2007年11月28日水曜日

フレッド・シシャン



 大好きだったから,あの本にも2曲について書いたのでした。
 今夏の(わが家対岸)ロック・アン・セーヌのフェスティヴァルだって,ビヨークなんかどうでもよくて,数年ぶりでレ・リタのステージを見ることだけが楽しみだったのでした。作曲者/ギタリストと言ったって,リード取るわけじゃなくて,生ギターをコードでジャラジャラ弾いているだけですが,それだけでも絵になる人っているじゃないですか。この夏,フレッドはずっと奥の方で大人しくしていましたね。
 病気とは聞いていて,コンサートがずいぶんキャンセルになっていたし...。
 フレッド・シシャンが今朝,ガンで死んでしまいました。53歳。合掌。セ・コム・サ....

2007年11月25日日曜日

マイ・ベイビー、ベイビー....



 バルバラ10周忌の日。
 テレビのニュースやラジオの特番を見たり聞いたりで、それだけでこみ上げてくるものがあります。このアーチストに関しては書きたいことがたくさんある、そんな思いがどんどんふくらんでいきます。
 バルバラに関して、日本の雑誌に書かせて欲しいと提案したのが、11月19日。翌々日、その件は上部に決定を仰ぐので待て、との返事。それでもこの命日が近づくにつれて気持ちが昂って、23日に再びメールしたら、そのあとで日本は三連休なのだと知って、ああ答えは来ないのだ、と納得。
 リベラシオン紙ではリュドヴィック・ペロンが非常に簡潔で卓抜な筆致で、死後の評価の変容ぶりを書いています。嫉妬します。バルバラはインタヴューでは多くを語りません。ですから、続々出た評伝本(ヴァレリー・ルウー、ディディエ・ヴァロ...)と自伝本"Il etait un piano"が、このアーチストを知る上での多くの手がかりを提出しています。バルバラには父親から受けた体罰の痕とされる骨格畸形や、やけどあとがあったという証言は死後でなければ出てこなかったのです。
 34歳で初めて自作自演歌手となったバルバラは、過去ばかりを歌うアーチストでした。笑い、おどけ、客を笑わせるショー・ウーマンであった彼女は、コンサート毎に45分から1時間のアンコール演奏を求められ、その熱狂はコンサート後の地下鉄の車両での客の歌うバルバラのレパートリーの大合唱となって続くのです。一体この怪物は何者なのか。「私は歌手ではなく、歌うピアノ弾き」と自称します。この震える声の持主は一体誰なのか。私にはそのすべてを知る由はありません。ただ、知っていることは少しはあるので、少し長々と書いてみたいと思っているのです。バルバラへの思いはいつも切ないです。

2007年11月22日木曜日

待ってましたと目に涙



 11月21日、国営TVフランス2、20時50分。フランス・ギャルが16人のゲストアーチストにミッシェル・ベルジェのレパートリーを歌わせるという「TVショー」を準備するという趣向の特番がありました。いわば演出された「メイキング・オブ」を「完成番組」として見せ、その楽屋裏のフランス・ギャルとゲストアーチストたちのやりとりが見物なわけですね。ジョニー・アリデイ、セリーヌ・ディオン、フランソワーズ・アルディ、ヴァネッサ・パラディ&マチュー・シェディド、ルイ・シェディド+ローラン・ヴールズィ+アラン・シャンフォール+ミッシェル・ジョナス、クリストフなどの古顔に加えて、若いところではクリストフ・マエ、クリストフ・ウィレム、テテ,レスリー、アメル・ベント...それからディアムスも出ました。
 そういう人たちがベルジェを歌うのを見ながら、またうしろで流れるベルジェのヴィデオ画像を見ながら、フランス・ギャル様は始終目をうるませていたのでした。そのうるうる目のフランス・ギャルを見せるために制作されたような番組ですから。気になったのは、ゲストとの対話のときに、フランス・ギャルの質問や受け答えが、ゲストの発言と噛み合ないことしきり。それを編集サイドがぶちぶち切っちゃったのでしょうが、全然対話になっていない(特にフランソワーズ・アルディ相手の時)のもありました。
 ご自分の若い時のヴィデオは部分部分で挿入されますが、ご自身は歌いません。坐って、目をうるうるさせて見ているだけ。婆様の図ですね。それはそれでファンにはありがたいものでしょうが。

2007年11月17日土曜日

スタン誕生



 スタニスラス『綱渡りの歌』
 STANISLAS "L'EQUILIBRE INSTABLE"


 世のすべてのロマンティスト諸姉諸兄のみなさん、春夏秋冬の風の香の移りを頬に受けただけで涙してしまうセンシブルな同志のみなさん、喜びたまへ。両の腕を大きくひろげて迎えたまへ。
 スタンはあなたたちのためにやってきた。スタンは爺のためにやってきた。
 ありがたや。ありがたや。神よ祝福されてあれ。
 すべてのポルナレフィアンたち、すべてのマッカートニストたち、驚愕せよ。
 スタンは疾風怒濤の海からやってきた。ほせい体躯のポセイドン、昼のごはんは鶏丼だ。

 スタニスラス・ルヌーは1972年のある日あるところで生まれた。海の底かもしれない。3歳でソルフェージュを始め、あらゆる楽器を触りまくった。12歳でパリ・オペラ座(ガルニエ宮)で少年オペラ歌手として初舞台を踏んでいて、「マクベス」(ヴェルディ)と「トスカ」(プッチーニ)にソロ役を取り、共演者のひとりルチアーノ・パヴァロッティはこの少年をして「プチ・テノール」(チビ低能)とあだ名して可愛がった。そして「トスカ」の最終公演のあと、オペラ・ガルニエ管弦楽団の指揮者ジェームス・コロンから、その成功の記念に指揮棒をいただいた。これが引導となって、スタン少年はパリの西郊外シュレンヌのコンセルヴァトワールを経て、ボストンのバークレー音楽院、さらに19歳でパリ音楽師範校の指揮科に入り、その3年後にはマッシー管弦楽団の指揮者ドミニク・ルイツの助手の地位を得て同学校を卒業している。今日スタニスラスは師匠ルイツの座を継ぎ、マッシー管弦楽団の常任指揮者となっていて、同時にパリ音楽師範校の指揮科教授である。つまりクラシック音楽のマエストロの王道をまっしぐらだったわけである。
 それと平行して、かくれロック・フリークでもあったスタンはバンドを組んだり、ロックバンドのセッションにキーボディストとして参加したり、というフツーの若者っぽいこともしていた。またマッシーの指揮者となってからも、カロジェロ、パスカル・オビスポ、セリーヌ・ディオン、クール・シェン(ex NTM)などのストリングス編曲・指揮の仕事もしていて、ヴァリエテ界と通じていた。
 カロジェロがアイドル小僧であったのはレ・チャーツ(Les Charts)というポップ・トリオ(カロジェロとジョアキノのマウリッシ兄弟と、そのダチのフランシス)にいた時であるが、そのカロジェロの弟であるジョアキノ・マウリッシとスタニスラス・ルヌーは2000年にピュア・オーケストラ(Pure Orchestra)というエレクトロ・ポップのデュオを組んでいて、2001年に"Singin' Dog"(Universal France 5868072)というアルバムを発表している。まあ爺がちょっと聞いた感じではモジョみたいな(英語歌詞)フレンチ・タッチ・エレクトロ・ポップであったが、目立たない結果に終わったようである。(シングルヒットした"U and I"は一聴の価値あり)。
Pure Orchestra
 ちょっとがっかりしたのは、スタンの兄にチボー(Thibaud)というフォーク・ポップ系の自作自演歌手がいて、ルヌー兄弟は2004年にチボー名義のソロアルバム "Les Pas Perdus"(消えた足跡)というアルバムを発表している(CD化はされず、ネット上のダウンロードのみ)。ルーファス・ウェインライト寄りのヴァリエテ・フォークのように聞こえる。 
Thibaud "Les Pas Perdus"
 このようにヴァリエテ界での仕事も多くしているので、オフィシャルのバイオグラフィーが書いているような、クラシック界の若き俊才が突然にポップ界に「天下り」したような転身劇ではない。ヴァリエテ界でかなり苦労した末でのスタニスラス・ルヌーのソロ・デビューであり、この実像の方が爺にはしっくりくる。昔の人はクロート(玄人)を「苦労徒」と当て字して、その匠は一日にしてなるものではないことを寓意したものであるが、スタンは玄人であり、天使や王子様ではなく、苦しみながら海の底からのぼってきたポセイドンである。

 スタニスラス『L'equilibre instable(あやうい平衡、不安定な均衡)』は、高久光雄さんの表現を借りれば「美しきロマンの復活」(これはナレフ様1978年アルバム"Coucou me revoilou"の日本題)とでも称したい、久しく聞くことができなかったロマン主義志向のアルバムである。鳥の飛翔に嫉妬し、風の行方に遠い国を想い、花の香に涙ぐみ、木漏れ陽に目を閉じて万華鏡を楽しむ....そういう人たちが待望していたアルバムに違いない。だから爺も待望していた。
 スタンが長年の研鑽の上に身につけたクラシック・オーケストラの魔術を駆使し、細やかな叙情表現はお得意のアートであり、そのあたりはかつてのイージーリスニング楽団をサンプルしたフレンチ・タッチDJたちとは格が違うのである。弦の震えはこういう風に聞こえて欲しい。ここでカスタネット、という時に入ってくれるカスタネット、ロマンの人たちならば予知できる音が出てくる不思議。21世紀的環境で生きる爺たちに、ああ、まだこういう音で音楽が作れる人がいたのだ、という懐かしい安堵感。ありがっとう、スタン。
 シングルとしてラジオにオンエアされている第1曲め"Le Manege"は、このアルバムではフル・ヴァージョンの4分48秒だ。すごい。メカーノ「イホ・デ・ラ・ルーナ」以来、ポップ界で最も美しいワルツに違いないこのメリー・ゴーラウンド曲は、回転と上昇と下降に心地よい目眩をおこそう。スタンのヴォーカルは自然にオーケストラに溶けているソロ楽器であり、出るべき高音がそのノートに達してヴィブラートする人間のエモーションを伝えるリード楽器である。機械で作られたものとの違いを感じてほしい。
 2曲め"La belle de mai"(5月の美しい人)は、古典的な愛の儚さを歌う哀歌であるが、子供たち、かつては愛の儚さはたくさんの歌を生んだのだよ、と教えてあげたいくらい、昨今聞かれないテーマのエレジーで心が震える人も多いだろう。
 4曲め"La debacle des sentiments"(感情の激流)は、カロジェロ君(ベース、ギター、ヴォーカル)をフィーチャーした歌で、タイトルからして疾風怒濤の曲であってほしいのだけれどそうはいかず、ペリー・ブレイクの音処理にも似た、遠くに聞こえるピアノとカロ君の連打ベースが嵐の満ち引きのようで妙である。
 5曲め"Entre deux femmes"(二人の女性の間で)と6曲め"Ana quand bien meme"(それでもアナは)は、マッカートニー趣味がよくわかるしゃれたバラードとソフトロックで、5曲めの方ではフィリップ・ユミンスキーのこじゃれたギターが聞こえる。
 7曲め"Nouveau Big Bang"(新ビッグ・バン)は、アルバム中唯一の疾風怒濤もので、ストラヴィンスキー、バリー・ライアン「エロイーズ」、ポルナレフ「想い出のシンフォニー Dans la maison vide」系の展開であるが、劇団四季のミュージカルの一番の山場のようなわざとらしさが、どうも爺は苦手である。
 8曲め"L'absinthe pour l'absent"(不在者のためのアプサント酒)は、なんとゲンズブールへのオマージュのデカダンスものであるが、スタニスラスに欠けているのはこういう曲になくてはならない退廃文学趣味で、ジャン=ルイ・ミュラのように滲み出る毒のようなものが全くないのだ。スタンも万能ではない。
 11曲め"A d'autres"(他人には)は、雨降るロマン・ノワールのように始まるバロックな(音楽様式ではなく、異形な、という意味ね)佳曲で、謎(エニグマ)やチェス盤やコード番号が顔を出して、アルバムタイトルが示す不安定な世界が最もよく表現されている。
 12曲め"Memoire morte"(死んだ記憶)は、最初の最高音から徐々に降りて来る音階ヴォーカルから鳥肌ものの、消えていく記憶を追っていくドラマティックなバラードで、この透明な悲しみは追っても追っても追い切れないものに何度も何度も手を伸ばしていく。もうこうなると爺はぐじょぐじょだ。
 最終曲13曲め "L'hiver"(冬)はスタニスラスからのクリスマス・プレゼントのような曲で、アントニオ・ヴィヴァルディの『四季』の「冬」をベースにした冬讃歌。浮ついた季節が終わり冬は私を大地にもどしてくれる、光を待望する冬こそ私の季節、冬はすべての戦争を凍らせてくれる、と歌っている。「すべての緊急事を凍結させ、クリスマスの火を囲んで踊ろう、冬にきみの目は美しく輝く」ー なんて美しい結語。こんなすてきなクリスマス・ソングは、ルーチョ・ダッラ「ストルネロ」(1984 アルバム "Viaggi Organizzati")以来初めて聞いた。ヴィヴァルディとルーチョ・ダッラの言語で「ブオン・ナターレ!」とクリスマスを祝福したくなる曲だ。2007年の冬は、この歌で越せそうだ。

 綱わたり師のようにアンバランスで、軽やかに早足な35歳スタニスラス・ルヌーのデビューを心から祝福します。
 世界中のロマンティストたちのご意見をうかがいたいです。

<<< トラックリスト >>>
1. Le menage (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
2. La Belle de mai (Patrice Guirao/Stanislas Renoult)
3. Les lignes de ma main (Elodie Hesmes/Stanislas Renoult)
4. La debacle des sentiments (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
5. Entre deux femms (Julie d'Aime/Stanislas Renoult)
6. Ana quand bien meme (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
7. Nouveau Big Bang (Elodie Hesmes - Stanislas Renoult/Stanislas Renoult)
8. L'absinthe pour l'absent (Elodie Hesmes - Stanislas Renoult/Stanislas Renoult)
9. Le temps des roses (Elodie Hesmes/Stanislas Renoult)
10. L'age bete (Stanislas Renoult)
11. A d'autres (Fredric Doll/Stanislas Renoult)
12. Memoire morte (Amaury Salmon/Stanislas Renoult)
13. L'hiver (Stanislas Renoult/Stanislas Renoult - Antonio Vivaldi)

CD POLYDOR/UNIVERSAL FRANCE 5303542
フランスでのリリース : 2007年11月19日


 

 

2007年11月16日金曜日

交通ストライキ3日めの朝



 ← 2007年度のコンスタンタン賞はダフネのセカンドアルバム『カルマン』が取りました。これはまだ爺がインターネットサイトをやっていた時に最後の頃に紹介していました。日本盤(V2ミュージック)も出たようですが,日本のレコード会社はやはり彼らの感覚でジャケ・アートを変えてしまいました。業界の中の「日本で売るためにはこうでなければならない」というセオリーは90年代頃から猛威をふるって,オリジナルジャケットで出ないものがすごく多くなりました。どんなもんでしょうかねえ。ことフランスの作品に関しては,日本のレコード会社のイマジネーションがまず「女性受け」を考えてしまうようで,ファッション誌まがいの画像にしないと気がすまないような傾向がありますね。ところがそのイマジネーションによるパッケージングをはみだす力を持った作品の方が多いのではないかしらん。ダフネの『カルマン』はちゃんと聞いて欲しいです。ディオニゾスのバベッドの『奇妙な鳥』もね。2007年の女性の2枚です。この2枚だけで2007年は終わってもいいくらいです... なんていう思いでこの2枚を聞きながら,昨日はボージョレ・ヌーヴォーを飲みました。今年の味はfruit rougeだという見解で,三者(爺,タカコバー・ママ,セシル・カストール=未成年)のテイスティングは一致しました。

 11月16日,交通ストライキ3日めの朝。いつも娘を学校まで車で送っていく朝8時。ラジオでは「地下鉄は何本に1本の割」で運行するとは言うのだけれど,それが何を示すのかは,具体的に地下鉄のホームで待ったり,ぎゅうぎゅう詰めの車両の中でもまれたりしないとわからないと思います。きのうから急に気温が下がって,今朝はパリ圏でも零下のところがあったと聞きます。その中を重装備で自転車で移動する人たちも数多く見ます。
私はスト初日のおとといには,娘を学校に降ろしたあと,その前のバス停で待っていたたくさんの人たちに「コンコルドからバスチーユ方面に行く人はいませんか?」とco-voiturage (コ・ヴォワチュラージュ=乗用車相乗り)をプロポーズしました。ご婦人二人がよろこんで乗ってくれました。それで渋滞にも関わらず,道々いろんな話をしながら,道中を共にしたのですが,いいもんですね。ただこの二人とも,勤めに行く人ではなく私用移動だったのがちょっと私の人助け意図とは微妙にずれていたんですが,こういう時に人を選んだりしてはいけませんよね。2日め,同じようにバス停で待っている人たちに声をかけたのですが,誰も乗ってきませんでした。私の車は6人乗りなので,こういう時にひとりで乗っていると,ちょっと罪の意識を覚えます。
 このコ・ヴォワチュラージュは,数年前までは自分の住んでいるアパルトマンの掲示板にスト前日に「○○時にXX経由でYYまで行きます。3席まであります。ご希望の方は....」みたいな張り紙をしておいたものです。また,フロントガラスにバスみたいに行き先を貼付けていた車もありました。いいもんですね。市民同士の連帯です。私はこういう連帯にはぜひ参加したいので,ストの時は近所づきあいのある方たちには声をかけています。今はこのコ・ヴォワチュラージュがインターネット上で専門サイトがあり,市民同士の助け合いが機能的に行われているようです。
 私は多くの日本の人たちが抱いているような「ストライキ・アレルギー」がありません。「迷惑スト」などと言って目くじらを立てて怒る人たちの気持ちも理解しますが,怒る人たちがいなければこのストの効果もないわけですから。ブルドーザー式の行政改革を選挙公約にしてサルコジは当選したのでしょうけれど,そのブルドーザーでも前に進めない岩だらけの土地もあるんですね。アイ・アム・ア・ロック。

2007年11月11日日曜日

Another brick in the wall



 ダニエル・ペナック著 『学校の悲しみ』
 Daniel Pennac "CHAGRIN D'ECOLE"


 2007年度ルノードー賞受賞作。
 ベルヴィル人情物語「マローセーヌ」連作で知られるダニエル・ペナックが、300頁にわたって教育と学校についてその思いのすべてをぶつけている本です。この本の最も重要な言葉は "カンクル = cancre = 劣等生"というものです。一般に教育と学校の問題を語る場合、「問題」となるのは劣等生、落第生、落ちこぼれだけであって、及第点以上の子供たちは問題ではありません。できない子とできる子のバランスがあるから学校やその先の社会は成り立っているという相対論で落ち着いている人たちには、教育は問題になりません。しかし自分ができない子であったり、その子の親であったりしたらどうするのか。できない子とは何か。できない子はどこから来たのか。できない子は救済されないのか。そういうことをダニエル・ペナックは熱を込めて語ります。
 まず「できすぎたストーリー」という罠を恐れずに、ペナックは自分がどうしようもない劣等生であったことの告白から始めます。できない坊主から学校教師への転身、それよりも長い目では文章を全く書けなかった子供から作家への転身、これがペナックのパーソナル・ストーリーです。要するにあんたはどん底から這い上がって成功したという話をしたかったんでしょ、俺ができたんだからきみたちにできないわけはないというナルシスティックなお説教でしょ、と言われてもしかたのないことを、ペナックは敢えて書きます。これを書かなければいけないのは、自分は自力で這い上がったわけではないからです。作者はその崖っぷちにあった時にある教師と出会って救われたという契機があったのです。人生においてそういう教師に出会える人たちはごく少ないかもしれません。私自身を振り返るとそういう教師の顔は浮かんできません。しかしこの本に沿って言えば、私は劣等生だったことは一度もなかったので、私は救済される必要がなかったとも言えます。ダニエル・ペナックは複数の教師からその救済の手を差し伸べられた経験を語ります。それはありふれた話ではないにしても、そういう教師というのは昔も今も存在するのです。
 それは今度は自分が職業として中学(コレージュ)の教師となって出会った生徒たちや同僚教師たちの話として続きます。70年代から90年代にかけて、地方や郊外でペナックは教師として何千人という子供たちと教室で会い、そのひとりひとりのケースを見てきました。できない子に対する教師の言い訳のひとつに "manque de base"(基礎知識の欠如)というのがあります。つまりこの子が中学校でついていけないのは、その前の小学校での基礎学習がなっていないからであり、小学校でそれができないのはその前の家庭での基礎学習がされていないから...といった理由づけです。「できない子」はどこから来たのか。子の勉強も見れない共働きの親の家庭だったり、離婚家庭またはシングルマザーの家庭だったり。そして80年代からは圧倒的にフランス語の基礎を持たない両親の家庭、つまり移民家庭の子供たちである、と言われるようになります。郊外の公立学校は人種のるつぼと化し、その学力低下を恐れる(フランス中流以上の)親たちは子供を私立の学校に入れるようになり、公立の学校はますますできない子と移民の子でふくれていきます。教師ペナックはその現場にいて、自分がそうだったような「できない子」たちに手を差し伸べ、成功するか失敗するかわからないさまざまな救済策を実行します。美談はほとんどありません。しかしいい話ばかりです。
 共和国の義務教育は19世紀後半にジュール・フェリーの考案で始まりました。共和国は未来を建設する子供たちを共和国の名において育てなければならないと考えたのです。重要な原則は「ライシテ」(宗教と切り離した教育)です。信仰は自由であるが,学校という場所は無宗教でなければならないという考えです。なぜなら宗教は科学や歴史に対する考え方が共和国の教育の考え方と違う場合があるからなのです。フランスの公立学校教育は教師が宗教心に基づいて教育することも,生徒が宗教的な表徴をつけて学校に入ることも禁じています。イスラム者のスカーフと同じように公立学校ではキリスト者の十字架も外に見えてはいけないのです。宗教を禁じる考え方ではありません。学校という場はそれと無縁なのである,ということを通すために必要なきまりなのです。
 この例が示すようにフランスの公立学校は歴史的に先生たちが宗教や政治が介入することを必死で防いできました。私はフランスの教師たちのこの努力に敬意を表する者ですし,そのことを小学教師が外国人子女たる私の娘にまでちゃんと教えてくれたことを感謝しています。(スカーフ論争があった時に,それくらいいいじゃない,と言ったタカコバー・ママにまだ11歳だった娘が「学校はそういうところではないんだ」と断言して,ライシテとは何かを説明したのでした。びっくりでした)。日本で神話教育や国旗や「君が代」に抵抗する先生たちの考え方は,共和国の先生たちと似たものがあると思い私は支持できます。
 しかしペナックは,この共和国の学校がジュール・フェリーの100年後の1975年頃にその役目が終わったかのような,悲観的なことも言っています。それは子供たちの未来,共和国の未来というものをもはや学校はつくってやることができなくなった,という述懐です。落伍し,落ちこぼれていく子たちだけではなく,親の失業や兄姉の失業を見ている子供たちは,未来というきれいな言葉を希望を持って考えることができなくなったからです。「努力すれば何でもできる」というのは最初からうそっぱちな言葉ですが,75年頃まではまだそのウソの効力があったはずです。リアリティーは失業であり,貧困であり,ということだけを言おうとしているのではありません。6歳から15歳まで,それまで学校が子供の生活の中心であったのに,学校は自分の未来と関係がないと早々と知ってしまう子供たちはそれに関心が持てなくなってしまうのです。
 ペナックの本は「子供=消費者」の不幸に多くのページを割いています。ナイキやアディダスといったブランドや,アイポード,携帯電話などで身をかためてしまうことです。子供は早くから消費者として商業戦略の対象となって,雨霰となって降る広告を四六時中かぶっています。子供たちはこの攻撃に無防備であり,親にあれ買ってこれ買ってとねだり,その欲求が満たされれば幸福でしょうが,多くの子供たちは満たされず,消費者的欲求不満に陥ります。クラスの中で,持っている子と持っていない子がいます。持っていない子はそれだけで不幸なのです。容赦のない広告の嵐はこの不幸を深め,絶望の果てに子供は盗みを働いてでもそのアイテムを手に入れようとします。私の世代は大人になって自分で稼ぐようになれば好きなものを買えるという考え方で納得していた部分があると思います。消費者になるのは大人になってから,と。しかし,この子たちは早くからその欲求を刺激され,未来を待つことなどできないわけです。すぐにアイポードを持てないと不幸なのです。これはいつ頃から始まったのでしょうか。たぶん私の子供時代というのが,駄菓子屋でアメを買っていた子たちが,テレビで宣伝している明治や森永などの大量生産菓子に移っていった頃なのかもしれません。母親の手編み(または機械編み)のセーターと手製のコール天のズボンを着せられていたのが,デパートで既製子供服を買うようになった頃でしょう。徐々にでしょうが,このように子供=消費者は,小額の菓子ものから広告品を買うようになり,バービー人形やハイテク玩具を買うようになり,やがてブランド品や先端テクノロジーなどにまで手を出すようになります。

 今日の「できない子」は,失業者予備軍としての未来に絶望していること,子供=消費者として「持てない」不幸に生きていることという,昔はなかった絶望と不幸を理由に,学校は自分に何もしてくれないと思っています。ダニエル・ペナックはこの悲観的な状況を書きながらも,それでも教師たちはいるのだ,と言うのです。つまり,できない子であった自分を救済してくれたような先生が,まだこの世にはたくさんいるのだ,と。最終部の自問自答で,この学校という崩壊するかもしれない場所の最後の決め手になる言葉は,たぶん言ってはいけない禁句だし,人にはすごすぎる言葉だし,誰も信じてくれないと思うが.... ともったいをつけておいて,やっぱり「愛」なのではないか,と言ってしまいます。
 学校は必要ない,教育は必要ない,とピンク・フロイド『ザ・ウォール』が歌ったのは80年代初めのことでした。ペナックがジュール・フェリーの共和国義務教育の役目が終わったと言っていた時期とほぼ重なります。標題が言っているように,学校はそれ以後「悲しみ」を抱えた場所になっているのかもしれません。それは学校の壁の外と同じほどの悲しみであるとは私は思いません。ピンク・フロイドと逆のことを言うと,私は学校の壁に守られているものをまだ信頼しています。実際に私の娘が毎日通っている公立学校を,私は信頼しています。教師たちにも信頼を置いています。点数はあまり良くないけれど,娘はがんばっていて,学校が好きだと言ってくれるからです。そして,娘は私が教わらなかった「共和国とは何か」を知らないうちに身につけていてくれたからです。
 その意味でダニエル・ペナックの公立学校の教師を信頼せよという訴えは私にはたいへんな説得力があったのです。




 DANIEL PENNAC "CHAGRIN D'ECOLE" (Gallimard刊 2007年10月。310頁。19ユーロ)
 

コーシュマール、コーシュマール!(でっかいわ...)



 (← 前立腺ガンの早期発見のキャンペーンにヨーロッパではブリュッセルの小便小僧マヌカン・ピスが広告イメージとして採用されています。「出にくくなったらすぐ検診」というのがそのココロです)

 9日の金曜日の成田からパリまでのフライト中、激しい頭痛があって、客室乗務員の方からバッファリンを2錠いただき、それでもおさまらなかったのですが、1時間もしたら眠ってしまってそのまま到着2時間前まで寝ていたようです。5泊6日の日本ツアーの後半3夜は暴飲気味で、たいへん楽しかったのですが、体にはたいへん良くないことをしていたと思います。おまけに宿酔気味でホテルに帰ったあとは、半錠の誘眠剤を寝入りに飲み、2〜3時間後にトイレに起きて(これが問題!)また半錠の誘眠剤を飲み、という無理矢理の時差矯正をしていたので、おとといで薬が切れてしまいました。
 時差のマジックで9日の午後にはパリに到着して、空港にはタカコバー・ママが待っていました。こういう図は久しくなかったものです。いつもは爺が空港で待つ役で、当然その前にタカコバー・ママや娘が旅行に発つ時もいつも爺が空港に残されて、Everytime you go away, you take a piece of me with you... (ポール若、またはホール大津)を泣きながら歌っていたのです。
 税関出口から駈けて行ってタカコバー・ママを抱きしめたら、開口一番「あなた口臭がひどいわよ」と言われました。

 口臭は自覚できませんからやっかいです。私も人の口臭が大嫌いなので、そういう人と遭遇するとできることなら二度とお会いしたくないと思ってしまう側の人間でした。中学の時の国語の先生(女性)がものすごかったのですが、ある日勇気ある子が無言で「エチケット・ライオン」を進呈したのでした。その先生はその意味がよくわからなかったと思います。本人にはわからないのですから。次の日からも状態は変わりませんでしたから、使わなかったか、ライオン歯磨きの宣伝に嘘があったかのどちらかだったのでしょう。
 この年齢なので何が起こったっておかしくないのですが、旅行前の10月前半に主治医の内科先生に診察してもらった時に、夜のトイレの回数が多くなったことを言いましたら、前立腺肥大の可能性があるので、検査を受けなさいと言われていたのでした。日本から帰ってから、と思っていたら、出発の2日前にクルマの運転中に2本脚の付け根のさる部分に急に痛みが来てしまったので、あああ、来ましたね、来ましたね、と何がやってきたのかわからないけれど、あるものが爺の体の中に到来していることを感じたのでした。
 青森ではどうだったのか覚えていません。たぶんそれほどではなかったのではないかな。3日めの東京から、普段クルマ生活者で歩くことをほとんどしない私が、これほど歩いたのは何年ぶりのことだろうと思うくらい、駅通路や「駅から徒歩8分」や「駅から徒歩10分」(これって不動産屋の用語でしたよね。大体が実際よりも大幅に少なめの時間になってますよね)を歩いて歩いて歩いたのでした。
 昼はひとりの時は富士そばや某カレースタンドを利用する、賢明な外国人旅行者だったのですが、夜は今回全部相手方が出してくれたので、喰うわ呑むわ。東京はどこでも食べるものが美味い。何を呑んでもお酒は美味い。おごられていただくものはすべて美味い。
 夜中に口腔がざらざらに乾いた感じがあったり、胃で何かが消化されていない感じがあったり、朝起きるとふらふらで平衡を取り戻すのに時間がかかったり...。たぶん東京での3日間は爺の何かを壊すには十分にハードなことの連続だったのでしょう。

 で、私はいつ頃からこのひどい口臭を人様に吹きかけていたのでしょうか。タカコバー・ママは出発前はそんなことはなかったと言っているので、日本に行ってからということですね。青森の友だちがもうおつきあいを考えさせてください、と言ったら、その時からすでにそうだったのでしょう。東京で商談した相手から、注文がぱったり来なくなったら、その時もそうだったのでしょう。東京の飲み屋で、まわりの騒音に負けじと顔寄せ合って大声で談笑しあったあの彼、あの彼女は、もう私と会ってくれないかもしれません。
 その時に、相手から何も言わずにす〜っとエチケット・ライオンのチューブが出てきたり、仁丹の容器をカシャカシャ振ってくれたりしたら、それとなく爺はわかったでしょうか。たぶんわからなかったでしょうね。
 口臭の悪夢(コーシュマール)は自分ではわからないことであり、人はなかなか言ってくれないことですね。娘ははっきりと Ta bouche pueと言ってくれたので、帰仏第一夜は「火吹き怪獣遊び」で娘を追い回したのでした。

 しかしコーシュマールは続き、口臭だけでなく、飛行機から始まった頭痛は時折再発し、眠る薬が切れたとたん、帰国第一夜からトイレに2時間おきに行くようになって、ほとんど眠れなくなってしまいました。これは時差ボケだけではないのです。おまけに膀胱部分は痛みこそないのですがいつも張っているような感じで気になってしかたがない。
 翌日薬局で口臭止めは買うことができました。眠る薬は処方箋がないと買えないので月曜日までお預けです。2日め(土曜日)の夜、やはり眠ることができず、元気にこんなことを書いています。眠れないので、ダニエル・ペナックの最新小説『学校の悲しみ Chagrin d'Ecole』を読み終えましたが、さっぱりわかりませんでした。ちなみにこの小説は爺が日本に行っている間に、今年のルノードー賞を獲得していました。ゴンクール賞作品はジル・ルロワの『アラバマ・ソング』で、きのうわが町のフナックで買いました。わが町のフナックには日本語を話す気だての良い女性店員の方がいて、いつもその人のレジで買うことにしています。昨日は娘と二人で買い物をしたのですが、そのレジに列を作っていた時に、娘が「パパ、口臭消しのスプレー使って!早く!」と言ってくれたのでした。よく気がつく娘です。レジで私たちの番になって、いつものように日本語で迎えてくれた彼女から微笑みが消えず「日本はいかがでしたか?」なんて優しく言ってくれたもんだから、この時私の口臭は消えていたものと確信しています。ああ、娘のおかげで、次もこの女性と会うことができる。ありがっとう、ありがっとう。
 『アラバマ・ソング』はニール・ヤングとは何の関係もありまっせん。米国の大作家スコット・フィッツジェラルドの妻、ゼルダ・フィッツジェラルドの生涯を描いた、生涯夫の影で尽くし通して生きた女性の(と書くと山内一豊の妻のようですが)伝記小説です。これを「ゼルダの伝説」と訳すと、話はまったく違ってしまいます。次回の「新刊を読む」で紹介いたします。しかし読み始めましたが、やっぱり下腹部が気がかりで、全然読み込めていないのです。コーシュマール、コーシュマール...。
 

2007年11月4日日曜日

デジカメを壊してしまった



 11月3日、パリ〜名古屋線に乗り込むために高速地下鉄RERのB線でロワッシー空港に向かう途中の娘セシル・カストールです。つい3日前につけられた歯列矯正装置で、食べるものに不便のしている娘が、これ青森のおばあちゃんに見せてあげてね、と撮影した写真です。
 11月4日、青森に来てわがiBOOKにこの写真をケーブル移動したところで、4年前に買ったNIKON Cool PIx3200がうんともすんとも動かなくなってしまいました。円安・ユーロ高をよいことに、タカコ・バー・ママは「新しいの買うてきて」と軽い感覚です。なにしろあさってからの東京の定宿がそういうところで新宿西口付近なので...。
 中部空港は日曜日なので家族連れ「空港見学」の人たちにたくさん出会いました。「セントレール」と言うのだそうですねえ。待ち時間にコーチン・ラーメンを食べて、家の土産に生きしめんのセットを買いました。屋上の散歩道は板張りで「ドーヴィル」みたいなんですが、固定のベンチが10メートルおきで、すわる人たちを制限する思想がありますね。日本の公園地や散歩道はどこでもそうなんですけど。

2007年11月3日土曜日

綱渡りの歌





 スタニスラス『あやうい平衡』
 STANISLAS "L'EQUILIBRE INSTABLE"


 世界一のレコード会社Uとは日頃親しい関係ではなく、長年のつきあいにも関わらず爺がやっていたような小さな会社などどうでもいいという態度があって、あれをしたいこれをしたいというプロポーザルがあっても真剣に応えてくれたためしがありません。彼らとはこういうつきあいが20年も続いています。それでもプロとして、爺は彼らのニューリリースの情報を1ヶ月以上前に受け取るシステムの中に入っているので、人様よりは早く「音」が聞ける特権があります。とかくヴァリエテ系はほとんど興味がなくなってしまったので、毎週の情報は来てもほとんどうっちゃっておくのですが、10月の上旬にリストに載ってきたこのスタニスラスは、なにか惹かれるものがあって、バイオグラフィーもちゃんと読んで、試聴の4曲もしっかり聞いたのでした。
 スタニスラス・ルヌー、35歳、クラシック教育をしっかり受けた名門学校出で、指揮法を有名マエストロに師事したのち、クラシックオーケストラ(オペラ・ド・マッシー管弦楽団)の指揮者に就任し、音楽高等師範校(エコル・ノルマル)で教授もしています。こういう人が若くしてポップ・ミュージックに「天下り」きたわけですが、本来ならば爺ならいくらでも悪口を言いたくなるようなこのキャリアの前に、シングル曲予定になっていた「ル・マネージュ(回転木馬)」の第一音を聞いたとたん、胸がキューンとなったのでした。
 確信犯的なロマン主義です。クラシカルでセンチメンタルで夢見心地で、声楽系でない高音少年ヴォイス(若き日の岩沢兄弟のような声に聞こえる)で、大空に上昇していくようなワルツ曲が展開されます。
 爺は何年ぶりかで世界一のレコード会社Uのディレクターにメールを書いて、スタニスラスのデビューアルバム全曲聞きたいので、必ず必ずアルバム送れとお願いしたのでした。何年かぶりでそのディレクターが直々に電話をくれて「私もこのアーチストの才能には賭けているものがある。きみが目をつけてくれたのはとてもうれしい」と急に "tu"(きみよばわり)で話したのでした。
 それから3週間、何も音沙汰がなかったのに、今朝、スタニスラスの6曲入りサンプラーが届きました。ディレクターの手書きのメモで「アルバム製品は上がっていないので、ストック入り次第送る」と書いてありました。なにか愛情物語の始まりのようなふんいきがあります。ネット上の試聴と違って、CD盤は大音量で聞いたら、コンサートホール感覚でした。
 クラシックとポップの狭間と言うよりは、これは古き良き少女マンガ時代のロマンが香り、劇団四季ミュージカルのようでもあります。ディヴァイン・コメディーが高音ヴォイスになって、もっともっとクラシック寄りになった感じです。
 これはですね、爺の持っている少女ゴコロを直撃するのです。隠れていたわけではないのですが、中学/高校と少女マンガを読みあさった頃の記憶がふ〜っと蘇ってきます。
 全曲版(製品アルバムは11月12日リリースです)が届いたら、もう一度総合的に紹介してみたいと思います。
 
 マイスペースに4曲公開されていますが、肝心の「ル・マネージュ」が載っていないのが残念です。
 http://www.myspace.com/stanislaslequilibreinstable
 (公開ヴィデオもぜひごらんください。ちょっと神経質そうな人柄がよくわかります)

 続報をお待ちください。
 しかし、しかし、ひさしぶりに興奮するヴァリエテであります。