2017年3月12日日曜日

センチメンタル1000日

ラウディオ・バリオーニ「きみと僕の1000日」(1990年)
Claudio Baglioni "Mille Giorni Di Te E Di Me"(1990)

 バリオーニの1990年のアルバム『オルトレ(Oltre)』 のイタリア盤オリジナルはLP2枚組20曲入りで出たのですが、私はフランスにおりまして、当時のSony Musicがオランダ、イギリス、フランスなど向けに出したCDアルバム『オルトレ』は11曲入りで、ジャケットもイタ盤とは異なっておりました(→CDジャケ。↓2LPジャケ)。Discogsのデータによると、CD2枚組20曲(完全)盤は2011年にヨーロッパで発売になっているようですがフランスでは見かけません。
  1990年、ワールドミュージック現象が音楽シーンを賑わしていた頃で、このアルバムにもユッスー・ンドゥール、リシャール・ガリアノ、パコ・デ・ルシアといったゲストが参加しています。とは言っても、ちっともワールドっぽいところのないアルバムで、欧州の凄腕ミュージシャンたち(トニー・レヴィン、ピノ・パラディノ、マニュ・カッチェ...)
に支えられたいつものバリオーニ調メロディー&サウンドです。
ここで紹介する「きみと僕の1000日」は、オリジナル版2LPではC面の5曲め、欧州版CDでは10曲めに収められたバラード曲です。詞は "bellaitalia.free.fr"というアマチュアサイトが約650もイタリアの楽曲をフランス語に翻訳していて(Un grand merci au passage!)、その仏語訳詞から日本語詞にしてみました。そりゃあコンピュータソフトの訳ではなく人間訳なので、ずっとフランス語っぽい翻訳になってますけど、まだまだ難しい。要するに、3ヶ月足らず1000日を一緒に暮らして破局してしまった男女のことなんですが、「世界が二人を羨むほどの」という内容があるので、スター的私生活のことだったんじゃないでしょうか。つまりバリオーニのプライヴェートに大きく関係した歌詞のように思えます。結構弁解がましい。芸能界、おおいやだいやだ。
 詞よりもずっとずっと心惹かれるのは、曲頭のドラムスの切り出し。これは手持ちの欧州版CDのブックレットに書いてあるパースナルによると英国人ドラマー、スティーヴ・フェローニ(アヴェレージ・ホワイト・バンド)が叩いていることになってます。ところが Discogsの資料(1990年イタリア版2LP)によると、ドラマーはチャーリー・モーガン(エルトン・ジョン・バンド)となっている。さあ、どっちなんでしょう(わたし的にはどうでもいいことなんですが)。何はともあれ必殺のドラムスイントロデューシングで、それに続くピアノのイントロメロディーが極上の哀愁もので、歌が始まる前に世界幾万の哀愁音楽ファンは魅了されてしまったことでしょう。そういう曲です。以前紹介した「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」と同様に、超絶延音ヴォカリーズの聞かせどころもありますが、この曲に関しては「出だし24秒だけで十分」というのが私の極論です。
僕はきみの中に隠れ、そして僕はきみのすべてを隠した。誰も僕のことを見つけられないくらいに。そした今、きみと僕はそれぞれの場所に戻っていく。やっと自由になれる、でも何をしていいのかわからない。
僕はきみに弁解も咎めもしない。僕はきみを傷つけまいとして実際には傷つけてしまった。きみは苦しみを抱えながらもしっかり立っていた。僕は被告席に立つよ。

きみの次に恋人になる女は僕の匂いだと思ってきみの香りを嗅ぐだろう。きみと僕はありとあらゆる人たちから羨まれていたんだ。でもきみと僕は何十億の人々を敵に回して勝てっこなんてないのさ。そして恋物語は台無しになった。

きみと僕は何もせずに一緒になったように、何もせずに別れた。結局何もすることなどなかったのだけれど、何かする代わりにゆっくりととても遠くまで逃げていったんだ。何も考えなくてもいいような遠いところへ。

二人がぶち壊される前に僕たちはおしまいにした。きみと僕の愛には終わりがなく僕のためにとっておこうとしたけれど、それがうまくいったと思ったのは束の間、僕はきみを失いかけていることに気がついたんだ。

きみの次に恋人になる女はきみが残した家具を使うことになるだろう。きみが出て行きがけに乱雑に書類を飛び散らかしたままの状態で。僕ときみの最初のシーンのようだけど、モーションは逆だ。

僕たちが知らなければならないこととは逆に、僕たち二人が知ったこと、そして決して理解できないことは、もはや今はないあの永遠の瞬間は確実に存在したということ、それはきみと僕の1000日の日々。

きみに僕の古い友達を紹介しよう、それは永遠に残る僕の思い出、この別れの時の僕さ。僕はきっとまたきみと恋に落ちるだろう….
 (きみと僕の1000日)
きみと僕の1000日。これに「前」をつけて、「あなたとわたしの千日前」とすると、たちまち、ディープな大阪ローカルラヴソングに豹変してしまいます。

(↓)1990年アルバム『オルトレ』のスタジオ・ヴァージョン。


(↓)1991年 TVライヴ。この時バリオーニ40歳。美しい。しかし、途中でむりやり入る拍手の音(フロアディレクターの煽りか)、なんとかならんもんだろうか。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアムでのライヴ。終盤5分20秒頃から、1分半のアウトロ。


(↓)2003年、ローマ、オリンピック・スタジアムでのライヴ。デカいオブジェ装飾がゴロゴロ、フィリップ・デクーフレ舞踊団のような奇抜ダンサーたち、クレージーホースサルーン風な露出度高い女性ダンサーたち....。最後は乱舞ですね。「1000日」というより「千一夜」みたい。

(↓)2006年、マチェラータでのフェスティヴァル、ピアノ弾語りライヴ。



2017年3月11日土曜日

終わりなき世のめでたさ

ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」(1961年)
Gino Paoli "Senza Fine"(1961)

 イタリア語で陣羽織のこと(ウソです)。60年代イタリアを代表するカンタウトーレの一人、ジノ・パオリ(1934年生れ)はそのデビューの頃にこれまた女優・歌手としてデビューしたてのオルネラ・ヴァノーニ(1934年生れ)と熱烈な恋に落ちます。この実生活から生まれたようなラヴソングが「センツァ・フィーネ(恋に終わりなく)」で、1961年にオルネラ・ヴァノーニの初の大ヒット曲となり、パオリ自身の録音もヒットしています。しかし所詮歌なんて嘘っぱちで、恋に終わりは来て、1963年7月にジノ・パオリはその破局のショックにピストル自殺を図っています。死んだらダメだ。生きていかなきゃ。再生して5回のサン・レモ音楽祭出場を果たし、政治的にもアクティヴに活動し、共産党選出の国会議員(1987年〜92年)にもなっています。
 「センツァ・フィーネ」はなんと言っても美しい音階の上昇と下降のあるワルツ曲です。終わりのないくるくる旋回の円舞曲です。目が回り陶酔する男女ダンスです。陶酔しきったらそのまま男女はベッドに倒れこみ、終わりのない夜を過ごすのです。なあんてね。若いっていいですね。
 ディーン・マーチン、ペギー・リーなど国際的な歌手たちにカヴァーされて、「センツァ・フィーネ」は世界的なスタンダード曲になっていきます。また1965年アメリカ映画『飛べ!フェニックス』(ロバート・アルドリッチ監督、ジェームス・スチュアート主演)では、テーマ曲と挿入曲に使われ、コニー・フランシス歌う「センツァ・フィーネ」がこんなシーンで。


 さてオリジナルは、ジノ・パオリとオルネラ・ヴァノーニのエンドレス・ラヴを歌ったものです。歌詞はこんな感じです。
終わることなく
僕ときみの人生ををきみは導いていく
ひとときも息切れせずに
夢見ること
過去のことを
憶えていること
きみは終わりのない
今この瞬間
きみには昨日もなく
明日もない
すべてはきみの両手の中に
きみの大きな手の中に
際限もなく大きな手
月のことなんかどうでもいい
星たちのことなんかどうでもいい
きみこそが僕の月、僕の星
きみこそが僕の太陽、僕の空
きみことが僕が欲しいすべてのもの
それには終わりがない…

そろそろこの記事終わりにしましょう。

(↓)ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ「センツァ・フィーネ」1961年


(↓)ディーン・マーチン「センツァ・フィーネ」1963年


(↓)オルネラ・ヴァノーニ&ジノ・パオリ「センツァ・フィーネ」ライヴ 2005年


(↓)クラウディオ・バリオーニ「センツァ・フィーネ」2006年


(↓)ボズ・スキャッグス「センツァ・フィーネ」2008年


(↓)ゴンタール「イノシシ」2016年


2017年3月8日水曜日

ラ・ノッテ、ラ・ノッテ

ラウディオ・バリオーニ「ノッテ・ディ・ノッテ、ノッテ・ディ・ノッテ」(1985年)
Claudio Baglioni "Notte di note, note di notte"(1985)

 題の出典はエチエンヌ・ダオ「ローマの週末 Weekend à Rome」(1984年)です。歌詞中に "variété mélo à la radio"(メロな流行歌がラジオに)と出てきますが、84年当時のローマのラジオでメロなヴァリエテと言えばバリオーニだったでしょう。
 伊ウィキペディアの数字によると、クラウディオ・バリオーニの最大のヒットアルバムで400万枚を売った1985年の『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ (La Vita è adesso。人生は今、と直訳せず『いざ生きめやも』 と訳したりして...)の最終トラック10曲め(当時はB面5曲め)に収められた曲です。アルバムはヴァージン・レコーズの創始者リチャード・ブランソンが1971年に英国オクスフォード州の城館を改造して作った伝説のザ・マナー・スタジオで録音されていて、ドラムスにスチュワート・エリオット(アラン・パースンズ・プロジェクト)、ギターにフィリ・パーマー、珍しいところでは後年映画音楽の巨匠となるハンス・ジマーがキーボードで参加しています。
 "Notte di note, note di notte"は notte (ノッテ=夜)とnote(ノッテ=ノート、音符、メロディー)の同音異義語を並べた「調べの夜、夜の調べ」(あんまり上手い訳ではなくてゴメンなさい)といった意味です。どうなんでしょうね。さっき伊語→仏語(google translation)経由で訳してみましたけど、星降る夜が音符降る夜みたいになって、人類の希望と共に安らかに恋人と眠れるというポジティヴな歌詞ですけど、バリオーニは歌詞的な面白みは少ないと思いますよ。歌詞の中で、「この夜のこの瞬間にカリフォルニアと日本の間で人類の未来が創造されている」というパッセージがありますが、1985年当時の感覚ではシリコンヴァレーと日本が未来の象徴だったわけです。今は昔。
 歌詞なんてどうでもよく、この歌の最大の聞かせどころは、Bメロからサビへのつなぎに挿入される5音階上昇息継ぎなしの超絶フェルマータ(延音)で、どれほどの小節を全音スラーでつないでいるか気が遠くなるほどのブレスレスのヴォカリーズです。どんな構造の肺を持っているのでしょう。ライヴ録音ではここに婦女子のみなさんのキャーキャー声やため息が集中しているのがよくわかります。ミラクル長息。バリオーニはこの一点でも歴史に残る大ヴォーカリストでありましょう。
調べの夜 夜の調べ
月が犬を惑わせる
通りに隠れている放浪者たちはすべてを知っている
僕たちは歩く
地球が回る音とリズムに従って
パン屋はもう明朝のパンを焼いている
バケツの水はベランダの植物たちを目覚めさせる
朝の太陽は
僕の顔にかかった蜘蛛の巣の糸を
焼き払う
僕を追ってくるひと吹きの風が
ズボンの裾を鳴らしていく
天から降ってきたたくさんの音符を
何本の指で受け止めたことだろう
鍵をかけられた扉の向こう側に
一日の始まりは近い
小さな痛みよ、おやすみ
遊び人たちみんな、おやすみ
墨色の雲の中に、おやすみ
僕たちの息子よ、おやすみ
ここ天国の一角では
すべての匂いが思い出
それははっきりとよみがえる
そして悪い日々の渇きを取り去ってくれ
疲れた心に
平穏の夜をもたらす
調べの夜、夜の調べ
太鼓の皮のように張りつめた夜
ヘッドライトは僕のことを
目で理解しようとしている
落書きで描かれたような世界で
落ち葉を踏んで通り過ぎる人たちのために
今この瞬間に
カリフォルニアと日本の間で
未来を発明しようとしている人たちがいる
今夜 星たちは自由で
夜明けは古い町並みを見間違え
つぎはぎだらけの若い空は
新しい潮風を呼吸する
波打つ砂漠の只中で
妙にかすれた声があなたに聞く
あなたは今まで一体何を浪費してきたのか、と
数々の領収書に おやすみ
風の中に飛んでいって おやすみ
金色の沈黙の中で おやすみ
僕のお宝、おやすみ
ここでは誰もそんなやり方で
きみたちの夢をだれかに盗ませたりしない
希望の光と
新しい歌が
空から降りてくる時
今夜ここに
その音符たちが降りて来て
開かれた手のひらに
人生を見つめてくれる
僕はずっと
いつまでもそれを信じている
僕は愛のまなざしに従って
恋人の傍らで
眠りに落ちて行く

(↓)1985年アルバム『ラ・ヴィタ・エ・アデッソ』 のヴァージョン。 アルバム最終曲なのでアウトロがちと長い。


(↓)1985年ライヴ。アルバム『ラ・ヴィータ・エ・アデッソ』発表年のライヴ。この時バリオーニ34歳。映像と音には細工がないでしょう。つまりあの超延音パートを細工なしで歌ってると思う。


(↓)1995年ライヴ。かなりスローになって、超絶フェルマータが際立つ。すっかりライヴの目玉ナンバーの一つ(大体はショーの最初に歌われると思う)になってる。


(↓)1998年、ミラノ、サン・シロ・スタジアム(すげえ)ライヴ。あの超延音部を走りながら歌ってる。超人的。新体操のおねえさんたち...(ちょっといただけない)。ブオナ・ノッテとベッドに寝てしまう。


(↓)2006年(アコースティック)ライヴ。55歳。さすがにこの頃は婦女子の皆さんのキャーキャー声がない。やっとどんなに美しい曲なのかというのがわかる。4分40秒めからバグパイプが登場。うっとり。


(↓)201X年ライヴ。4分10秒めまでピアノ弾き語り。60歳を過ぎて、さすがに音程がちょっとフラット気味。超絶延音パートもちょっとだけ苦しそうだけどお見事。


 

 

2017年3月5日日曜日

You don't know what love is

Aki Shimazaki "Suisen"
アキ・シマザキ『スイセン』


  年3月、パリの環状道路ペリフェリックの西側(オトイユ門からシャンペレ門)の外側土手はスイセンの花で真っ黄色になり、環境に優しくない自動車族に春の訪れを告げます。そんな時期3月1日にアキ・シマザキの最新作『スイセン』がフランスで刊行されました(ケベックで2016年9月に既刊)。シマザキの13作目の小説で、「アザミ」(2014年)、「ホオズキ」(2015年)に続く、第3の五連作(パンタロジー)(総題はまだついていない)の第3作目になります。
 本作の場所は現代の名古屋で、話者は男性です。『アザミ』の登場人物だったゴロウです。中部地方で大成功している酒造メーカー「酒屋キダ」の現社長で、豪放な人柄で派手な交遊好き+女好き、という絵に描いたような旧時代の日本型経営者タイプです。読み始めから、あ、まずいな、と思ってしまいます。こういう人物はおよそロマネスク(小説的)なキャラクターでないからです。シマザキはこの人物に日本的俗物の要素をどんどん詰め込んでいきます。金と名誉と女。ほとんど戯画化されています。二流大学商科の出、(自家よりも格の低い)良家の娘と見合い結婚、大学生の娘と高校生の息子の進路や交際相手をコントロールしようとする、有名人と一緒に写っている写真で壁を埋め尽くす、女性誘惑のガイドブックの教えを実践して女性が握手で差し伸べた手に接吻する、ゴルフやパーティーや高級バー通いをビジネスとして利用できる、絵が趣味の妻に山荘を買い与えその絵描き滞在の不在を利用して浮気をするがその不倫を妻が知らないと思っている、金と権力がある男にあらゆる女が服従するものだと思っている...。この俗物性のてんこ盛りで、シマザキは日本社会のある種の男性像を際立たせます。欧米人にはエキゾチックで滑稽でネガティヴなパーソナリティーです。アメリー・ノトンブが日本を舞台にした小説群に登場させるエキゾチックな日本人にも似ています。
 企業小説の部分もあります。破竹の勢いで伸びている「酒屋キダ」は同族会社で、ゴロウは社長だが、実権は義理の母(株の50%をホールド)が握っている。二代目社長である父の最初の妻はゴロウを生み、ゴロウが3歳の時に亡くなり、父は再婚して腹違いの妹アイが生まれる。異母兄妹のゴロウとアイは幼少の日から今日までずっと反目しあっている。義母は父を助け会社経営にも参画して「酒屋キダ」の総務責任者になる。ゴロウは勉学が苦手で二流大学の商科に入るのがやっとだったが、アイは一流大学で生物学を学ぶ。 やがてゴロウが30歳の頃に父が急死し、「酒屋キダ」は義母の総指揮のもとゴロウを社長に据え発展を続ける。その発展の最大の要因がウィスキー市場への参入で、ウィスキー開発部のチーフ(同じ生物学出身)とアイが恋愛結婚し、養子として「キダ」姓を名乗り一族入りする。月日が経ち、義母が80歳となって引退が近いと踏み、ゴロウはもうすぐ義母が持ち株分を自分に譲渡して、名実ともに「酒屋キダ」の社主になれると信じていた。
 本題はゴロウが女で身を滅ぼすという話です。まず目下の愛人第一号であるユリという美貌の人気女優です(あれあれ「ユリ」という花の名前です。次のシマザキの小説のタイトル&主人公になる可能性あります)。駆け出しの頃にゴロウが目をつけ、ゴロウの人脈を使って芸能プロダクションに顔つなぎをしたのがきっかけで、人気女優の座を手に入れた、とゴロウは思っています。つまり自分は愛人&恩人であり、俺の方に足を向けて眠れないはず、と。ところが主演映画発表のレセプション会場で、ユリは冷たく急用ありとゴロウを避けてその場を立ち去ります。
 続いて愛人第二号のO(オー)という未亡人。彼女の亡き夫は「酒屋キダ」の平社員だった男で、Oも当時は共働きで「酒屋キダ」で働いていました。社に大きく貢献した良き社員という表向きの理由で、ゴロウは大きな葬式を出してやり、特例の慰霊見舞金を捻出してOに近づいていきます。そして未亡人に住居まであてがってやるのですが、そこが妾宅となり、昼夜を問わず好きな時に行って愛人遊びをするようになります。
 この愛人第一号と第二号が、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ理由でゴロウを振ってしまいます。「新しい恋人ができたから」と言うのです。そいつはどこのどいつだっ!とゴロウは激昂して聞きます。人物はともかく、ゴロウが絶対に信じられないのは、その二人の新恋人の職業がいずれも勤め人(サラリーマン)であるということなのです。 社長とサラリーマンを比べて、サラリーマンを選ぶ女などどこにあるのか、という単細胞です。社長に比べてサラリーマンなど取るに足らない人間である、という身分差別です。ゴロウには自分よりも下層民を好きになることなど想像もできないのです。
 ここから誘導されてテーマは大上段に「愛するとは何か?」ということに移っていきます。日本の俗物男は愛するとはどういうことか知っているか?日本の男は愛することができるか? このことはちょっと上に引き合いに出したベルギー作家アメリー・ノトンブの日本男性観にも関係します。その2007年の小説『イヴでもアダムでもなく』の中で、ノトンブは日本人の恋は "amour"ではなく "goût"であるという論を展開します。つまり日本語の「あなたが好き」は「好き」つまり好みのレベルに留まっていて、命がけ・狂気がけに昇華した西欧的恋愛ではないというようなことを言うのです。私は読んだ当時はむっと来ましたけどね、あとで当たらずといえども遠からずと思うようになりましたよ。この小説のゴロウはこれまで一度も女性を愛したことも恋したこともない。自分が好きになった女をものにするということに愛も恋も必要ない。自分が女をものにできるのは金と名誉があるからである。ー というレベルのマテリアリスムがものを言う世界にゴロウは生きているのです。 You don't know what love is.
 この小説の物足りなさはまさにこの単純化です。なぜゴロウがそのように人を愛せない人間になってしまったのかをこの小説で説明するのは、幼くして母と死別したことなのです。愛を受けたことのない人間は愛を与えることができない ー ちょっとこの分析簡単すぎませんか? ゴロウが女性を誘惑したあとで、必ずゴロウはその女性に自分の幼少時の不幸を告白するのです。女性はそこで「金と権力」ではないゴロウを見て、ふ〜っと心惹かれるのですが、ゴロウはそれをかなぐり捨てて金と権力の男に戻ってしまう。作者はこのパターンを3人の女性を相手に三度繰り返すのです。愛の萌芽を潰してしまうのはゴロウの根に付いた俗物性に他なりません。幼児体験を重視すると許容性が勝ってしまうではないですか。しかし作者は後者を選びます。
 ストーリーは、ゴロウの思惑とは裏腹に度重なる不倫を全て見抜いていた妻と子供たちの離反、二人の愛人からの絶縁宣告、そして「酒屋キダ」内でのゴロウの失権という、あらゆる不幸でゴロウを打ちのめします。この連続の不幸をゴロウは俗物ゆえに最初なぜこうなるのか全く理解できないのです。
 ページ数的にはあまり登場場面の多くない人物ですが、非常に重要な第4の女性が居ます。それはゴロウが見合結婚する前に付き合っていた貧乏高校生のサヨコです。八百屋でバイトしながら一間アパートで自活生活をするサヨコは、大学に進学して心理学を学びたいという希望がある。サヨコは他の女たちと違ってゴロウに媚びることなく、ゴロウよりもはるかにインテリなことを言って、ゴロウを批判したりもする。ゴロウが大企業の次期社長だと知っても、それが何なの?という態度。サヨコはゴロウの不幸は幼少体験の不幸なのではなく、人を愛せない不幸なのだと見抜いている。そのサヨコが交際の1周年を記念して、ゴロウにスイセンの柄の付いたネクタイをプレゼントするのです。ゴロウはその翌日に見合い相手と結婚するということをサヨコに明かしません。しかしサヨコにはこの不幸な男はそうやって去っていくということを悟っていたような。
 ゴロウがサヨコと別れた理由?それは俗物ゴロウが、貧乏サヨコと次期社長の自分では身分が違いすぎると思ったからなんです。ここのところとっても弱いように思いますよ。身分の違いで泣く文学っていくら日本でも21世紀的じゃないです。
 
 四重五重の不幸と罰と辱めを受け、すべてを失ったゴロウは名古屋から金沢までベンツを飛ばして、サヨコのことを回想してみるのです。愛することを知らない人間はやり直しができるのか、ということも。
 終盤にきれいなパッセージがあります。犬や猫やあらゆる動物を毛嫌いしていたゴロウが、自宅物置で針金に足を絡めてケガをしていた猫を助け、獣医病院に連れていくのです。「迷い猫ですね、治療が終わったらが引き取りますか?」と聞かれ、妻子に出て行かれひとり身になったゴロウは「飼います」と答えるのです。「でしたら登録しますから名前をつけてください」と言われ、サヨコの回想でやり直しの手がかりを掴みつつあるゴロウは「スイセン」と命名するのです。

 ちょっとステロタイプな日本の「男性原理」は、このゴロウというキャラクターから人間的な厚みを削いでしまっているように思います。挿入される(人気女優ユリ主演の)映画「お母さん行かないで」のストーリーも、ゴロウの母子愛渇望の涙を流させるために使われるのですが、いかにもチープなお涙ものです。あまり説明的にならずに展開して欲しいです。幼少時のトラウマが頑迷な俗物を生むということ、日本男性の恋愛情緒の薄さはどこから来るのかも掘り下げなければならないでしょう。この男は愛することを知らない。これは私も含めた日本男性のパッションのありかの問題で、この小説には答えはありません。では、また次作でお会いしましょう。

Aki Shimazaki "Suisen"
Actes Sud刊 2017年3月 160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆


2017年3月2日木曜日

あとで肘鉄クラウディオ

クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ...」(1974年)
Claudio Baglioni "E Tu..." (1974)

 1951年ローマ生まれのカンタオトーレ、クラウディオ・バリオーニの5枚目のアルバム『エ・トゥ...』 (1974年)はパリ録音。軍政ギリシャを逃れて1968年にパリで結成されたギリシャのプログレッシヴ・ロックバンド、アフロダイティーズ・チャイルド(デミス・ルソス、ルカス・シデラス、エヴァンゲリス・パパタナシウ)は1970年に解散するが、その後も後年「ヴァンゲリス」として知られることになるエヴァンゲリス・パパタナシウ(72年頃「エ」が取れて、ヴァンゲリス・パパタナシウに)はパリで映画音楽やソロアルバム制作をしていました。1974年には英プログレ・バンド、イエスからリック・ウェイクマンが脱退し、その後釜キーボディストとして加入をオファーされてヴァンゲリスはその夏2週間に渡ってイエスとリハーサルしているが、加入には至っていません。そんな時期にこのクラウディオ・バリオーニとの仕事はやってきた。このアルバムでヴァンゲリスは全曲の編曲を担当している他、ドラムス、エレピ、ハモンド、各種パーカッション、ハープ、電子ハープシコード、クラヴィネット、フルート、マリンバ、ヴァイブラフォン.... まあまあ八面六臂のアシュラ様だったのです。
 アルバム表題曲でシングル盤となった「エ・トゥ...」はその年イタリアのチャートで11週間連続の1位、50万枚のセールスを記録する大ヒットとなりました。夕暮れの浜辺、いちゃつく男女のシルエットという、いかにも、のジャケに彩られた必殺のラヴ・スローバラードです。何の解説も必要としない。歌詞は訳すのもかったるい浜辺ラヴソング。この歌は後年もバリオーニのエヴァーグリーンとしてライヴのレパートリーに欠かせない曲になってますが、オリジナルにはなかった「アウトロ」がどんどん重要になっていく、という珍しい進化を遂げて40数年熟成の名曲になっています。
うずくまって海の音を聞いていた
息もせずに
どれほどの時間が流れたことだろう
指できみの横顔をなぞる
風がやさしくきみの服を撫でていく

そしてきみは
僕にまなざしを
僕に無邪気な微笑みを
裸足の僕は
きみの髪を撫でていた
蟻んこと遊ぶのをやめて
眼を閉じた
もう何も考えない
きみは寒くないのかい
きみは寒くないのかい

夜の闇に隠れていた星たちが現れ
突然きみの肌に震えが
そして息が切れるまで
二人で競争して走った
どちらが先にめげるか

そしてきみは
僕の様々な考えの一つ一つに 
ため息をつき
僕は押し黙った
すべてをぶち壊しにしないために
そして一本の草を
きみの唇に当てた
きみがもっときれいに見えるかもしれないと
髪の毛を持ち上げてみた
きみのことがますます好きになる
きみのことがますます好きになる
ひょっとしてきみは僕の恋人なの?

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなんて

戯れに二人は着たままで海に飛び込んだ
口づけ、もう一度、もう一度
何もきみに言えなくて

きみは透き通っていて
やさしく
きみはすでにすべてがあった
でも僕には
信じられなかった
僕はきみを固く抱きしめた
二人の衣服はびしょ濡れで
冗談だったねと笑い合った
急にやめてしまったけれど
僕はね、本当はね
きみが必要なんだ
きみが必要なんだ
僕に少しの愛をくれないか

そして今や僕にはきみしかいない
僕の心の中で輝いているのは
たった一人きみしかいない
これ以上僕には何ができるだろう
もしもきみがいなくなったら
この恋をもう一度取り戻すことなん

(↓)クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」(1974年)


(↓)フランスも1976年までテレビは白黒だった。イタリアも事情は同じか。1974年テレビショーライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。時代はベルボトムだった。


(↓)1982年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがかっこよくなってる。


(↓)1991年ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロがますますかっこよくなってる。


(↓)2001年ピアノ弾語りライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。伸びすぎる声でアウトロいらず。


(↓)
2010年ロンドン、ロイヤルアルバートホール・ライヴ、クラウディオ・バリオーニ「エ・トゥ」。アウトロで立ち上がりギターに持ち替える。アウトロで客席にイタリア国旗が翻る。そういう歌なんだから、もうイタリア国歌になってもいいほど。





2017年2月25日土曜日

クメールのことよ

Banteay Ampil Band "Cambodian Liberation Songs"
バンテイ・アンピル・バンド『カンボジア解放の歌』


 利チエミのCDをフランスで復刻リリースしたファブリス・ジェリーの独立レーベルAKUPHONEの2017年2月新譜。1982年録音。十数年も前から続いているカンボジア内戦の真っ只中。カンボジア西部タイ国境付近に拠点を置く反ベトナム/反カンプチア人民共和国(親ソ連・親ベトナム派ヘン・サムリン政権)のレジスタンス機関(ソン・サン派)クメール人民民族解放戦線(FNLPK)の教宣活動音楽バンドがこのバンテイ・アンピル・バンド。
  その状況を理解するために、カンボジア現代史をおさらいすると、1953年にフランス保護領から完全独立し、ノロドム・シハヌークを国家元首とするカンボジア王国が成立。国王は映画と音楽を愛する文化人として知られ、映画監督、歌手としてもデビューしかけたことがある。またアコーディオンは名手トニー・ミュレナに 教わっている。国民に愛された国王であった。本CDの詳細なライナーノーツには、比較的平和が保たれた50/60年代のシハヌーク治世下で、首都プノンペンではジャズ、ラテン、ロックンロールが流行 し、多数のローカルバンドがラジオやクラブを席巻していたと記述されている。そのスウィンギング・プノンペンの黄金時代に王宮ダンスホールでは国王がバン ドマスターのジャズバンドが演奏していた。60年代後半、隣国でベトナム戦争が始まり、アメリカ軍の参戦/北爆に反対してアメリカと国交断絶もしている。しかし1970年に親米派のロン・ノル将軍がクーデターを起こし、シハヌーク派は追放され、クメール共和国が成立した。
 ロン・ノルはベトナムでの共産主義勢力を攻撃する米軍と南ベトナム政府軍に協力し、カンボジア国内の(北勢力に協力的と見なされる)ベトナム移民を迫害し、カンボジア国内の共産勢力拠点も米軍に爆撃させた。このロン・ノルのクメール共和国に最も激しく抵抗したのが、マオイスト系共産主義革命組織クメール・ルージュであった。このグループは在パリのカンボジア人留学生たちによって1960年代に結成されたものだが、70年代の米軍のカンボジア爆撃とロン・ノルの弾圧政策によって急激に支持層を増やしていく。73年、ベトナムから米軍が撤退し、ロン・ノルは後ろ盾を失い、ポル・ポト率いるクメール・ルージュはカンボジア全土を掌握し、1975年にロン・ノルがアメリカに亡命、クメール・ルージュ政権が誕生し、国名を「民主カンプチア」とした。
 (とここまで書いて、資料を書き写すのに嫌気がさしてきた。カンボジア、ベトナム、アメリカの三つ巴戦争、中ソ対立による共産ベトナム対共産カンボジアの代理戦争、ポル・ポトの狂気のような原始共産制構想、大虐殺...。あの頃、私たちは何も知らずに一体何をしていたのだろうか。)
 1975年以前、ベトナム・米軍によるカンボジア人犠牲者の数は60万〜100万人、76年から79年のポル・ポト政権時代のカンボジア人犠牲者の数は100万〜300万人。カンボジア全土は廃墟と化した。
 1979年暮れ、廃墟同然のプノンペンに入城しポル・ポト政権を打倒したのはベトナム人民軍。元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命していたヘン・サムリンを擁立してベトナム傀儡政権である「カンプチア人民共和国」が誕生。
 このCDの音楽が作られた「現時点」はここなのである。
 ベトナム傀儡政権へのレジスタンス組織クメール人民民族解放戦線(FNLPK)は、シハヌーク治世時代(1967年)の元首相 ソン・サン(1911-2000)によって1979年に創設され、その拠点をタイ国境に近いバンテイメンチェイ州アンピルに置いた。ソン・サンは右派共和主義者で、FNLPKは「虐殺政治クメール・ルージュの復帰阻止」、「ベトナム軍による占領の廃止」、「カンボジア再建」を3つの目標として掲げ、アンピルの難民キャンプから反政府ゲリラ攻撃をかけていた。しかし1番目の目標にも関わらず、FNLPKはクメール・ルージュとも手を組み、「カンプチア人民共和国」を打倒するために、ポル・ポト派、シハヌーク派、サン・ソン派は「三派共闘」を展開することになる。

 サン・ソンが クメール人民民族解放戦線のプロパガンダ活動に音楽が必要と、アンピルの難民キャンプで結成させたのが、このバンテイ・アンピル・バンドなのである。
 女性シンガー2人、男性シンガー3人、インストルメンタリスト5人(ヴァイオリン、キーボード、ギター、ベース、ドラムス)の10人組。 右の写真を見る限りでは、リーダーのウーム・ダラ(Oum Dara。1940年生。ヴァイオリン、キーボード、作詞作曲)を除いてはみんな十代〜二十代の若者たちのようだ。
 ウーム・ダラは50年代にフランス人教師からヴァイオリンを学び、17歳で音楽で身を立てることを決意、ピアノなど他の楽器もマスターし、国立劇場つきの伴奏楽団やカンボジア国営ラジオで演奏するようになる。西洋音楽のコピーに飽き足らず、1960年25歳で作曲を始め、 その最初のヒット曲が人気女性歌手ロ・ソレイソティア(1948-1977。日本語版ウィキペディアには「(クメール・ルージュ)強制労働キャンプに閉じ込められている間に、死亡したと考えられている。」との記述あり)のためにウーム・ダラが作詞作曲した「Chas Chu Em」だった。その後数々のヒット曲を生むのだが、1975年クメール・ルージュが権力に就くや、抑留され、音楽活動を一切禁止されただけでなく、作曲した譜面は全て焼却された。音楽家たちの多くが「粛清」された中、ウーム・ダラは身分を隠し生き延びた。そして1979年、FNLPKを組織したソン・サンに招かれ、アンピルの難民キャンプに合流し、音楽監督としてキャンプの若者たちを養成して結成したのがバンテイ・アンピル・バンドである。
 バンドの楽器はベトナムのカンボジア侵攻に反対する国々(USA、タイ、マレーシア、マレーシア)で構成する機関(ライナーノーツには "ASEAN WORKING GROUP"と記述されている)から寄付されていてる。彼らはFNLPKのオフィシャルな行事の他、難民キャンプを回って演奏し、その歌は「ラジオ・クメール・ヴォイス」(またの名を「解放ラジオ」。シハヌーク派とソン・サン派の共同海賊放送で、タイから放送されていた)の電波で人々に知れ渡った。歌のテーマは、愛国、民族意識鼓舞、抵抗戦士賞賛、反ベトナム、反共産主義などで、もっぱらソン・サン派人民民族解放戦線のプロパガンダであった。
1982年、バンテイ・アンピル・バンドは "ASEAN WORKING GROUP"の支援で極秘のレコード録音を敢行する。バンドは陸路でタイのバンコクまで行き、次いで飛行機でシンガポールに至り、録音スタジオで一夜のうちに全曲を吹き込む。その際バンドは写真撮影禁止を厳命されていた。
 アルバム『CAMBODIAN LIBERATION SONGS(カンボジア解放の歌)』はバンテイ・アンピル・バンドが残した唯一の録音であり、1983年からLPとカセットで流通している。アジアで、アメリカで、フランスで、オフィシャルな配給経路を通さずに、口コミのみでアルバムは人の手に上り、幾多のカセットコピーが末端に広がっていった。
 英語とフランス語で書かれたライナーノーツは、このアルバム誕生の経緯に詳しいが、結論部にはこう書かれている:
このプロパガンダ・レコードはベトナム人(ベトナム系カンボジア政府軍)とクメール系反対勢力の内戦の時期に作られ、クメール民族が独立国としての主権と土地と文化を失ってしまうことの懸念を表現している。しかし1979年ベトナム軍侵攻以降のベトナム人移民の大流入の以前にも、ベトナム人は17世紀初頭からカンボジア国内に多く住んでいた。「複数の民族性」を認めようとしない傾向のあるこの国にあって、その先人たちの多くはカンボジアに骨を埋め、自分たちを「カンボジア人」とみなしていた。このベトナム人への恐怖が、歴史的に政治利用されたことはしばしばあり、このレコードは明白にレジスタンス運動への支持と「敵」に抗して団結するよう訴えている。

 ちょっと聞くと牧歌的でさえあるフォーク・ロックの数々。この解放と自由を希求するレジスタンスの歌は、一方ではその「敵」である特定の民族を攻撃・憎悪するメッセージを含んでいる、ということを無視してはいけない。いくら難しいと言われようが複数の民族性の同居は可能であり、実現させなければならないと思いますよ。

<<< トラックリスト >>> 
1. MY LAST WORDS
2. PLEASE TAKE CARE OF MY MOTHER
3. TUOL TNEUNG (THE HILLOCK OF THE VINE)
4. DON'T FORGET KHMER BLOOD
5. SEREKA ARMED FORCES
6. FOLLOW THE FRONT
7. I'M WAITING FOR YOU
8. PLEASE AVENGE MY BLOOD, DARLING
9. DESTROY THE COMMUNIST VIET !
10. LOOK AT THE SKY
11. VIETNAMESE SPARROWS
12. THE VIETNAMESES HAVE INVADED OUR COUNTRY

BANTEAY AMPIL BAND "CAMBODIAN LIBERATION SONG"
CD/LP AKUPHONE AKU1004
フランスでのリリース:2017年2月

(↓)BANTEAY AMPIL BAND "MY LAST WORDS"



(↓)BANTEAY AMPIL BAND "PLEASE AVENGE MY BLOOD, DARLING"



(↓)BANREAY AMPIL BAND "LOOK AT THE SKY"

2017年2月17日金曜日

おいしい水

Aquaserge "Laisse ça être"
アクアセルジュ『レス・サ・エトル』

 語わかる人なら、この一見奇妙なアルバムタイトルは英語『レット・イット・ビー(Let it be)』の仏語直訳のであると気づくでしょう。ビートルズへの目配せがそんなに重要なバンドではないような感じがしますが、世界のどこにビートルズに影響されていないバンドがありましょう? たぶん、リーダーのバンジャマン・グリベールが「タイトルをどうしようか?」と悩みに悩んでいた時に、聖母マリア様が顕現して、その叡智の言葉として「レット・イット・ビーなんかどう?」とのたもうたのでしょう。
 トゥールーズの人たちです。フランス語で歌うジャズ・ロックです。2010年代の仏語アンダーグラウンド・ムーヴメントを支援するメディア(ウェブジン)LA SOUTERRAINE の周辺では最も高い評価を受けているバンドの一つで、これが4枚目のアルバムになります。今回は世界配給がベルギーのCRAMMED DISCSですから、やっと世界的に知られるようになるかもしれません。
 バンド名アクアセルジュは「水」と「セルジュ」の合成とみなしていいのでしょうが、その後半の「セルジュ」というのは、誰が見てもゲンズブールあやかりと思われましょう。そのセルジュ・ゲンズブールが1978年にジェーン・バーキンに書いた曲で「アコワボニスト Aquoiboniste」というのがあります。アコワボニストとは何に対しても"A quoi bon ?"(ア・コワ・ボン?それが何なのさ?)と言う傾向のある、やる気も関心も情緒も欠落している人間のことで、この語を発明したのはボリズ・ヴィアンであるという説もあります。ア・コワ・ボン? しかしてゲンズブール流言葉遊びの流儀に従えば、このバンド名は
A quoi sers-je ? 
 (ア・コワ・セール・ジュ? 私は何の役に立つのか?)
と書き換え可能でしょう。
 しかしながら、このバンドが熱心なビートルズ・フォロワーでないのと同様に、ゲンズブール的要素もあまりないのです。あるとすれば、ゲンズブール『メロディー・ネルソン』時のジャン=クロード・ヴァニエの作編曲&サウンド環境作りには大いに影響されている風には聞こえるということでしょうか。
 女性二人(クラリネット奏者、ベーシスト)を含む5人組が基本フォーメーションで、豪州のサイケデリックバンド、テーム・インパラに出稼ぎ参加しているドラマーのジュリアン・バルバギャロがここに加わることもあり。これに4人ほどのホーン隊が加わったトランス・ジャズ楽団が「アクアセルジュ・オーケストラ」で、この名義で別行動もしています。またバンジャマン・グリベール(ギター。一応リーダーと呼んでいいのかな?)、ジュリアン・ガスク(キーボード)、前述のジュリアン・バルバギャロ(ドラムス)はそれぞれソロアルバムも出していて、2000年代からフレンチ・サイケデリック・アンダーグラウンドの顔役(アクア役)として暗躍しています。
 この4枚目のアルバムはアクアセルジュ・ファミリー総出演のビッグバンドっぽい音です。言い訳程度に歌詞(歌)が入ってますが、アクアセルジュは基本的にインストバンドだと思っていいでしょう。詞と言ったって、ダダでナンセンスでシュールなものでして...。
きみ自身の足で歩くっていうことは
きみは世界一周をしたってことだよ
鏡に映ってるのがきみの顔だっていうことは
きみはモナリザではないってことだよ
       ( 世界一周 Le tour du monde)

Vis ta vie de bete en enfer(ヴィ・タ・ヴィ・ド・ベート・アン・アンフェール)
fer à cheval dans le soda (フェール・ア・シュヴァル・ダン・ル・ソーダ)
seau d'armes à feux dans la cité (ソー・ダルム・ア・フー・ダン・ラ・シテ)
Si t'es coco c'est pas facile(シ・テ・ココ・セ・パ・ファシル)
Fa si la sol fa mi ré do(ファ・シ・ラ・ソル・ファ・ミ・レ・ド)
domination colonialiste (ドミナシオン・コロニアリスト)
       (Tintin on est bien mon loulou)

(↑)の2番目はナンセンスなしりとり歌なので訳さずにカタカナ表音転写だけしましたが、アホらしい楽しさがわかってくれればいいです。歌詞は全然重要じゃないんです。それでいいんです。このバンドの本領はインスト・アンサンブルの妙です。この音楽の旅はクラウトロックカンタベリー派、プログレ、サイケデリック、ノイズ... フリー・ジャズ、コズミック・ジャズ、シャンソン・ダダ... など1曲の中で様々な停車場に立ち寄るパノラマ列車のよう。早くなったり遅くなったり、ダンスを拒む変拍子になったり。リファレンスとして見え隠れする名前は、カン、ムーンドッグ、フォンテーヌ/アレスキー、アルベール・マルクール、ジャン=クロード・ヴァニエ、ロバート・ワイアット、キング・クリムゾン、ジョン・コルトレーン...。
  注目:7曲め "CHARME D'ORIENT"で、アシッド・マザーズ・テンプルKawabata Makoto(河端 一)がギターで参加してます。
 こんな名前が並ぶと「高踏派なんだな」と身構えるかもしれませんが、全くその必要なし。そりゃあムードイド(2013年デビューの仏サイケデリックのメジャーバンド。2015年に来日もした)のような大掛かりなポップさはありませんが、名前の通り流れる水のようなフレッシュさが身上。これをブラジルの先人は Agua de beber (飲み水ですよ)と歌い、その歌を故ピエール・バルーは Ce n'est que de l'eau, camarade (ただの水だよ、同志)と仏語訳して歌ったのでした。 けだし、アクアセルジュはただの水だよ、同志たち。

<<< トラックリスト >>>
1. TOUR DU MONDE
2. VIRAGE SUD
3. TINTIN ON EST BIEN MON LOULOU
4. SI LOIN, SI PROCHE
5. C'EST PAS TOUT MAIS
6. L'IRE EST AU RENDEZ-VOUS
7. CHARME D'ORIENT
8. LES YEUX FERMES

AQUASERGE "LAISSE ÇA ETRE"
CD/LP ALMOST MUSIQUE
フランスでのリリース:2017年2月3日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アクアセルジュ「世界一周 LE TOUR DU MONDE」フランス国営ラジオFRANCE INTERスタジオ・ライヴ


(↓)アクアセルジュ「南カーブ VIRAGE SUD」ヴィデオクリップ