2007年9月29日土曜日

娘と私のコピーヌ




 昨夜はタカコバー・ママがクスクスを作り、私と娘の12年来のコピーヌのリザが来てくれました。家に来る前に、わが町ブーローニュの市営スケートリンクで、娘のフィギュアスケート・クラブの練習風景をリザに見てもらいました。スケートを始めて5年めなのに、私に似た「思い切りの悪さ」が災いしてジャンプ力とスピードに欠ける娘は、上級クラスへの道が険しいのですが、きのうは特別にコンペティション組に合流しての練習でした。しかし他の子たちの水準についていけないみたいで、あまり良いところをリザに見せられなくて残念。それでもリザも子供の頃にスケートをやってたそうで、コピーヌ同士の話ははずんでいたみたいでした。
 リザとSATANICPORNOCULTSHOPはこれからリール、パリ、マドリードにツアーです。10月2日にパリの「パレ・ド・トーキョー」でライヴです。私たちも2日に参上します。お近くの人たちもぜひ来てください。
 8月に日本で出たリザの「ラ・ボッサ」の新録入りベスト盤『サンバ・サラヴァ』をいただきました。若い時の声と非少女ヴォイス(今の声です)が同居していて、はははは.... 時は過ぎ行くサウダージです。「サンバ・サラヴァ」はステーシー・ケントの最新アルバムでもステーシーがピエール・バルー詞のフランス語ヴァージョンで歌ってますけどセリフ部分ははしょっていました。リザのヴァージョンはちゃんとセリフ込みですからね。 サ ラ ヴ ァ !

 
 

2007年9月26日水曜日

この女性は生半可ではない



 たぶん革命が起こる(起こってほしい)ミヤンマー(ビルマ)の刻一刻の状況の中で、アメリカに亡命していたミャンマーの反軍政政府の首相セイン・ウィンが、今日パリのフランス大統領官邸でニコラ・サルコジに会い、民主化運動のための援助を求めました。この時、セイン・ウィンに同行したのが歌手・女優のジェーン・バーキンでした。サルコジとの会談前のセイン・ウィンの記者会見では、ジェーン・バーキン自身が仏・英語の通訳を買って出ました。
 ジェーン・バーキンはこのミャンマーの民主化運動の支持だけではなく、演劇人アリアーヌ・ヌムーシュキンらと共にチェチェンのロシア圧政支配に抗議したり、アフガンやコソボの女性たちへの援助のために動いたり、たいへんアクティヴに国際政治現場に出て来る人です。この辺は全く半端ではありません。バーキンはそれに関することならどんなに複雑な質問でも答えられると思います。
 こういう女性たちがいるのです。アルジェリア問題の時のイザベル・アジャーニにしてもそうですし、アフリカ系移民の住居問題で身を張って抗議するエマニュエル・ベアールもそうですし....。ちょっとやそっとの売名行為で絶対にできることではないのです。この女性たちは本気でアンガージュマンしているのです。闘士です。すごく良いことだと思います。

2007年9月25日火曜日

ベルベルの夢



 モハンド・フェラーグ著
 『ベルベルの夢に火を点す男』
 FELLAG
 "L'ALLUMEUR DE REVES BERBERES"

 カビリア(アルジェリア)の喜劇役者/演劇人/漫談家のフェラーグには,マルク・ペロンヌのコンサートの時に一度だけ,マルクから紹介されて挨拶したことがあります。マルクがフェラーグのスペクタクルの音楽をいくつか担当していて,その音楽はCD『その儚い熱情』と『マルク・ペロンヌの小さな歌』に何曲か入っています。私はそれまでフェラーグのことは良く知らなくて,アラブ系のジョークで笑わせる寄席芸人ぐらいにしか思っていませんでした。これがもう5作目の小説だそうです。私はてっきりお笑い系の小説だと思って,この本を手にしたのでしたが,裏表紙の状況説明が90年代初めのアルジェが舞台と書いてあって,アルジェリアのその時代をどうやって笑うことができるのか,と疑い始めました。
 アルジェリアは結社政党の自由を認め,多党による普通選挙をしたとたんに,イスラム原理主義政党FIS(イスラム救国戦線)が大勝利してしまい,この選挙結果を尊重すればFIS政府ができてしまうはずでした。ところが旧体制は軍事クーデターによって選挙の無効を宣言し,FISを非合法化し弾圧します。ここから軍政・対・イスラム過激派の内戦が始まり,多発するテロは市民を巻き込み,1992年から10年間におよぶ暗黒の時代に入ります。
 小説はまさにその市民戦争時代のアルジェが舞台で,戒厳令が布かれ,水道の極端な給水制限があり,週に2回の数時間しか配給されません。いつどこでテロがあってもおかしくない状況で,市民の中にはイスラム過激派シンパもいれば,政府側警察のスパイもいる,という,うかつにものも言えないような緊張した空気が支配します。水だけではなくあらゆるものが不足している中で,下町の市民たちはなんとか助け合って生きています。部品がなくてもなんとか代用品で自動車を直してしまう天才的な素人修理士がいたり,巨大なクスクス鍋をパラボラアンテナに改造して衛星放送を傍受して世界のニュースを知る者がいたり,なんとも味のある人間たちがこの小説には出てきます。人情に厚く義侠心にあふれる美貌の娼婦マリカ,産婆として長年この界隈の子供たちを取り上げてきたユダヤ人の老婆ローズ,ガス公社の技師で母ひとりを助けて生きる小市民ナセール,町の発明家でアルジェリアで最良の蒸留酒をつくる機械を開発したアジズ,戒厳令下でもなんとか人々に憩いの場をと,戒厳令の時間帯にだけ営業する酒場を開いたモクラン。これらの人々を記録していくのが,元ジャーナリストのザカリアで,彼はイスラム過激派か政府側かどちらが送ったかわからないような脅迫状を受け,職を失い,妻を病気で失い,子供二人が国外亡命してしまって,ひとりで生きている50歳の男です。彼はジャーナリストとしてあらゆる検閲を受け,書きたいことなど書けなかったのだから,この職を失ったことをきっかけに,これからは(発表することさえ考えなければ)好きなことを書いていける,と思ったのです。好きなこととは,この下町の人たちの生きざまであり,生の真実であるわけです。
 ある日ナセールが自分と同じように死を宣告する脅迫状を受け取ります。娼婦マリカはナセールを助けるために,イスラム過激派に通じた男たちと交渉して,脅迫状の出所までナセールを送り,脅迫状の撤回を求めさせます。ここでナセールはテロ組織の奥の奥まで入っていくのですが,フェラーグの文体はそれを凶悪な人々と描くのではなく,なんとも人間臭く書いているのです。みんな人間なのですから。私はこのフェラーグのアプローチにとても感銘を受けます。
 そして,私たちがアルジェリアのような国を外から想像するのとおおいに違って,フェラーグのこの小説ではみんなめちゃくちゃ酒を飲むのです。国営のビール醸造公社が二つあるのですが,そのうちのひとつをイスラム過激派がテロで機能を止めてしまいます。アルコールを禁止するイスラム国だから,そういうことは市民にとって何の影響もないと思われるかもしれませんが,これは(フェラーグの小説の中の人々には)大変なショックなわけです。ザカリアがものを書く時,ナセールが心を割って話す時,マリカがリラックスする時,アルコールは欠かせないのです。この小説はウィスキーやビールやワインや,その他たくさんのアルコールが登場して,場の空気を変えてしまうのです。イスラム過激派も政府高官も同じように飲むのです。
 下町の発明王アジズは,世にも不思議なアルコール蒸留器を開発し,アルジェリアで最高の「命の水」(eau de vie。蒸留酒)をふるまうビストロを開業したいと思っています。今のアルジェリアに必要な安らぎと語らいの場所に不可欠な飲料を作りたいと言います。これがアジズの「ベルベルの夢」です。今やテロが雨霰と降っているアルジェの地上から,地下蔵に降りていくとアジズの「ベルベルの夢」があり,そこでは極上のアルコールを友と酌み交わすのです。
 しかしこの夢は,数十万人がテロや弾圧の犠牲になって死んでいったアルジェリアの1990年代には叶うはずもなく,イスラム過激派か政府側か,それとも無関係な何者か,誰とも知れぬ者たちによってアジズとその協力者マリカは暗殺され,四肢胴体を切断され蒸留機械の上にさらされてしまいます。小説は当然笑い事ではなくなってしまいます。
 
 この小説はフェラーグの卓抜な諧謔センスによって,途中はたくさん笑えるところがあります。こういう状況でも笑わなければならないのだ,笑ってもいいのだ,と思わせるシーンにとても勇気づけられるのですが,現実に引き戻すことも必要です。このバランスは大切です。悲劇的な結末のあとで,この小説は給水制限の終了を告げて終わります。明日からはちょっとは楽になるのだ,と繋いでいるのです。Life goes on...。

 日本語訳が出て欲しいですね。世の中がアルコールの罪悪ばかりを喧伝するようになっている時,こういう小説は目からウロコですね。アルコールって,人を愉しくさせるものだったはず。人と人の間に美味しい酒,これをなくしたり禁止したりしてはいけないでしょう。たとえあの当時のアルジェリアのような状況であっても。今夜の酒を美味しくさせてくれたフェラーグに感謝感謝。
 
 Fellag "L'Allumeur de reves berberes" (J-C Lattes 刊 2007年9月。305頁。14ユーロ)

2007年9月21日金曜日

一番右がさなえもんです。



 うそです。
 右側に座っているのはプラウダのギタリスト&ヴォーカリストのシュザンヌさんです。これはプラウダと別プロジェクトで,シュザンヌとヒンデ(真ん中。ベース&ヴォーカル)とカリンヌ(左側。ドラムス&ヴォーカル)のパリ3人娘のバンドで,TU SERAS TERRIBLEMENT GENTILLE(チュスラテリブルマンジャンティーユ)という長い名前です。4曲入りの7インチシングルが出ました。(ちょっと↓のレ・ブルーゾン・ノワールと同じ、ジャン=バチスト・ギヨーのBorn Bad Recordsレーベルからのリリースです。)ギター・サーフ・パンクっぽい,元気な音で気に入っています。プロデュースはモンペリエの才媛、エミリー・シモンさんでした。
 さて,きのうはさなえもんが遊びに来てくれて,一緒にビストロで飲み食いをしました。さなえもんは私の友人の中でもロックンロールを感じさせる数少ない人のひとりです。また遊びに来てね。

2007年9月18日火曜日

セーヴルの午後



 9月16日(日曜日),天気予報は「今季最後の夏の陽気ですから大切に」と言うのでした。最後の夏の光,こういう詩的でメランコリックなことを言われると,その日は太陽を慈しんで一日外にいたくなります。実際素晴らしい晴天でした。私は3週間前から始めた日曜朝のフッティングのために早起きをして,一緒に走ってくれる娘を起こそうとしたのですが,起きてくれまっせん。学校の勉強(今学期からスペイン語も始まりました。娘がちゃんと学習している言語は仏語,英語,日本語,スペイン語と4カ国語になりました。)も忙しいし,ピアノやフィギュアスケートも忙しいし,週末くらいゆっくり寝かせてあげたら,とタカコバー・ママは言うのでした。You are quite right, my dear。私はしかたなくドミノ師だけを連れて,向かいのサン・クルー公園へ行きました。
 いつものように公園敷地内に入ったところでドミノ師から鎖を外して自由の身にしてあげます。普段は娘と一緒なのにこの朝は私と犬様だけです。娘は犬様を自分の弟のように思っているから,命令も監視の目もちゃんとしていますが,私は犬様と同じように娘やタカコバー・ママに命令されたり管理される側なので,犬様は私を同類のように思っているかもしれまっせん。さあ,走り始めました。私は自分の中高年リズムでストライド走法で走ります。サン・クルー公園はマロニエの大木並木や噴水やたくさんの石膏立像や見事な階段滝池があったりで,走っていて周りを見るだけで目は全然飽きません。私は一度振り返ってみました。するとドミノ師はずっと遠くにいて,走らずにこちらに向かってトコトコ歩いてくるのです。垂れ耳を蝶々のようにひらひら揺らしながら,トコトコトコトコ歩いてくるのです。こらあっ,先生,ちゃんと走ってくださいよぉっ!!! と声をかけると,ちょっと早足で走り気味になるのですが,かりそめにも猟犬種に生まれた犬ならば,獲物追うような走りを見せてもらいたいものです。師が5メートルぐらいの距離に近づいた時に,私は前方に向き直し,再び走り始めました。
 約3分間,私は私のコースを進んで行ったら,前方の大きな草地(8月末にROCK EN SEINE フェスが開かれたところです)に移動遊園地が来ていて,射的スタンドや種々のアミューズメントができていました。私はそれを避けて右にコースを変え,丘の方に昇っていきました。そして振り返ると,なんたることかドミノ師の姿がないのです! 私は来た道を引き返し,その周囲の草地や林の中を探しまわったのですが,その姿はありませんでした。センセ〜〜〜〜イっ!!!! 私は大声で何度もその名を呼びました。J'ai crie, crie, センセイ! pour qu'il revienne。「すみません,ちょっと太めのジャック・ラッセル犬見ませんでしたか?」私はいろいろな人に聞きましたが,ネガティヴなお答えばかりでした。
 私はパニック状態に陥り,タカコバー・ママと娘に電話をしてすぐにこっちに来て一緒に探してくれるよう頼みました。そして走ったコースをもう一度往復してみたのですが,結果は同じでした。かれこれ15分ほど探していたでしょうか。ひょっとして,と思って,私が行かなかった移動遊園地の敷地内に入っていきました。そこは午後開場なので午前中は客はいません。屋台スタンドの裏側に留められたキャラバンに住んでいる移動遊園地で働く人たち(これをフランス語では forains フォランと言い,辞書には縁日興行師,露天商人といった訳語が載っています)が朝食を取っていたりしました。「すみません,だいぶ太めの白黒犬を見ませんでしたか?」そうやって聞いた3人目の人が,look there, maaan ! にこっと笑って指差した方向を見ると,師はなに喰わぬ顔をして,垂れ耳を蝶々のようにひらひら揺らしながら,トコトコトコトコこちらに歩いてくるのでした。私はすべての神と悪魔の名において,この犬様に呪いの言葉をかけ,ポケットに入れていたドッグ・ビスケットひとかけをさしあげたのでした。..... バ カ ヤ ロ ー .....

 二度と犬様とフッティングはするまじ,と心に決めた日の午後,年に一度の Journees europeennnes du Patrimoine (欧州文化財の日)で,博物館・美術館・議事堂・官邸などが無料でガイドつきで見れる日だったので,私たちはわが家からセーヌ川を挟んだ向こう岸の町,セーヴルに行き,この辺りでは珍しい仏教寺院(Pagode de Tinh Tah 静心禅寺)を見に行きました。お数珠を持って,その気で行ったのですが,訪問する人たちも少なく,ちょっと珍妙なお寺様で,私たちの心が清まらず,お賽銭も小額にして退散しました。その後,焼き物の町セーヴルの大モニュメント,国立セーヴル陶芸博物館(↑写真はその入口です)に行きました。ここは博物館の後ろに昔からのセーヴル焼きの大工房を保存しているところで,今でも19世紀から残っている窯炉を使って陶器を焼いています。その焼き物の工程をひとつひとつ,アトリエで働く職人さんたちの説明を聞きながら見ていきました。いいですねえ,伝統の巧に,こんなに近距離で触れられるなんて。アメリーさんよりずっと心が豊かになりますね。

2007年9月17日月曜日

日本を喰いものにする



 アメリー・ノトンブ著『イヴでもアダムでもなく』
 Amélie Nothomb "NI D'EVE NI D'ADAM"

 毎年9月の新刊書シーズンに必ず「話題の新作」を発表して,ベストセラー1位になってしまう人です。私は読むたびに不愉快になるのにもう4册も読んでいて,マゾ的な愛読者と言えるかもしれません。そう言えば,この本でも「佐渡の人はサドである」という日本通ひけらかしの下らないダジャレが出てきて,人をなめるのもいいかげんにしろ,と言いたくなりましたがね。
 ベルギーの女流作家アメリー・ノトンブ(ラジオ番組で自分の名前をこう発音していました。酢昆布みたいだなあと思いました)は,大作家ではありまっせん。私の周りの日本人たちは一様にネガティヴな反応を示しますが,フランス人たちは好きだという人がかなりいて,こういう極端な視点の文体というのは好きになったらやめられないもののようです。今度の作品もフランス人二人(ひとりは近所の日本びいきの床屋さん,もうひとりはCD配給会社ロートル・ディストリビューションのディレクター)から「今度のノトンブはすごく良いぞ」と手放しで誉めるので,そうかなあ...と不安を持ちながら先週買ってしまいました。それで週末に読んでしまったのですが。
 小説は映画化もされた大ベストセラー『畏れ慄いて(Stupeur et tremblements)』(日本の一流商社に就職してOLとして勤まらず,上司と同僚からいじめ抜かれて便所掃除婦まで転落していくベルギー人外交官の娘のストーリー)の1年前に,21歳の主人公「私=アメリー」は5歳まで住んだ日本に再びやってきて,日本語をマスターして一流会社への就職を目指す外国人語学生をしていた,という設定になっています。言わば『畏れ慄いて』の前後に何があったか,という話です。なんとアメリーさんは日本人男性と交際していたのです。自分よりひとつ年下のフランス語を学ぶ男子学生で,宝石工芸家兼宝石デザイン学校の校長をしている富裕な親父様を持った,白いメルセデス・ベンツを乗り回すボンボンです。アメリーさんが麻布のスーパーに「フランス語個人教授いたします」の張り紙をしたら,ひっかかってきた仏文3回生です。彼が調理した広島直送の特製ソース仕上げのお好み焼きに,5歳まで夙川に住んでいた関西少女アメリーさんは,プルーストのマドレーヌのような郷愁に恍惚となります。
 この小説は喰いものの話がやたらと多いのです。スイス・フォンデュの調理道具をメルセデス・ベンツに積んで,アメリーさんのところで出張して料理する学生さん。日本人の男性は道具に凝る,という一面の真理を突いています。チーズと生クリームだらけのカルボナーラ(これも学生さんが作ります)。佐渡の旅館で出てくる懐石料理や,タコの活き鍋などの話も非日本人読者には面白いでしょう。クジラは日本人にとって美味しいんだからしかたないじゃないか,と理屈でない理屈を述べる学生さんは,西欧人から見た日本人の代表的クジラ論者のステロタイプですね。
 そして料理文化だけでなく,日本文化全般に対するアメリーさんの好奇心と蘊蓄がいろいろ展開されています。アメリーさんの白い肌を奇怪なもののように見る学生さんの祖父母。姑でもないのにアメリーさんに意地悪な意見を欠かさない学生さんの母(夏でも脚の素肌を見せずにパンストを履くのが女性のたしなみ,みたいなことを言うのです)。日本人たるもの一度は富士登山をしないと本当の日本人とは言えない,ということをアメリーさんは言うのです。彼女は日本人になりたくて富士登山をするのですね。そういう国粋主義的な魔力が富士山にあるのでしょうか。アメリーさんにまたひとつ日本を教えられました。
 学生さんが男友だち11人を呼んで,家で夕食会を開きます。学生さんが料理を作り,招待客に出すわけですが,料理ができるまでの間アメリーさんはシーンと押し黙っている男の子たちに見かねて「お話おねえさん」になってあげるのです。それがある見方では,ビールをお客に注いで回るホステス嬢と言えないことはないわけです。日本の女性がこういう場合に自然にしてしまうこと,というアメリーさんの先入観か,恋人にとって助けになることと「人に善かれ」という身に付いた社交性なのか...。それにしても日本の男の子たちは若いベルギー女性の前でシーンとしらけるような,そういう育ち方しかしていないんでしょうかねえ。またひとつアメリーさんに教えてもらいました。
 日本語の「恋」というのは "amour"ではなく,"gout"である,とアメリーさんは驚くべき定義をしました。つまり「恋」は愛を与え合ったりすることではなく,好き嫌いの「好き」にすぎないのである,と。アメリーさんは好き嫌いは簡単で軽いことだと考えます。日本語で「恋する」というのは好きになることという次元に留まるわけです。どう思われますか? 
 このまさに日本での「恋」がアメリーさんのこの小説の限界なのです。アメリーさんのおかげで学生さんはめきめきフランス語が上達するのですが,この学生さんは優しく親切で面白いユーモアを持ったお相手としてアメリーさんが好きにはなっても,限りなく軽い存在なのです。この小説で驚くのはアメリーさんと学生さんの深い会話というのがひとつもないのです。後半は学生さんが求婚をくり返すばかりなのですが,学生さんの考えというのは全く展開されないのです。この小説の内容では,いくらアメリーさんが好きとは言っても,この学生さんはどう読んでも魅力にもインテリジェンスにも乏しい男にしか感じられないのです。だからこの二人は結ばれないのだからロジックではあるのですが。
 私が読んだノトンブの小説すべてに言えるのですが,彼女のエクリチュールはこの登場人物(この場合「学生」)が個人としてのキャラクターを持つ以上に「日本」として対象化されてしまうのです。私が彼女の文章に居心地が悪くなるのは,このひとつを指して「日本」と言い切ってしまうことなのです。この小説内小説として『畏れ慄いて』で描かれた日本を代表する一流商社でアメリーさんが受けたいじめがあるのですが,会社からヘトヘトになって帰って学生さんにそのいじめの一部始終を話すと,学生さんは首を横に振り「日本国民の名において」アメリーさんに詫びの言葉を言うのです("il secouait la tete et me demandait pardon au nom de son peuple." P215)。学生さんは日本人を代表してアメリーさんに詫びを言うことなどできるわけはありまっせん。
 ノトンブは何かにつけて,それは自分と「日本」の問題だ,と事の本質をすり替えてしまうのです。自分が好意を持った男性と燃えるような恋愛にならないのは,日本語の「恋」の問題なのです。ノトンブはこういう「恋」しかできない日本男性は,ベルギー人として彼女が文化として血肉化している西欧型恋愛まで到達することはできないのだ,と前もって布石を置いてしまっているのです。これは文化の差異の問題ではないでしょう。日本人が浅薄であるということを言外に言っていることでしょう。
 この学生さんは「ツァラトゥストラ」という名前を聞くと「かく語りきの人でしょ?」と答えることができるのです。日本人は名前と題名くらいは言えるのです。そしてある日「聖堂騎士団」の本を読んで聖堂騎士団に入団したい,と言い,その後ではエジプトに関する本を読んで強烈に興味が湧いて自分はエジプト人になりたいと言い出す。ノトンブにとっては流行りものを浅く摂取するのが日本人のスペシャリティーなのでしょう。しかしこういう浅薄なパーソナリティーが魅力がないのは,日本人にとっても同じことなのだ,ということを誰もノトンブに言ってないのでしょうね。
 この小説のつまらなさは学生さんの人物像のつまらなさに尽きるのです。その人物像を作ったのは日本人や日本ではなく,アメリー・ノトンブなのです。


AMELIE NOTHOMB "NI D'EVE NI D'ADAM" (ALBIN MICHEL刊 2007年8月 250頁 17.90ユーロ)

2007年9月14日金曜日

ワイルドで行き過ぎよう




 レ・ブルーゾン・ノワール 『1961-1962』
 LES BLOUSONS NOIRS "1961-1962"

 ロックンロールはその初めの頃に,どこの国でも「こんなものは音楽じゃない」と言われましたよね。良識の人たちや,旧世代のモラルを持った人たちから「こんなものは音楽じゃない」と言われるのがロックンロールでしたよね。暴走するビート,プリミティヴでワイルドなシャウト・ヴォーカル,踊れりゃそれでいいのさでかき鳴らすギターコード,ごつごつとした岩が転がるような不規則さ,それがロックンロールでした。
 南西フランスの港町ボルドーに実在したロックンロール・バンド,レ・ブルーゾン・ノワールにはそのすべての条件が揃っていたのですが,このバンドはなによりもまず「こんなものは音楽じゃない」なのでした。恐れを知らない超ヘタ・バンドなのでした。このCDのライナーでは「こいつらはその日の午前中に楽器を買って,午後にこの録音をしたのではないか」とまで書かれています。リズム感覚ゼロのまま連打炸裂するドラムス,二つだけのコードをでたらめにストロークするギター,それらにおかまいなく陶酔的に歌いシャウトするヴォーカル,馬の耳にロックンロール,よくもまあこういうレコードが世の中に存在したものです。
 レ・ブルーゾン・ノワールは実在したにも関わらず,今や全く資料もなく,おそらくメンバーはクロード(リードギター),ジョー(リズムギター),ディド(ドラムス),サミー(ヴォーカル)の4人であったろう,とライナーに記されています。ボルドーの地元レコードレーベル GUILAIN(ギラン)に2枚の4曲EPシングルを残しているのみです。1961年に「スペシャル・ロック」と題された最初の4曲入りEPは,当時のフランスのロックンロールを代表していたレ・ショーセット・ノワール(エディー・ミッチェル)1曲,レ・シャ・ソヴァージュ(ディック・リヴァース)1曲,ジョニー・アリデイ2曲のカヴァーです。カヴァーというよりは意図的破壊行為ですね。ギッタギッタにデストロイしています。
 その1年後1962年に「スペシャル・ツイスト」と題された2枚目にして最後の4曲EPを発表するのですが,この2枚の間の1年間という時間にも関わらず,このバンドは全然進歩がないのです! 練習なんかクソ喰らえ,というロックンロールな心意気でしょうか。
 ↑2枚めの写真をご覧ください。その2枚のEPシングルのジャケ写が載っていますが,まったく同じ写真をバック赤からバック青に変えただけです。予算の問題というのではなく,「写真なんてメンドクセーっつうの!」というふてぶてしさの方が強く感じられませんか?

 英語で言うならば,これはあらゆる意味において BAD です。悪く,ヘタで,ふてぶてしく,常軌を逸して... その上ある種カッコいいわけですね。このケッタイなレコードを復刻してしまったのは,バスチーユのレコードショップ BORN BADで,その主人のジャン=バチスト・ギヨーはかつてフレンチ・サイケ・ポップの復刻コンピレーション「ウィズ Wizzz」や,フレンチB級シンセ・ポップのコンピレーション「ビップ Bippp」の仕事で知られる人です。ギヨーはこのレ・ブルーゾン・ノワールに超早すぎたパンクの原石を見てしまうわけです。お笑いで聞くもよし,ここにロックンロールありきと驚愕するもよし。しかし,多くの人たちにとってこの8曲は「こんなものは音楽じゃない」でとどまってしまうかもしれません。

<<< Track List >>>
1. Be bop alula
2. Eddie sois bon
3. Depuis que ma mome
4. Hey Pony
5. Twist again
6. Cherie oh cherie
7. Twist a St Tropez
8. Les fous du twist

CD BORN BAD RECORDS BB006 / LP BORN BAD RECORDS LPBB006
フランスでのリリース ; 2007年10月

( http://www.myspace/bornbadrecords に詳細あり)
 

2007年9月12日水曜日

天気が良すぎて働けない



レ・パリジエンヌ「全録音集 1964-1969」
 LES PARISIENNES "L'INTEGRALE"

 「ア・ラ・モード」という言葉は60年代から既に日本で通用するカタカナ・フランス語でした。この4人の若いパリ女性はとてもアラモードで,レナウンわんさか的で,資生堂花椿的です。クーレージュやジバンシーやパコ・ラバンヌが衣装を担当していたようです。
 60年代の国営テレビORTFのヴァラエティー番組"AGE TENDRE ET TETE DE BOIS"(司会アルベール・レネ)のレギュラー楽団のリーダーであったクロード・ボーリングに,若き作曲家/プロデューサーであったベルギー人,ジャン・クリューガー(フランス語読みではクリュジェ)が,せっかくこの人気番組に出ているのだから,何か新しいものを作ろうよ,アメリカ流のジャジーなガールズ・グループなんかどうかな,と進言したのがことの始まりです。ディキシーランド・ジャズ一辺倒だったボーリングは,一転してここでテンポの早いフォックストロット曲を作ってみます。そして作詞家のフランク・ジェラルド(のちにポルナレフ「ノンノン人形」「愛の願い」などを書くヒット作詞家です)のところに持っていって,このテンポの早いモダンな曲に「天気が良すぎて働けない Il fait trop beau pour travailler」といううってつけの詞をもらいます。
 そしてこの曲の録音に当時はまだ裏方歌手であったニコル・クロワジール(「男と女」の3年前),ダニエル・リカーリ(サン・プルー楽団「ふたりの天使」),そしてあと二人のコーラスガールを集合させます。これがレ・パリジエンヌの第一回めの録音でした。ボーリング+クリューガー+ジェラルドの3人はこれがヒットするとは思っていなかったようです。しかしラジオでの受けが非常に良く,あわててしまいました。
 このテレビ番組"AGE TENDRE ET TETE DE BOIS"のある回にダンサーとして出演した若い女性レイモンド・ボルンスタインが,ボーリングのところにやってきて,実は歌手になりたいのだけれど,と相談します。ボーリングにはこれは渡りに舟で,さっそく彼女に「天気が良すぎて」を聞かせてみます。「これが気に入ったら,あと3人歌って踊れる子を探してグループを作るよ」。ボーリング+クリューガー+ジェラルドは多くの女の子たちをオーディションし,アンヌ・ルフェビュール,アンヌ=マリー・ロワイエ,エレーヌ・ロンゲを採用し,レイモンド・ボルンスタインをリーダーとする女声コーラス・クワルテット,レ・パリジエンヌはここでやっと「姿かたち」を持ったのです。つまり,記念すべきデビュー盤で彼女たちは歌っていなかったのです! テレビ時代ならではのエピソードです。
 そしてこの4人はニコル・クロワジールから歌唱指導を受けて,2枚目のレコードから実際に彼女たちが歌うようになります。歌って踊れてファッショナブルな4人娘はテレビのおかげで大変な人気を獲得し,このグループは年に3回の頻度でシングル盤を発表し,7年間活動を続けます。
 2007年フレモオ&アソシエ社は,権利保有者のユニヴァーサルから初めて社外リリースの許可を得て,レ・パリジエンヌがフィリップス・レーベルに1964年から69年までに残した全録音71曲をCD3枚組ボックスで復刻しました。快挙です。これまではユニヴァーサル・フランスからベスト盤(19曲)がありましたが,3.7倍のヴォリュームですから。
 ルノー4Lのようにポップでエレガントで,焼きたてのバゲット・パンのようなパリっぽさ,あまりハモらずにほとんど4人がユニゾンで歌うスタイルもしゃれていました。映画「ボルサリーノ」の音楽などでも知られるジャズマン,クロード・ボーリングの軽快ジャジーなメロディー&リズムと,フランク・ジェラルドの都会的な皮肉とエスプリたっぷりの歌詞もパリ的でした。
 そして,ちょっと注目していただきたい,重要なことがあります。それはジャン・クリューガーの存在です。このベルギー人は父親がジャック・クリューガーという音楽プロデューサー兼パブリッシャーで,親子2代の業界人です。息子ジャンは作曲家・プロデューサーとして,のちにダニエル・ヴァンガルドと組んで,世界的な活動をすることになります。クリューガー/ヴァンガルドは,ライター/コンポーザー/プロデューサーとして,70年代にカリブ・ラテンのバンド,ギブソン・ブラザースをはじめ,ディスコのオタワン("D.i.s.c.o."!),そしてフレンチ・カリビアンのバンド,ラ・コンパニー・クレオールをヒットさせ,今日のダンス・ミュージック愛好家たちからも高い評価を受けています。(ダニエル・ヴァンガルドはダフト・パンクの片割れトマ・バンガルテールの父親です)。
 このレ・パリジエンヌの全録音集71曲にも,作曲者としてジョン・クリューガー,ダニエル・ヴァンガルドが個別にクレジットされているものがあり,その上クリューガー/ヴァンガルド・コンビの作品も3曲含まれています。クリューガー/ヴァンガルドになると,これまで軽妙ジャジーだったレ・パリジエンヌの世界が,俄然レア・グルーヴと化してしまいます。ベースラインが違ってしまうんですね。ワウ・ギターなんかも入ってきますし。
 CD2の20曲めにクリューガー/ヴァンガルド作曲,フランク・ジェラルド作詞の『ヤマモト・カカポット』という歌があります。ミディアム・ファンキーなこの歌をレ・パリジエンヌは偽・日本語とフランス語で歌っています。それはそれで衝撃的な1曲です。その3年後の1971年,この歌はクリューガー/ヴァンガルドの偽・日本サイケ・グルーヴ合唱団「ヤマスキ・シンガーズ」によって再録音され,その際には完璧なメタ日本語で歌われています(ヤマモト,モトクタサイ)。日本でも好事家たちの間で話題の「ヤマスキ・シンガーズ」のオリジナルがレ・パリジエンヌで用意されていたとは,たいへんな驚きでした。
 近いうちに「ヤマスキ・シンガーズ」もここで紹介しましょう。

3CD FREMEAUX & ASSOCIES FA491
 (12ページブックレット:クロード・ボーリングとフランク・ジェラルドの対談つき)
 フランスでのリリース : 2007年9月10日

2007年9月10日月曜日

バラの名前(バガテルの午後)



 ←(左側の写真は、モザイクやぼかしを使ったわけではありまっせん。太陽光線で私の顔が溶けてしまったのです。ドラキュラみたいな爺であります)。

 昨日の日曜日の午後はブーローニュの森の中のバガテル庭園のバラ園で過ごしました。バラ展が6月から開かれているのを知りながら、ずっと行けなくて、やっと昨日行った時にはバラはほとんど終わっていました。それでも娘はデジカメで咲いている花を122枚も撮影して、ひとつひとつ香りを楽しんで、落ちている花びらを集めていました。花びらは家に持ち帰って、自分がもらった賞状の額縁の中に入れて、賞状の飾りにしていました。
 すぐに影響を受けやすい子なので、昨日の午後の美しさに触発されて、将来は「バラ栽培師」になって、自分の名前のバラを作るんだ、なんて言っていました。バラは毎年どんどん新しいものが出来ていますが、本当に美しいバラは品種改良によってできるのではなく、自然の条件とバラ師の愛情によってできるのだと思います。素敵な職業だと思います。
 その後、家に帰って夕食の時に娘と長い議論になりました。アルカイダのニュースなどが引き金になったのだと思います。なぜ戦争はあるのか、なぜ人を殺すための武器はあるのか、ということを娘は憤っていました。イスラエルやレバノンやイラクやアルジェリアではどうして人が殺されているのか、ということを娘は「武器があるからだ」と喝破しています。武器・兵器がなければ、人間は殺し合わずに口論するだろう、と娘は言います。口論は自分たちだってするのだ、だってみんな違う意見を持っているのだから、だけど自分たちは殺し合いは絶対にしない、と13歳の少女は考えています。そしてセシル・カストールは、世の中から武器をなくすためのアソシアシオン(NGO)を創りたい、とまで言いました。私は(意地悪な心も皮肉な心もなく)娘が言ったそのことを2007年9月9日の記憶として残してやろうと思って、この数行を書いています。子供の頃や少年少女の頃はみんな戦争反対だったはずなのに、いつ頃からか「戦争もありだよね」という相対論になってしまったのか、あなたは記憶していますか?
 

ジャン=フランソワ・ビゾーの死



 フランスのカウンター・カルチャーを代表する雑誌『アクチュエル』と自由FM局のパイオニア RADIO NOVA(ラジオ・ノヴァ)の創始者,ジャン=フランソワ・ビゾーが9月9日にガンで亡くなりました。63歳。
 富裕な家庭の出で,厳格なカトリックの教育を受けたそうです。67年にエクスプレス誌のジャーナリストになった後,68年5月革命に大きく揺さぶられ,第三世界(特に中南米)の革命とアメリカのカウンターカルチャー,そしてフリー・ジャズとプログレッシヴ・ロックで,ビゾー自身の言葉では「アンダーグラウンド」化してしまったわけです。
 70年に雑誌『アクチュエル』が創刊されます。エコロジー,女性解放,アンダーグラウンド・ポップ,ゲイ解放,ポルノグラフィー,ニューエイジ...その他,前衛でオールタナティヴなものがすべてあった「危険雑誌」でした。一度廃刊宣言をして,79年に再開し,最終的に94年に終刊した時にはブランシェ(最先端)ながらも目立たない雑誌となっていました。
 81年にサン・タントワーヌ通りの『アクチュエル』編集部の一室から自由FM局RADIO NOVAが産声を上げます。ジャズ,パンクロック,ヒップホップをいち早くバックアップし,彼らが「ソノ・モンディアル」と名付けた新しい世界のビート音楽が,世界的な「ワールド・ミュージック」現象の先駆となります。こうしてジャン=フランソワ・ビゾーもオーバーグラウンド化していったのですが。
 ビゾーとは一度だけ10年ほど前に,NOVAの社屋でレミー・コルパ・コプール(音楽評論家,RADIO NOVAジャーナリスト)と話していた時に,レミーに紹介されて挨拶を交わしたことがあります。アンダーグラウンドのドンは私に深くおじぎしたので,私も深くおじぎして返しました。今日,もう一度深くおじぎして合掌します。

 

2007年9月9日日曜日

マジでヤキを入れる



 マジッド・シェルフィ著『ヤキ』
 Magyd Cherfi "LA TREMPE"

 ゼブダの作詞家・ヴォーカリスト、マジッド・シェルフィの2冊めの本です。1作めの"LIVRET DE FAMILLE(家族手帳=戸籍謄本)"は2004年に出ていて、その前年にゼブダは活動休止しています。短編小説集のようなスタイルの本で、マジッドの初ソロアルバム"CITE DES ETOILES"(2004)に呼応する、トゥールーズの北郊外のシテの人間模様を自伝的に綴ったものでした。
 その続編の『ラ・トランプ(ヤキ)』も2作目のソロアルバム"PAS EN VIVANT AVEC SON CHIEN"(2007)と4ヶ月の時差で発表されています。ただし、この時差は重く、アルバムはサルコジ候補者の時期、本はサルコジ大統領の時期に出ています。CDアルバムの「犬と一緒に生きるのではなくて」というよくわけのわからないタイトルは、この本の2番めの短編の題になっていて、やっとどういう状態でこの言葉が出て来たのかを理解できます。
 それは犬嫌いの母親と犬好きのソーシャル・ワーカー兼修道シスターの心の触れ合いのストーリーで、シスターの飼っていた犬が近所の悪ガキたちに誘拐され、虐待の末、生け贄として殺されそうになるところを、実はその悪ガキたちと一緒に遊んでいた少年マジッドが、悪ガキたちの側にありながら最後のところでこの犬を助けてしまうのです。そしてシスターのところに連れ戻すと、母親はその行いをほめるだけでなく、シスターと初めて和解してしまうという結末なのですが、母とシスターの観点の違いは、神は人間に人間を作るように教えてあるのに、シスターはそれをしていない、ということなのでした。人間のつとめを果たさなければ神の道は人に説けない。シスターも子供を作らなければならない。マジッドは母に「でもシスターはできないよ」と言うのですが、それに対して母親は「犬と一緒に生きていたらできないよ Pas en vivant avec son chien。」と結論するのでした。名人落語のような一席です。
 『ラ・トランプ』は冶金の工程で、窯で赤熱させた金属を出して水で急冷させることで、「焼入れ」という訳語が辞書にありました。マジッドにはいろいろな思いがあると思います。だんだんいびつに変容していくサルコジ流の社会にもう一度ヤキを入れ直したいという気持ちもあるでしょう。あるいはゼブダの休止というのは、熱かった自分たちが急激な冷水に打たれてしまったということでも考えているでしょう。
 第一話の「ゼブダの夜」はおそらくゼブダで最も苦渋に満ちた体験を書いたものでしょう。たぶんその夜にゼブダは終わった、という最後の夜のことだと私は読みました。それはある町の招きで、その町のシテ(低所得者向け公営高層住宅街)で無料コンサートを開くというものだったのですが、トラックで楽器を積んで7人組ゼブダが行ってみると、そこは彼らでさえ知らないような違う空気があり、ステージのセッティングをしていると寄ってきた住民の子供たちと話をしようとすると、トルコ系移民のようでフランス語すら話すことができないのでした。主催側スタッフが来て、この町はゼブダを迎えられて光栄です、あなたがたはフランスのマルチカラー文化の鑑です、みたいな褒め言葉が出て来るのですが、マジッドはとてもいやな予感を抱きます。その言葉とさっき見たフランス語を話せないトルコ小僧たちとの大きな隔たりを感じたからです。ゼブダはゼブダで、ロックンロールは(ひいては彼らの音楽は)それを越えられるものがあるから、彼らは人々の前で存在できているのだ、という自負がありました。しかし、その夜、ロックンロールは何も越えられないのです。シテの人たちが集まりコンサートが始まり、一部の人たちの熱狂をよそに、後方でビールを飲んでいる一団がいます。何曲かの後、ステージにものが投げられてきます。紙コップからペットボトルから、やがてもっと固いものが飛んできます。マジッドとムースとハキムは、メチャクチャに楽しもう、と客を乗せていながら、そのメチャクチャな楽しみを違うやり方で行う群衆の前で、彼らは退散せざると得なくなったのです。もはや演奏できる状態ではない。観客は抑えがきかない。物がどんどん飛んで来る中、楽器をたたみ、トラックに乗り込み、ゼブダはその夜町のホテルにも泊まらず、帰路につきます。言わば潰走です。マジッドはそのトラックの中で、ゼブダのひとりひとりのメンバーの寝顔を見ながら、この冒険が今夜終わってしまったのだ、ということを感じます。
 その他、兄が12歳で職業コースに入れられたことを、カビリア(アルジェリア)移民の母が、息子の社会的な「死」として悲しむ第三話「青の作業着」も、気丈な母親の激しく地球的な人間味がよくあらわれた作品です。そして20年間一緒に暮らしている女性との、冷えてしまった関係を、弁解でない言葉で解決のないことを一生懸命さがしている自分を吐露する第七話「破局」も泣かせます。これもロックンロールの死と同様、納得を越えた不可抗力のように思えます。
 最後に第八話として付け加えている「国民としての身分証明と、何人かの保守系ブール(アラブ人)について」という、サルコジ大統領誕生前後の状況についての省察があります。「フランス人になることができないのはアラブ人と黒人である」というサルコジをはじめとした保守系の人々の思想と政策を、なんとかソフトに味付けしようとしてブール(マグレブ移民第二世代)出身の大臣が次々に登場していますが、マジッドはその保守系ブールが自分たちの親と自分たちの歴史を打ち消すことになることを自覚していない、と怒りを露わにします。この部分は物語ではなくオピニオンです。
 言わなければならないことが、音楽で表現しきれなくなったのは、ゼブダの潰走からのことだと思います。マジッドは人情物語の優れた書き手です。そしてブールのオピニオンを的確に表現してくれる論客でもあります。まだしばらく書いていてくれても、十分に私には有益な著者です。ゼブダがどんどん遠のいていくようですが、マジッドの道はこれでいいのかもしれません。

 Magyd Cherfi "LA TREMPE" (Actes Sud刊 2007年8月 164頁 15ユーロ)

 

2007年9月6日木曜日

そして今は(イ・アオラ・ケ?)


 マニュ・チャオ『ラ・ラディオリーナ』
 MANU CHAO "LA RADIOLINA"
 
 「ロック&フォーク」誌9月号のマニュ・チャオ記事(ニコラ・アシン筆)の序文が興味深いです。「70年代から音楽ジャーナリズムにひとつの格言があって,それは今日もまだ核心を突いている。それによると世界は大きくふたつのカテゴリーに分けられ,一方にはブルース・スプリングスティーンが嫌いな人々,他方にはスプリングスティーンのライヴを見た人々。これはマニュ・チャオにこそよりよくあてはまる」。 マノ・ネグラであろうがラジオ・ベンバであろうが,マニュのライヴを見た人たちは,グレッチのギターがやたら大きく見えるこの小さい体の男は,世界一のロックンローラーであるということを疑わないでしょう。私はこの男のライヴを見たことがない人たちは不幸な人々であると言い切ることができます。
 スタジオ録音のアルバムは初ソロの『クランデスティーノ』(1998)から,そのエネルギーの塊みたいな姿とあまり縁のない作品を作ってきましたが,それはそれでマニュの持つメランコリックな部分を表出するために必要な表現手段であったと思います。メランコリックなソロアルバムが2つ続いたあと,さあ次は(イ・アオラ・ケ?)とラジオ・ベンバ的なものを期待した人たちも多かったでしょう。しかしこのソロ3枚目の『ラ・ラディオリーナ』も,ラジオ・ベンバのライヴと似つかない「小音量」ソロアルバムでした。これはマニュ・チャオが「スタジオの顔」と「ライヴの顔」をはっきり使い分けているのでしょう。言わば "DOUBLE-JE"なんですが,その両方が極上なのですから,何も文句はありまっせん。
 そしてこの『ラ・ラディオリーナ』は『クランデスティーノ』の黒々としたメランコリアに比すれば,たいへんなモラルの上昇加減が感じられます。スタジオで音と遊んでいる雰囲気も,マニエリスム的な『クランデスティーノ』と『プロキシマ・エスタシオン』に比べれば,繰り返し引用もずいぶん少なくなったようで,アイディアの豊富さの方が勝っている感じがうれしいです。
 そして戦闘的なメッセージはさらにわかりやすく,グローバリゼーション,政治汚職,ブッシュの覇権主義,環境汚染などを糾弾します。「環状道路にクルマがいっぱい」と歌う「パニックパニック」(14曲め)は残念なことに語呂遊びも風刺もかなり弱いですね。「政治は殺す(ポリティック・キルズ)」(3曲め)はボブ・マーリー讃歌「ミスター・ボビー」の再引用ですが,これくらいわかりやすい政治メッセージの方がマニュ・チャオの本領だと思います。もうひとつの世界は可能だ,ともっと言ってください。
 しかしこのアルバムでもっと印象的なのは,哀愁のトランペットや泣きのレキントギターなどが響くヒスパノ的でラテン的なバラードもので,「マラ・ファマ(悪い噂)」(13曲め)や,マラドーナ哀歌「ラ・ビーダ・トンボラ」(12曲め)が美しいです。
 先行でオフィシャルサイトで公開された「レイニン・イン・パラダイズ」(3曲め)のようなロックモードの曲は,4曲ほど入っているんですが,ギターの音はみんな相互引用で,どれもみな変奏曲という感じのマニュの茶目っ気が利いています。
 世界規模のヴィジョンを日曜大工的なこれだけの音とこれだけの材料で表現できるのですから,脱帽ものですね。続けてください。ライヴに行きます。次作も買います。トータル・リスペクト。
 .... PS:今CDにエンヘンストされている映像"TEVELINA"を初めて見ました。本当の地球人,そんな言葉が浮かんできました。

<<< Track List >>>
1. 13 Dias
2. Tristeza maleza
3. Poltik Kills
4. Rainin in Paradize
5. Besoin de la lune
6. El Kitapena
7. Me llaman calle
8. A Cosa
9. The Bleedin Clown
10. Mundo Reves
11. El Hoyo
12. La vida tombola
13. Mala Fama
14. Panik Panik
15. Otro mundo
16. Piccola Radiolina
+ Bonus
Y Ahora que?
Mama cuchara
Siberia
Sone Otro Mundo
Amalucada vida
+ Enhenced CD(video tracks)
TEVELINA


CD BECAUSE BEC5772125
フランスでのリリース:2007年9月3日

2007年9月5日水曜日

世界のおゔぁり(l'Ovalie du Monde)



 ハカ。世界のおゔぁり。あさって9月7日からラグビーW杯がフランスで始まります。楕円の世界であります。テレビではW杯CMスポットでジダンにラグビーを教えるというものがあって,足技の妙技を見せるジダンにコーチが「手を使え,手を!」と叱る,という笑える作品でした。私の仕事関係では,「オール・ブラックス・オフィシャルCD」のようなコンピレーションものが数社から出ていて,こんなんで商売になるんかなあ,と思って見ておりましたが,ハカの声入りのCDは結構売れているようです。この暮は忘年会の宴会ネタで,ハカをやる男たちが出てくるはずです。
 ピエール・バルー翁がその最新アルバム『ダルトニアン』で"Ovalie"(楕円の国)という曲を歌っています。オヴァリーという夢の国は国境がなく,精神の国(etat d'esprit = 通常の訳では「精神状態」)なのだ,と歌詞は言っています。気まぐれな楕円球を手から手に渡す戦士たち,運命は楕円球のバウンドのように不確かなもの,この戦いは友情の証し,そういうものから出来ている精神の国がオヴァリーである,とピエールさんはラグビーを讃えるのですね。
 フランス大衆の多くは,オール・ブラックス(ニュージーランド)対フランス,という夢の決勝を待望しているのでしょうが,そこまで行ったら,ますますサルコジに勢いをつけることになりましょうね。と言うのはフランスチーム監督のベルナール・ラポルトはこの大会が終わると,政府閣僚(スポーツ・青少年担当相?)になることに既に決まっているのです。私としては準決勝敗退くらいが望ましいのですが....まあ,がんばって欲しいですね。
 あれ?日本チームも出ているんですか? オーストラリアと同じBグループですね。まあ,がんばって欲しいですね。

2007年9月4日火曜日

ジョニーは天使じゃない (Tu n'es pas un ange)


 ジョニー・アリデイのお母さんユゲット・クレールが先週水曜日に88歳で亡くなったそうです。ある種国民のヒーローのご母堂ですから、ファンの人々には国民的悲劇と見ている人もいるようです。
 ポップ・フランセーズの40年史を書いていた時も、どこかでこの人は外してはまずいのではないか、という重圧があったのですが、どこかで入れよう、どこかで入れようと思いながら、遂に入れませんでした。考えてみたら、この人のレコードはほんの数枚のシングル盤しか持っていないのでした。LPは1枚だけ『ロックンロール・アチチュード』を持っています。CDはライヴもので95年の"LORADA TOUR"のジッポー・ライター型金属ケース入りを持っています。パフォーマーとしては認めても、アーチストとしてどうなんだろうか、という疑いがあって、やっぱり私には苦手な人なんですね。サルコジのダチでもありますし。
 そのジョニーが11月12日に新しいスタジオアルバムを出すのですが、ステーツ録音の「ブルース・アルバム」だそうです。目玉はU2のボノが2曲も提供しているんですね。ボノとは古くからの友だち(なんか罠にはまりそうな言葉ですね。サルコジの「友だち」がボノの「友だち」でもある、ということが可能なのは、「友だち」ではなくて「知り合い」程度のことでなければありえないことでしょう)で、モナコ滞在中にボノが会いに来て、I want to write you a blues, man と言ったんだそうです。その曲は"I am the blues"というタイトルの英語曲で、今度のアルバムのハイライト曲になるみたいです。
 ブルースの巨人ジョン・メイオールとタージ・マハール(故キャロル・フレデリックスの兄)や、フランスのブルースギタリスト、ポール・ペルソヌなども参加しているそうです。またフランシス・カブレルの91年ヒット『サルバカンヌ(吹き矢)』のカヴァーもやっているそうです。
 ここまではいいんです。この他にこのブルース・アルバムのために参加や曲提供を要請していた人たちがいて、それを拒否した人たちの名前を見てちょっとびっくりしました。ライ・クーダー、 BBキング、そして.... ベルトラン・カンタ。これは「友だち」の罠です。ベルナール・クーシュネールを外務大臣にしたサルコジと同じ戦略です。当人が拒否したのは当然としても、ベルトラン・カンタを「抱き込もう」という魂胆は、許せないものがあります。

2007年9月3日月曜日

ワイと自由 (Oai e Libertat)



 マッシリア・サウンド・システム『ワイと自由』
Massilia Sound System "OAI E LIBERTAT"
 
 マッシリアが10月1日リリースの新スタジオ録音アルバムを送ってきてくれました。『オクシタニスタ』から5年,20周年ライヴ盤から3年,ずいぶん待たされましたが,マッシリアのそろい踏みはやはりずっしり重いものがあります。
 3つの分科会活動(タトゥーとブルーの「ムッスーT&レイ・ジューヴェン」,ジャリの「パペー・J・ドットコム」,ガリとリュックス・Bの「ワイ・スター」)というマッシリアの開かれた可能性(タトゥーのフォーク〜シャンソン・マルセイエーズ的志向,ジャリのエレクトロ・ラガ趣味,そしてガリ&リュックスの苛立ちロック傾向)を,統合的に閉じるのではなく,開きっぱなしでコラージュしたようなせめぎ合いもスリルもあるアルバム。総合的にはやっぱりタトゥーのリーダーシップが最後にまとめている感じです。ガリ&リュックスの暴れん坊ぶりも,ジャリの浪曲語り節も,タトゥーのレイジーブルース(7曲め "Ton balanle")も,3者揃えば,ジョン,ポール,ジョージのいるビートルズの味わいでしょうか。このアルバムはどこかアルバム『ゲット・バック』を思わせるものがあります。
 10曲めの『大恐慌』は19世紀のマルセイユ詩人ヴィクトール・ジェルーの歌を取り上げていて,マルセイユの反中央集権的なエスプリが蛮歌風に表現されています。こういうプロヴァンス/マルセイユへのリスペクトが,マッシリアのアイデンティティーであり,もう4半世紀もそれを貫いてきた気骨は,やはり時々前線に帰ってきて見せてほしいものです。
 もうMyspace( myspace.com/massiliasoundsystem )で公開されている1曲めの『マッシリア・ファイ・アヴァン(マッシリアは前進する)』は,「子供たち,安心しなよ,おっさんたちは帰ってきたで」のようなマニフェスト曲です。
 それから6曲めの『マイクが壊れた Lo micro es romput』では,もうマルセイユ風ラガマフィンは歌わない(マイクが壊れたから)と寂しいことを言っていますが,挿入されるメロディーが「ワルシャワ労働歌」で,どこか年寄りっぽく感傷的です。

 いずれにしても『オクシタニスタ』の多彩さに比べれば,ずっと音数も少なく,サウンドのアルバムと言うよりはずっと「歌」のアルバムです。歌いたいことが前面に出たアルバムと言いましょうか。あと数日かけて歌詞を訳したら,どこかに発表しましょう。

<<< Track List >>>
1. Massilia fai avans
2. Rendez-vous a Marseille
3. De longue
4. Oai e Libertat (Tati N'inja reviendra)
5. Toujours (... et toujours)
6. Lo Micro es romput
7. Ton Balanle
8. Au marche du soleil
9. A l'agonie (part 2)
10. Lo grand tramblament
11. Dimanche aux goudes
12. Laissa nos passar

CD Adam/Wagram 3126732
フランスでのリリース:2007年10月1日

2007年9月2日日曜日

ピエール&ジル



 今日の午後はチュルリー庭園の中のジュー・ド・ポーム美術館で、ピエール&ジルの1976-2007回顧展『Double Je』を見に行きました。娘とそのポルトガル人の友だちカリナと3人でした。ピエール&ジルの作品はキッチュ&ゴシックな実写写真+イコン画的きらびやかな背景のものが多いのですが、ホモセクシュアリティーのアイデンティティーがはっきりしているので、13歳の少女二人には男性器がモロに出ている画像はどうしたものかなああ....とハラハラしていたのですが、結構楽しんでいたようなので、ちょっと安心。
でも、アートって何なんでしょうねえ。こういう立派な美術館に入ってしまうと、やっぱりかしこまって見てしまいますけど、これが日本のデパートの展示会場だったら、違う目で見ているでしょうね。ピエール&ジルはレコード・ジャケット(エチエンヌ・ダオ、ミカド、リオ...)で私は見慣れているわけですが、アートとしてどうか、という点では、今日みたいに美術館に行かなければありがたみはわからなかったかもしれないですね。これは実寸で見ようが縮小のカタログで見ようが、インターネットで公開されているような図で見ようが、あまり変わらないようですね。そういう意味でアンディー・ウォーホル的なコピー可能なポップアートなんでしょうけど。
 ちょっと使い捨てでかまわないようなアートのように見てしまいました。

2007年9月1日土曜日

セシル・カストールの作品



 フランス語でも日本語でも娘(13歳)がちゃんとした文章を書けないということを私はずっと気にしていました。書けないということは自分の中に何も書くことがないということなのか。友だちへの手紙でも、学校の作文でも、どうやって書いていいのかわからない、というのがそれまでの娘で、しかたなく私は手伝ったりヒントを与えたりして、なんとか自分で書くということの糸口を見つけてやろうとしていました。この夏の終わり、やっと本を読む喜びを少し覚えたらしく、今読んでいる本(ハリー・ポッターの少女篇のような、魔女見習いの少女のラヴストーリー)が面白いと盛んに言うので、「そういうストーリーって自分で考えられない? 自分で自由に物語を作ってみれば?」と勧めたら、2日かかって短い3頁くらいの創作ストーリーを手書きで書き上げました。
 私は娘を祝福し、今度はこのストーリーをもっとふくらませて書こうね、と「ロングヴァージョン」をお願いしています。30秒フィルムから2分フィルムぐらいにするように、シナリオに細部の出来事を足して行こうね、と。
 親ばかと言われてもかまいません。私はここに娘の初めての創作作品を公開します。そしてそれが数日後、数週間後にどれだけシナリオとして肉付けされるかも公開したいと思います。これは娘セシル・カストールのプロトタイプ作品です。原文はフランス語です。日本語訳は私がしました。

 『リラのヴァカンス』 − 文:セシル・カストール

 その日、私がコロニー(ヴァカンスの集団旅行)に行くということを母は寂しがった。そして父も。でも私はそこに行かなければならないかのようにその申込みをしたのだ。引率者がアルファベット順に子供たちの名前を呼んだ。私の名前が呼ばれ、私はバスに乗り込んだが、その前に私の父母と妹に別れのあいさつをした。バスの中でひとりの少女が私に手で、自分の隣においでと合図をした。バスでの道中、私たちは知り合いになった。
 私たちのキャンプ地に着いて、カミーユという名のその友だちはシャレーの寝室で同室になった。そして同じ部屋にジュリー、アニー、アナイス、ジョアンナという子たちがいた。部屋の中には二つのシングルベッドと二つの二段ベッドがあった。
 「私が端っこのベッドを取ってもいい?」とジュリーが私に聞いた。
 「別にいいわよ。でもそこにいる子は誰?」と私は少女たちに聞いた。
 「あれはニーナよ。でもあの子はちょっといやな子なの。私たちにとってはね」とジョアンナが言った。
 私たちの引率員はセリーヌという名前で私たちは「セセ」とあだ名していたが、彼女は私たちに食堂で夕食を取るように告げた。私はそこで可愛い男の子を見つけ、アニーにその子の名前を聞いたら、ジョスランという名前よ、と答えた。ジョスランは私たちのテーブルの女の子たちを知っているから、女の子たちに寄ってあいさつをし、そして私にもボンジュールを言った。ジョスランは私の目をまっすぐに見つめた。それは私にとって雷の一撃のようだった。そしてそれは彼にとっても同じであってほしい、と私は思った。
 次の日、私たちはジョスランの部屋の子たちと一緒にフットボールをした。その午後はみんなで浜辺に行った。ジョアンナとアニーが海に行っている間、私たちは日光浴をしていた。
 ジョスランとその友だちが私たちに寄ってきて、ビーチヴァレーをしないかと誘ってきた。もちろんチームは男女混合で、私はジョスランのチームに入った。やった!私たちのチームが勝った。そして私は坐って休もうとその場を離れたら、ジョスランがもう一回試合をしようと私に言った。もちろん私は断らなかった。
 数週間して、自由時間にセセが私たちに手紙を配っていた。その時ニーナがやってきた。「何が欲しいの?」と意地悪にアナイスが言った。すると彼女は「私の両親に手紙を書きたいから、誰か紙をわけてくれない?」と言った。アナイスは「残念だけど誰も持ち合わせていないわ」と言った。アナイスは「ニーナは何か違うことをたくらんでいるのよ」と小声で私に言った。
 その夜はダンスパーティー(ラ・ブーム)、ジョスランはそれまで何も私に聞かなかったのに、噂をすれば影、彼は私の方に向かってきて「僕とダンスしてくれない?」と聞いた。私は「OKよ、素敵だわ」とジョスランに言った。
 次の日は出発の日だった。私は身の回り品をトランクに詰めていたら、ジョスランが近づいてきた。そして帰りのバスの中で隣の席に坐ってもいいかい?と聞いた。私はもちろんOKよと言った。
 引率員が全員の名前をアルファベット順に呼んで、私はバスに乗り込みジョスランの隣に坐った。
 バスが着き、辺りを見たら父がいないのに気がついた。バスを降りる前、私はジョスランの顔をじっと見つめた。そしてバスを降りて母と妹のところへ駈けて行った。「お母さん、お父さんはどこにいるの?」すると母は「お父さんは仕事の遅れでまだ事務所にいるのよ」と言った。私たちは家に向かって歩きだした。とても悲しくて、同時にとても満足だった。

- Fin -