段も最低,宿泊も最低(時には野宿もします)の状態で,疲労困憊の態で競技に出場し,それでも前を走る選手の態度に「むっ」と来て,勝ってしまうのです。それからもう落ち目でもう上位を望めない状態になった頃,パリのオルリー空港に着き,たくさんの記者団が待ち受けていると思ったら,自分のためではなく,同じ時間に別地から到着したエリザベス・テイラーのためであり,自分の前からひとりの新聞記者もいなくなってしまったのに「むっ」と来ます。翌日エミールは大方の予想を裏切って,見事1位になってしまうのです。

 競技から引退して,普通の人に戻ったエミールは,1968年「プラハの春」にドプチェクの自由化政策に賛同して,有名な「二千語宣言」に署名し,ソ連の戦車によるプラハ制圧の時に壇上に昇り即興で演説してソ連に「オリンピック停戦」を求めたりしています。その結果,何百万という自由化支持者たちと同じように逮捕され,身分を剥奪され,職を追われ,6年間に渡って「修正主義者矯正」の強制労働をさせられ,過疎地のウラン鉱山の鉱夫となります。伝説ではその後,プラハに移送され,プラハでゴミ清掃トラックに伴走するゴミ収集夫となります。この小説ではプラハ市民はかつての陸上ヒーロー,ザトペックの顔を忘れるはずがなく,毎朝プラハの通りをゴミトラックを追って走っていくザトペックに拍手の嵐が起こった,と書いています。

 もうあまりの名調子で,あっと言う間に読める140頁です。スポーツ伝記のような,どこの大会でどんな風にして誰を破ったとか,そういうのはあまり重視されていません。型破りの走り方と超人的な記録と金メダルを残した人物なのに,それを中心にしないで,まるでフツーっぽい朴訥人間の物語です。それだけでもすごいのです。そして,今日,人間はもう機関車のようには走らないのです。ロボットのように走るのです。


JEAN ECHENOZ "COURIR"
(EDITIONS DE MINUIT刊 2008年10月。142頁。13.50ユーロ)




PS 1 (10月24日)
1952年ヘルシンキ・オリンピックのザトペックの映像がYouTubeにありました。5000メートル,10000メートル,マラソンの3種目金メダルの映像です。すごいなあ...。

2008年10月15日水曜日

Everybody's got a hungry heart



 J.M.G. LE CLEZIO "RITOURNELLE DE LA FAIM"
 J.M.G. ル・クレジオ『飢餓のリトルネロ』


 リトルネロ(仏語では ritournelleリトゥルネル)はそのイタリア語が示すように音楽用語で「歌曲・舞曲の前後に反復される器楽部。リフレイン」という意味から,現代哲学用語にまでなっていて「折り返し,反復」としてフェリックス・ガタリ&ジル・ドゥルーズの重要概念となっています。
 この小説ではラヴェルの「ボレロ」が重要なカギとなっていて,その特徴も反復にあります。
 また冒頭のエピグラフにル・クレジオはアルチュール・ランボーの詩「飢餓の祭り Fêtes de la faim」を引用していて,土や石を喰らう飢餓のリフレインがあります。
 ル・クレジオは1940年生れです。第二次大戦時の子です。小説の序章で(たぶんル・クレジオ自身と解釈してもいい)話者の戦争終了時の飢えの体験が語られます。「私は飢えを知っている」とその文章は始まります。アメリカ進駐軍のトラックを追いかけて,夢中になってチューインガムや乾パンを拾った子供たちのひとりだったのです。オイル・サーディンの缶詰の油をなめて動物性タンパク質を補給したという育ち盛り(4-5歳)の子供でした。飢えの何たるかを体験して,それから抜け出した人間だからこの小説が書けたのだ,という重い前置きです。
 小説は1930年代から40年代のフランスが背景です。主人公の少女の名前はエテルと言い,モーリシャス島出身の裕福な父母(アレクサンドルとジュスティーヌ)のひとり娘で,パリ15区に住んでリセに通っています。問題は父母の夫婦仲はもうずいぶん前から壊れていて,公然と父の情人(モード)が家庭に入り込んでいて,父母の不仲と絶えない口論を目の当たりに見て育ったエテルは父母を疎み,大叔父のソリマン氏になついて育ちます。ソリマン氏は教養人にして世界文化に造詣が深く,エテルにその知識やコレクションをすべて伝授しようとします。そして彼の趣味を結晶させた建造物「ラ・メゾン・モーヴ」(薄紫の家)を設計し,完成したらエテルがこれを相続することになっていました。
 エテルはリセでゼニアという少女と親友になります。ロシア革命によって国を追われた旧貴族の娘で,父は逃げる途中で赤軍に殺され,母と姉妹と共にヨーロッパを転々とし,パリにたどり着き,極貧の状態で生きています。物乞いまがいのことまでしないと生きていけないゼニアは,素晴らしい美貌の持主で,人生を知り尽くしたような射るような目をしています。すべてに恵まれたエテルとすべてに困窮しているゼニアはそれでも厚い友情に結ばれていきます。二人がパリを散策する時に,その出発点の待ち合わせ場所にセーヌ川に浮かぶ中州「白鳥の遊歩道」が使われます。
 道楽金持ちのアレクサンドルは毎日曜日に親族やモーリシャス島出身の名士たちを集めてサロン昼食会を開きます。これをエテルはいたく嫌っているのですが家族として出席せざるをえない。真の教養人ソリマン氏はこの会に参加しません。ブルジョワの会話は世相や政治になると,共産主義の恐怖であるとか,イギリスの不干渉への嫌みとか,ヒトラーへのシンパシーやら反ユダヤ主義に傾いていくのが当たり前になってしまいます。その中でひとりの(モーリシャス島系)イギリス人の若者でユダヤ人のローランだけが,このサロンで果敢に反対意見を述べる人間で,エテルはやがてこの青年と恋に落ちます。
 ソリマン氏の夢の建造物の着工を待たず,氏は病いに倒れ,氏の遺志にも関わらず,未成年のエテルはその計画および遺産を相続することが出来ず,父のアレクサンドルが代理相続します。ここからエテル一家の不幸は始まり,アレクサンドルが建造物の工事計画の管理を任せた「日曜サロン」の常連二人(戦時に乗じて,権力に通じてユダヤ人財産などを没収管理できる地位になった)によって,ソリマン氏の遺産だけでなく,エテル一家の財産もすべて騙し取られることになります。
 戦争,ドイツによる占領,ユダヤ人狩り,財産没収,食糧難...。病気になってしまったアレクサンドルを連れて,ジュスティーヌとエテルはパリを捨てて,南仏ニースに移住します。そこで彼女たちは,パリよりももっと極端な食糧難を耐え忍ばなければならなかったのです。バラバラだった一家は極貧の中で三人家族の絆を強くしていきます。わがまま妻/母であったジュスティーヌはここで献身的な一家の柱として変身します。そしてニースで偶然その所在がわかった夫の元情人モードは,ボロボロになって建物の地下階に猫と共に生きていました。エテルとジュスティーヌは過去を捨てて,このモードにまで救いの手を差し伸べるのです。

 もうすべてのものが尽きるというところで,ドイツ軍は占領地を捨てて敗走して行きます。地中海から連合軍が上陸し,南仏は解放されます。アメリカ軍のトラックがチューインガムや乾パンやコーンドビーフやスパム(ランチョンミート)の缶詰を配給していきます。ル・クレジオに残っている鮮烈な飢えの記憶は,この時の真っ白な食パンなのでした。これは極端な飢えの味覚なのです。
 英軍と共にノルマンディー側から上陸してパリに入ったローランは,エテルを探して南仏まで降りてきます。二人は無事に再会し,パリで結婚し,カナダで新生活を始めることになっています。
 ハネムーンの代わりに解放されたパリを何日もかけて散策する二人は,かつてのゼニアとの待ち合わせ場所「白鳥の散歩道」にも行くのですが,ローランは強烈な生理的嫌悪感に襲われます。なぜならその中州のすぐ近くに「ヴェル・ディヴ」(屋内競輪場。パリのユダヤ人一斉検挙の収容所として使われ,そこからドランシー駅に移送されアウシュヴィッツ行きの貨車に乗せられた)があり,ローランの叔母もその被害者であったからです。小説の本筋には付帯的であるとは言え,ル・クレジオはこのユダヤ人一斉検挙にかなりの行数を割いています。すべては戦争という状況があらゆるものを極端でウルトラなものにしてしまうのですが,人間性の上方から下方の裏側までを表現するという理由でノーベル賞を獲得したル・クレジオが書くと,この極端がわなわなと震えているようです。ルイ・フェルディナン・セリーヌの名前を出して,時代のコラボ風潮を唾棄するパッセージもあります。
 そのパリでエテルはゼニアとも再会します。ゼニアは結婚して服飾デザイナーとして成功して,ニューヨークにも自分のブランドを進出させるプロジェクトがあると言います。極貧からその成功の地位まで昇っていったゼニアと,ブルジョワから飢餓の最果てまで落ちていったエテルは,正反対に交差する道を駆け足で進んでいたわけです。この再会で友情は復活しませんが,二人は同じように青春の日々に別れを告げるのです。
 この小説の奇妙なところは,エテルとゼニア,エテルとローラン,というふたつの重要な関係が,いずれも熱愛ではないのです。距離があります。それは最終的に和解することになる父母のアレクサンドルとジュスティーヌにも言えます。飢えから人間を救うものは熱愛ではない,というリアリズムのようにも読みました。その情動を絶対に極度にあらわにすることのないエテルの生き方こそ,飢えから私たちを救うものに思えるのです。

 ラヴェルの『ボレロ』は二つの旋律の繰り返しです。1928年の初演の時,速度をどんどん早めながらクレッシェンドの最高潮で終わるこの曲の混沌的な終わりは,一方で大喝采を呼び,一方でブーイングを巻き起こしました。どちらの側も総立ちです。「『ボレロ』はただの楽曲ではない。これはひとつの予言であった。これは怒りと飢えを物語っている。それが凶暴のうちに終わる時,それに続く静寂はあっけにとられた残存者には恐ろしいものとなる」(P206)。これで予言された戦争は,エテルの世代には『ボレロ』のテンポと旋律でやってきたのでしょう。それは繰り返し,反復,リトルネロであるのです。
 

J.M.G. LE CLEZIO "RITOURNELLE DE LA FAIM"
(GALLIMARD刊 2008年10月3日。206頁。18ユーロ)



PS 1 (10月16日)
タイトルの出典はブルース・スプリングスティーンなんですが,こういうことって説明しなければいけないでしょうか?
Hungry Heart, Paris 85このYou Tube 画像では,ボス自身がフランス語で "Fantastique !"と叫んでます。いい絵ですねえ。これは実はパリではなくて,北郊外ラ・クールヌーヴの野外公園(共産党のユマニテ祭が開かれるワーキングクラスゆかりの地です)での85年6月29日のライヴです。DVDが出ています。

2008年10月14日火曜日

セルロイドの30年



 10月13日,パリ20区にある高名な録音スタジオ「スチュディオ・ダヴート」(ローリング・ストーンズ,プリンス,マイルス・デイヴィス,カール=ハインツ・シュトックハウゼン...)で,『セルロイドの30周年』パーティーがあり,コラ・ジャズ・トリオ(写真),ホアン・カルロス・カサレスなどのライヴもあって,良いワイン,良いおつまみ,良い知人たちとの再会...たいへん楽しい一夜でした。この最後に挙げた「良い知人たちとの再会」というのが一番ジ〜ンと来るのですが,セルロイドというレコード・レーベルの母体だったMELODIEという配給会社が4年前に倒産して,働いていた人たちはみんな散り散りになっていたのに,この夜はほとんどの人が集まってきてくれたのですね。
 レコードCD会社の倒産なんかこの数年たくさん見てきましたし,倒産しなくても人減らしで消えて行った人たちもたくさんいます。私自身も同じ時期に4人もの社員を解雇してきた過去があります。したくてしたわけではないとは言っても,解雇された側はそうは思ってくれず,その後数ヶ月で連絡が途絶え,私は元スタッフの行く末を知らないのです。ところが昨夜のMELODIE の元社員たちは,同窓会のノリでみんな集まってきて,「おまえ何してる?」「俺3人目の子供ができた」みたいな会話なんですね。それを元社長は,良かった良かったと目を細めて見ている,なんていう美しい図でした。
 古い考えでしょうが,会社は大きな家族,みたいな中小企業が好きです。社長は親父さんで,社員ひとりひとりを良く知っているような会社ですね。昔はそんなに珍しくなかったはずなんですが,そういう会社って21世紀的現在に生きて行くのが難しいのでしょうか。
 音楽の仕事をする,というのは何も特権的なことではありません。この会社に集まってきた人たちは,営業にしろ事務にしろ倉庫の肉体労働組にしろ,みんな共通して「音楽の仕事をする」ということに何かを感じていたのだと思います。音楽が引き寄せる何かがあって,みんな仕事できたんだと思います。私は倒産前はこの会社にほとんど週1回顔を出しておりました。行く度に倉庫の若い衆が新手の冗談で迎えてくれるような会社でした。昨夜はそのたくさんの顔と再会できました。この夜は音楽があったからみんな集まってきたんだと,妙に納得したりして...。

2008年10月9日木曜日

永遠に旅するル・クレジ王



 きのう新刊の "Ritournelle de la faim"を買ったばかりでした。メトロの中で一気に40頁読めたので,この分ではこの週末に「新刊を読む」のエントリーができるのではないかな,と思っておりました。
 私より少し上の世代はカミュやサルトルがきっかけでフランス語始めた人たちがずいぶんいたと思います。私たちはその次世代で,そのヒーローのひとりが彼でした。ル・クレジオの小説の邦訳が出始めたのは私が高校生の頃でした。『調書』『大洪水』『砂漠』『物質的恍惚』...。高校2年くらいでこんなのにぶつかったら,そりゃあ,あんた,ショックですよ。豊崎光一はル・クレジオの訳者というだけで,一挙に仏文界のスター教授になってしまいましたし。70年代前半,日本の仏文科生はル・クレジオに夢中でした。異星から来たイメージはデヴィッド・ボウイーのようでもありました。するどい顔してましたし。『調書』は23歳の時の作品でした。
 中南米やアフリカやアジア...世界中に居場所を持っている人で,日本にもよく行ってます。フランスではインタヴューなどにほとんど出て来なくて,謎めいた作家になっていました。初期の頃のイメージから「難解」と言われていますが,80年代頃からわくわくするようなストーリーテラーに変身していて,「あのル・クレジオがこんなに物語していいのか」なんて思ったものです。
 エッセイを除いて,私はほとんどの小説を読んでいる,言わばファン読者です。私のように死ぬまでル・クレジオを読み続ける読者,世界にたくさんいるんですね。この10年くらい,もう万年ノーベル賞候補みたいにノミネートされていましたけど,10月9日,午後1時,「ジャン=マリー=ギュスタヴ・ル・クレジオ,ノーベル文学賞!」のニュースが,ストライキ中のラジオ局FIPから流れてきました。ストをも破る価値のあるニュースと判断したFIPの人,いいなあ,その感じ,世界大恐慌なんてこのニュースに比べたら何でもないさ。
 ノーベル賞選考委員会のコミュニケにはこうあります:

 «écrivain de la rupture, de l’aventure poétique et de l’extase sensuelle, l’explorateur d’une humanité au-delà et en-dessous de la civilisation régnante»

 「断絶と詩的冒険と官能的恍惚の作家にして,今日支配的な文明の向こう側および下方側に生きる人間世界の探検家」

 うまいこと言いますねえ。ル・クレジオ68歳。まだまだ書きますよ。とりあえずうれしいニュース。"Ritournelle de la faim"は近日中に当ブログで。ご期待ください。

(← 昨今はこんな柔和な表情にもなる)

2008年10月6日月曜日

今朝の爺の窓(2008年10月)



 去年の10月からの『今朝の爺の窓』,今回で一巡です。
 寒くなりました。昨日の日曜日はここから2キロほど下流のセーヌ右岸にあるロンシャン競馬場で「凱旋門賞」がありましたし,そこからさらに1キロほど下流のセーヌ左岸の町シュレーヌでは「ぶどう収穫祭」が開かれましたが,雨風が強くたいへんだったでしょう。
 ポプラの葉は黄色に,マロニエの葉は茶色に,毎年見慣れた秋の風景ですが,日本の秋の楓やもみじの赤い色があればなあ,と無いものねだりをしてみたり。これから11月に向かってさらに茶色になって葉がどんどん落ちていきます。
 今月はこれからこのブログで何をしようかな、と考えてます。読みかけのオリヴィエ・ロラン、読みたいジャン・エシュノーズ、多分読んでもしかたがないベルナール=アンリ・レヴィ+ミッシェル・ウーエルベックみたいなものが新刊紹介になると思います。映画は娘が「フォーブール36」(『レ・コリスト』の監督の新作です)をこの週末に見たいと言ってるので...。私は今見たい映画は『セラフィーヌ(Séraphine)』だけです。音楽はスーション新譜だけが気がかりですが、これは11月末になりそうです。今月のライヴは13日にコラ・ジャズ・トリオ、18日にレ・プリミティフ・デュ・フュチュールに行きます。
 というわけで、いろいろ書くことは出てきそうです。なによりです。


PS 1(10月11日)
今朝はこんな濃霧でした。世界経済の行方のようです。


PS 2(10月18日)
今朝はとても良い色だったのでもう1枚写真を追加しました。マロニエの葉は茶色にしかならないのですが,今年は例年よりも「赤み」が増している感じです。手前のポプラもずいぶん葉が落ちて,セーヌ川がだんだん見えるようになりました。ブログのテンプレートも昨日変えて,ちょっと秋らしくしてみました。落葉の上のドミノ師もいい感じです。

2008年10月3日金曜日

今朝のフランス語「ラ・レッセシオン」



 (←)ジャガイモしか食卓に出ないという図。これがフランスにおける「不景気」「困窮」のイメージなのでしょうか。ジャガイモっておいしいし、今ではそんなに安くもない。つい数週間前のオヴニー(パリの日本語新聞=フリー・ペーパーで、友人の佐藤真さんが編集長をしている)でもジャガイモ特集があって、世界各国風のジャガイモの食べ方をしたらものすごい数のヴァラエティーがあるように書いてました。フライド・ポテトやチップスにしてもずいぶん種類ありますよね。
 今から40数年前、青森という土地で私はまじめな小学校児童でした。算数の授業の時に先生(女性)が、この問題はものすご〜く難しいから、きみたちに解けるわけがない、という挑戦じみた問題を出しました。もしもこの問題が解けたら、できた子に先生は何万円もあげてもいい、とまで言われました。私は奮起して、この問題を解きました。黒板の前に行き、自信なさげではありましたが、計算を黒板にチョークで書き...これで正解ですか?と先生に問いました。先生はこの子たちには絶対できるわけがない、という自信ががくがくと崩れ、まさか、おまえにこれが解けるとは...という顔をして青ざめました。うううう...、それで正解だよ、と敗北を認める先生の小さな声に、教室はどおおっと沸き立ち、歓声が起こりました。私はその時クラスのヒーローでした。おおお、先生を負けさせることができる子だ、とみんな私を尊敬して見ました。そして約束の何万円ももらえるのだ、と。先生は負けを認め、明日約束のものは必ず渡すから...と。
 翌朝、先生はみんなの前で、私を呼びつけ、約束のものだから、と私に紙袋をひとつ。その紙袋には土のついたジャガイモがひとつ入っていました。「先生、これは一体何ですか?」と私は聞きました。先生は突然に津軽イントネーションになって、こう言いました。「生イモ」。先生はきのうきみに「ナンマインモ」あげると言ったでしょう。だから約束通り、ナンマインモ持ってきたのよ、と。
 この話は、私は子供心にとってもショックだったのです。何万円ももらえると思った私に、生のジャガイモが一個。思い返せば、私はこの時からまじめな小学生をやめたのです。

 この時からたしかに私の頭の中でもジャガイモというのは、ディズニーのシンデレラの動画みたいに、金銀財宝が真夜中12時に魔法が溶けて、何の価値もないものに戻ってしまうもの、というイメージになってしまいました。貧乏のイメージではなく、価値のないもの、という感じでした。生イモですから。

 フランス政府は今朝、この言葉は絶対に言わないでおこうね、という類いの避けたい言葉を言わなければならない状況になってしまいました。"La Récession"(ラ・レッセシオン)。これは国民を大パニックに陥られる可能性のある言葉だからです。重大で衝撃的な言葉です。ラジオでは"gros mot"(グロ・モ。本来は卑語や隠語の意味ですが、この場合は口にしたら公序良俗が紊乱される言葉、というニュアンスでしょうか)と評しているところもありました。

 récession (女性名詞)[経]景気後退
 (スタンダード仏和辞典)


 フランスは今朝から国が認めた「景気後退」状態になったわけです。それまではこういうダイレクトな単語は使わずに、やんわりソフトに「成長鈍化」とか「景気の足踏み状態」とか、悪くても「ゼロ成長」ぐらいの表現に留まっていたのに、今朝からフランスははっきりと「後退」つまり「低下」「不況」「マイナス」を認めるようになったのです。
 たぶんこの冬、一般市民はヴァカンスに出ないでしょう。食卓にはジャガイモしか出てこないでしょう。何万円稼いでも、この程度しか食べられないでしょう。
 この状態が続くと、何が起こるのでしょう? 革命です。冗談じゃなくてイモしか食べられない人たちが本当に多いのです、この国は。経済成長と購買力増大を約束して当選した大統領は、ジャガイモの値段を知っているでしょうか。何万円もする料理しか食べていない人たちには、「景気後退」という意味すらわからないことかもしれません。もういい。いいもう。

2008年10月1日水曜日

アブダ仏如来



 アブダル・マリック『ダンテ』
 Abd Al Malik "Dante"


 ダンテの「神曲」はオック語で書かれたということになっています。クロード・シクルが言っていました。ダンテの頃は欧州全土の知識人の間での共通語がオック語であったそうです。ちょっと関係ないイントロですみません。
 アブダル・マリックの3枚目のアルバムです。前作『ジブラルタル』は25万枚を売りまして,日本盤も出たので聞いた方も多いと思います。もうほとんどジャック・ブレルの歌を聞くような,シャンソンの最良にエモーショナルな部分を,言葉とバックトラックとアブダル・マリックの声の力で圧倒的に表現したスラム・アルバムでした。もうスラムというジャンルなんかどうでもいい,人間の器の大きさが勝ってました。
 前作もでかい顔(イースター島の巨石顔像のよう)でしたが,この『ダンテ』のジャケの顔もすごいですよね。頭部から額そして鼻梁へ,一筋の光がすっと降りてます。くっきりとした深い線の入ったまぶた,その下にある目をじっと見ると,なんでも言うことをきかなければならないような気になってきませんか。おまけに背後に鏡モザイクで光環ができてますし。なんて神々しい...。なんまんだぶ,なんまんだぶ...。
 前作に続いて,ブレルのピアニスト,ジェラール・ジュアネスト(ジュリエット・グレコの夫)がピアノ,作曲(一部),編曲でシャンソン的なるものをいっぱい運んできます。エレクトロでグルーヴな部分はビラル(作曲)がいっぱい運んできます。ジャズ的なるものはレジス・セカレリ(高名なドラマーの息子です)がもたらします。そしてアーリー・シクスティーズな雰囲気は,アラン・ゴラゲール(初期ゲンズブールの編曲者/バンドマスター)がもたらします。
 これらのメンツ(オケ)が録音スタジオに集まって,ジュアネストのピアノ,アブダル・マリックの声,全部まとめて一斉にダイレクト録音です。これがほとんどの曲が2テイク録らなくてもいいような,奇跡的な恩寵のパフォーマンスであったそうです。天使が降りてきたんでしょうね。
 なにか,とても神を感じさせる雰囲気です。
 11月3日リリースで,音サンプルが3曲("C'est du lourd", "Le faqir", "Paris Mais")しか届いていないのに,アルバム全体を評するのは危険でしょうが,3曲で膝ががくがく状態です。この声は人を動かしてしまわずにはおかない,ものすごい霊力があるのだと思います。
 リリース後全曲聞いてから,またこの項書き直しましょう。

<<< トラックリスト >>>
1. Roméo et Juliette featuring Juliette Gréco -
2. Gilles écoute un disque de rap et fond en larmes -
3. Paris Mais… featuring Wallen -
4. Circule petit, circule -
5. Lorsqu’ils éssayèrent -
6. Césaire (Brazzaville Oujda) -
7. C’est du lourd ! -
8. La marseillais -
9. Le faqir -
10. Conte alsacien -
11. Raconte-moi Madagh -
12. HLM Tango -
13. Noces à Grenelle

ABD AL MALIK "DANTE"
CD POLYDOR (Universal France) 5312795
フランスでのリリース:2008年11月3日




PS 1
アブダル・マリックのオフィシャル・サイトで,アルバムからのファーストシングル "C'est du lourd!"を聞くことができます。
アブダル・マリックのマイスペースでも"C'est du lourd!"だけが公開されています。
この抒情のストリングスとセンチメンタルな旋律に乗っかって,賢者の辻説教のような語り口で,善悪のこと,貧困の現実と理想のギャップ,サルコあてこすりの結論部までを一気に吟じてしまうのですね。すごいなあ...。

PS 2 (10月23日)
アブダル・マリック新シングル"C'est du lourd!"のヴィデオクリップがデイリーモーションで公開されています。